濡れ衣を晴らしたら虹が出ました
死刑廃止論者の主張の一つに、「冤罪の時に取り返しがつかない」というものがある。
なんと馬鹿馬鹿しい話だろう。生きてさえいれば一度、罪を被せられてもどうにかなるとでも思っているのだろうか? 冗談ではない。それまで地道に、コツコツと積み上げてきたものを台無しにされる。培ってきた土台を勝手に崩され、何もないどころか奈落の底へといきなり放り出される。「命あっての物種」とか、「死んで花実が咲くものか」とか、そういう言葉はあくまで激励のためにあるものだ。「だからもういいでしょ?」なんて許しを請う詭弁にはならない。
一度、深く傷つけられた心はもう二度と戻らないのだ。
「……だから俺たちのことも許さないと言いたいのか、東雲」
私に向かって真っすぐ、刀を突きつけた彼はそう尋ねる。その目は曇天のように濁っていて、一切の光も宿していないようだ。それに乾いた笑みを返すと、私は生ぬるい空気と共に声を発する。
「私の罪は無実でも、あなたたちの仕打ちは紛れもない事実なんだもの。家族も友人も、それから婚約者も。みんなが私の言うことを信じず一方的に詰って、罵倒して、そうして大雨の中へと放り出した。あの日の雨は忘れられないわ……ねぇ霧彦、あなたはどうなの?」
かつての婚約者だった彼の名前を呼べば、霧彦は気まずそうに目を逸らす。その横顔は端正で、溜め息が出るほど美しかったが……今の私には風に流され、ただ動くだけの雲のようなものにしか思えない。悲し気に見えてもその実、自分で動こうとはしないのだ。彼は……いや、この国の人間はみんな、そうだった。
気象操作装置『セイメイ』。天気を操る、という単純ながら凄まじい力を持つそれは我が国にとって救世主のような存在だった。荒天を防ぐ、農業の安定を図る、国防や娯楽……色々と理由は挙げられるが、自然災害の多かったこの国にとってその機能性は太陽の光よりも眩しく、輝かしいものだっただろう。だからその裏にある危険性――この装置に『気』を流し込む人間の苦痛とか、たった一人の過失によって甚大な被害が出るかもしれないとか、そういった問題を無視して早々にこの国の根幹へと取り入れた。それが絶望の嵐を引き起こすことなど露知らず、ただ晴れ晴れとした表情で「新たな時代の幕開けだ」などとのたまっていたのだ。
「『セイメイ』に力を注ぎ、その運用を支えるのはとても名誉なことだと。素晴らしい、君にしかできないことだと。あなた方はそう、おっしゃった。私は嫌で嫌でたまらなかったのに……けれど『セイメイ』は誤作動を起こし、一部地域に大雨を降らせると多数の死者が出してしまった。あれはとても不幸な事故で、原因は私ではなく装置の方にあったわ。私はきちんと手順を踏んで操作していたんだもの。毎日毎日、疲れて疲れて仕方がなかったけどきっちり仕事はこなした。でも……あの時、周りにいた人間は全てを私のせいにした。『セイメイ』の操作に嫌気のさした私が気を抜き、もしかしたら意図的に誤作動を起こし災害をもたらしたのではないか、と」
私の言葉に、霧彦がぐっと刀を握る手に力を込める。鈍い光を放つその刀身は、台風を呼ぶ黒雲のようだ。今、霧彦がそれを振り上げれば私の体は雷に打たれたように切り裂かれ、バラバラになるだろう。――だけど、霧彦はそれをしない。ただ小雨のようにぽつぽつと、か細い声で言葉を紡ぎ出す。
「『セイメイ』は大国から受け入れられた完璧な装置だった。過ちを犯すことは絶対にない、神のような道具だと……数万分の一の確率でそれが故障することもあるなんて、俺たちは知らなかった。君は日頃から『セイメイ』操作責任者としての任務を嫌がっていたし……事故が起こるまで『セイメイ』は完璧に動いていたし、その性能に疑いを持てば国と国との関係が乱れる可能性がある。だから、装置そのものが誤作動を起こすよりそれを動かしている人間の方が間違う可能性が高いと誰もが思ったんだ……」
「だから、みんな私に罪を着せた。『身勝手な理由で国を滅ぼそうとした悪女だ』と石を投げ、大雨が降る日に私を身一つで都から放り出した。『この雨など、お前が殺した人間たちの涙に比べれば雫のようなものだ』と……そう言ったのは他でもない、あなただったでしょう」
務めて平静を装おうとしているが、私は自分の手がブルブルと震えていることに気がつく。駄目だ、辛い記憶を思い起こしているとすぐこうなってしまう。打ち付けるような雨の中を必死に歩き、その寒さによって体を壊した私は生死の境をさまよった……その時の絶望と恐怖は今なお、この体に染みついている。だがそれを目の前の霧彦に気取られてはなるまい、と必死に自分の手を握りしめていたら霧彦は「そういえば」と重い口を開く。
「君と初めて会った日は、今日のような晴れた日ではなかったな」
