後編
絶句したヴィクターはその場に立ち尽くした。
――ステラか、領民。
男の話から推測するに、この男の仲間がステラを狙っているということだろう。そしてこの男はヴィクターが屋敷に戻るのを阻害しに来た。すなわち、今この瞬間、屋敷が襲われているということだ。
男は剣を持ってはいるものの、こちらは御者とエリック、自分の三人。
三人とも武闘派ではないが、本気で抵抗すれば男を行動不能にまでは出来ないまでも、自分たちが逃げ出すことは出来そうである。
しかしその代償として、街に火を放つ。
ヴィクターの頭の中を、ステラの笑顔がよぎる。
屋敷に私兵を配置してはいるが、それほど多くない。夜には通いの使用人は帰るので、屋敷内の人は減る。
武装した集団に襲撃されたら、きっと対応できない。そうしたらステラは――。
一方、軍師から過去に言われた言葉もこだまする。
あの時、「これからも領民を大切にする気持ちを忘れないでくれ」と言われた。良い統治者だとも。
彼の言葉を誇りにしてきた。領民がいるから、自分があるのだ。
軍師を裏切りたくはない。
ステラも元王族。それを理解してくれるはずである。しかし――。
苦悩するヴィクターに、男はほくそ笑む。
「ふん、考えな考えな」
忌々しい男の声に顔を上げると、遠くにそびえる要塞が目に入った。
ヴィクターは、はっと気付いて瞠目した。
――そういえば、あの街は。
決断したヴィクターはキッと視線を向け、エリックに目配せした。
頷いたエリックが後ろに立つ男の腹に思いっきり肘を食らわせ、ひるんだところで顔面に拳を入れる。
ガツンと鈍い音がして、男は剣を持ったままよろけた。そこにヴィクターが一発腹に打