「嘘。それはあなたが親の決めた婚約者である私が気に入らないから、心がどんよりと曇っていたからそう感じただけでしょう。私はこれから夫となる人に会うのが楽しみで、前の日は星空に向かってお祈りをしていたんだもの……私たちの顔合わせの日は、とても綺麗に晴れた青空だった」
「そうだったかな。でも俺は、君を見て一気に気持ちが晴れやかになったのを覚えているよ。太陽のように眩しく、美しい人だと。この女性を、一生を添い遂げる妻として大切にしようと心に誓った……それだけは本当だったんだ、信じてくれ」
「……あなたは私を信じてくれなかったのに、私には自分を信じろと言うの?」
わずかに恨みを籠らせ、差し迫ってくる雷のような声を出せば霧彦はたじろいだ様子を見せる。それでも、私に向けた刀を下ろすことはせず――代わりに、私が纏った白無垢を上から下までじっくりと見つめる。
「たまたま、事情を知らない辺境の村に住んでいた方が私を拾ってくれ――私は一命を取り留めた。その方は私を大災害をもたらした悪女・東雲だということに薄々勘づいていたけれど私の人となりを見て『本当にそうなのか』と疑問を抱いてくれた。そうして、村で『志乃』を名乗って暮らしているうちに……私は運命の人と出会った」
「……その間、俺たちは新たに選ばれた『セイメイ』の操作責任者が次々に疲弊し、最後には姿を消してしまうことに頭を抱えていた。曰く『気』の調整がとてつもなく難しいとか、こんなものを寸分たがわず操作することなど不可能だと……そうやって『セイメイ』を誰も動かすことができなくなった頃、ようやく大国の者が『セイメイ』の欠陥報告をしに来たんだ」
それで、今に至るというわけだ。
この国では指折りの名家に生まれた令嬢・東雲。その罪が冤罪だったと知ると、今度は「それまで『セイメイ』を使いこなしていた技術力が惜しい」「その血筋を絶やすのはもったいない」ということで慌てて私を探そうとしたのだ。もっとも、私が生きている可能性を考慮していたのはきっと霧彦だけだっただろう。父と母には勘当を告げられ、面と向かって「死んでしまえ」とまで言い渡された。それまで仲良くしていた友人たちもみんな、山の天気もかくやというぐらいに手の平をひっくり返し私に対する態度を豹変させたのだ。そもそも視界も悪く、気温も低い大雨の日に都から遠く離れた僻地へ放り出したところで最初から死刑にしたようなものだったのだろう。あの日、私は「天は自分を見放した」と思ったが今となってはそれも宿世だったのかもしれないと思っている。そうでなければ、きっと私は霧彦と結婚し『セイメイ』を動かすためだけの道具として生きていただろうから……目を瞑り、暗闇の中でその奇跡を実感していたら霧彦が一歩、私の方へと詰め寄る。
「東雲。君の罪が濡れ衣だったことは広く知れ渡った。今は君が都に戻ることを、誰もが願っている。俺だってそうだ、だから……戻ってきてほしい」
「こちらに刀を突きつけておいて、それを言うのは『お願い』ではなく『脅迫』よ。……私は今日、『志乃』としてこの村の猟師である鉄平さまに嫁ぐの。私が自分の『気』を使うことは、今後一切しないと約束する……と言っても、あなた方はどうせまた誰も信じてくれないでしょうね。父上があなたに下した命令は、『東雲を見つけたら連れて帰り、また都で働くように命じろ。それに逆らうのであれば、殺してしまえ』というところかしら……でも、私は嫌よ」
時化のように吹き荒れる心を必死に抑えつつ、私は霧彦の方を見据える。私と彼の視線は互いにぶつかり合い、空中で火花を散らした。
はるかに国力の高い相手から輸入された、革命的な装置。それに不具合があったところで、正面から文句を言えなかっただろうという事情はわかる。『セイメイ』の作動を嫌がっていたのも事実だし、状況的に見れば私が疑われてしまうのも仕方がないことだろうとは思った。
けれど――私はそれでも、信じてほしかったのだ。
厳しいながらも慈しみ、愛情を持って育ててくれた両親。他愛のない話で盛り上がり、共に笑ったり泣いたりした友人たち。そして、政略のためとはいえ結婚を約束し穏やかな絆を築き上げてきた霧彦。例え何があっても、彼らは私の味方だと思っていた。どんなことがあっても互いに助け合い、手を取り逆境を乗り越えられると思っていた。少なくとも私は、もし自分以外の誰かがそうなったとしてもできる限り本人の言うことを信じてあげようと思っていた……だが、それは脆く崩れ去ってしまったのだ。もう二度と戻らない。
「東雲。本当にこんなところで、泥だらけの湿気った一生を送るつもりなのか? 都に戻れば金も地位も、望むものは凡そ手に入る、俺も君の家族も、贖罪のためならばきっと何だってするだろう。……君は明るい日の下で、輝かしい日々を過ごすべきなんだ。今ならまだ間に合う、頼む。戻ってきてくれ」
「いいえ。今の私は、志乃よ。確かに都は素敵なものであふれている。高級なものも、珍しいものもたくさんある……けどそれは全て、かつて私をどん底に貶めたもの。私は辛かった、苦しかった、とてもとても悲しかった! ……それを忘れて昔に戻ることなんて、私にはできない」
白無垢を纏った自分の体に、力が入る。
大雨に打たれ、汚れてボロボロになってしまった私を助けてくれた人たちがいた。これから嫁ぐことになる、鉄平さんがそのうちの一人だ。彼は霧彦のような美男子ではないが、入道雲のようにどことなくどっしり構えたような存在感を持つ人だ。口数は少ないけれど、どんな相手にも礼儀を欠かさず自分より他人のことを優先したがる。
『たまたま獲れたから。あなたのような方の口に合うかはわからないが』
出会ったばかりの頃。そう言って熊肉を差し出した彼の態度は、素っ気なくどよんとした雲のようだった。けれど、流れ者の私を気にかけ面倒を見てくれたその姿には確かな優しさがあった……これはあとから聞いたのだが、鉄平さんは「熊の肉は滋養にいいから」と言って毎日、必死に熊を狩りに行っていたらしい。本当なら高値で売れるはずのそれは、実はこの世のどんなものよりも価値のある大切なものだったのだ……それに気づけたから私は、「志乃」として生きていくことに決めた。霧彦の言う通り、ここはかつて「東雲」がいたような、眩しく晴れやかな場所ではない。でも太陽のように温かく、唯一無二のものがある場所なのだ……その決意が伝わったのか、霧彦は一度頷くと静かに刀を振り上げる。
「なら仕方がない。――信じてくれなくていいが、これだけは言わせてくれ。愛していた、東雲」
その刃先が、稲妻のように私へ降りかかろうとした瞬間――
霧彦の手を掴む、太い腕が現れた。
抵抗しようとしたのも束の間、その腕はあっという間に霧彦の刀を奪い取り全身を使って霧彦を組み伏せてみせる。
「俺の妻を傷つけるのなら、お天道様だって容赦しない」
野太い声で、そう言い切った彼に私は思わず安堵の表情を浮かべる。
「鉄平さん!」
「心配するな。殺しはしない。……だが今は、熊が周りをうろついている時期だ。下手にうろつくと、亡骸も残らんぞ」
鉄平さんは、霧彦に向かってそう凄むとさらに力を込め霧彦の体に圧迫感を与える。霧彦は悔し気にそれを睨み返すが、鉄平さんには敵わないと悟ったらしく――自嘲気味にふっと笑ってみせる。
「わかった、もう俺の負けだ。……戻ったら、東雲は病で亡くなったとでも伝えておこう。だから、その手を放してくれ」
「……二度と俺の妻に手を出さないと誓うか」
鉄平さんの言葉に霧彦はしばらくの逡巡の後、黙って頷く。そうして、やっと鉄平さんから解放されれば霧彦は目を伏せ、雨に降られた子どものように行き場のない表情をしてみせる。
「……とにかく、私はこれから『志乃』として生きていきますから。帰ってください、霧彦さん」
できるだけきっぱり、そう告げると霧彦は一瞬だけ悲しそうな表情をみせる。しかしそんな私の肩を鉄平さんが抱き寄せるのを見て――霧彦は何も言わずにその場を立ち去っていった。
「大丈夫ですか、鉄平さん」
「……あんな男、熊に比べれば屁でもない」
霧彦の後ろ姿を忌々し気な目で見送っていた鉄平さんは、そう呟くと不意にこちらから顔を背ける。炎天下に立っていたように、耳まで真っ赤になったその姿からは照れが感じられた。普段は手を繋ぐのも恥ずかしがるのに、先ほどまで私とぴったりくっついていたことに気がつき急に羞恥心が湧き上がってきたらしい。その姿がおかしくて、私はクスッと笑ってしまう。
霧彦という名前の男が私を探している、という話を聞いて鉄平さんはかなり色々考えたようだが……最終的に私の意思を尊重したい、と言ってくれた。その上でこうして話し合いをすることになったが、霧彦は私に刀を向けてきて……それでも私は、恐ろしいとは全く思わなかった。
「東雲」から「志乃」に生まれ変わるのには必要なことだから、そしてもし危険な目に遭っても鉄平さんが助けてくれるとわかっていたから。だから私は今日、霧彦に別れを告げた。ずっと、心のどこかで振り続けていた雨を晴らすために。鉄平さんと夫婦になり、「志乃」という一人の女性として新たに生まれ変わるために。それが終わった私はそっと、鉄平さんにしなだれかかる。
「幸せになりましょうね、鉄平さん」
そう言えば、鉄平さんはぎこちなく頷く。
泥だらけでも、湿気っていても構わない。なぜなら――雨はいつか止むし、その後には美しい虹が出ることもあるのだから。
「……幸せになろう、志乃」
相変わらず顔を赤くしながら、それでも小声でそう言ってくれた鉄平さんに私は確かな温もりを感じるのだった。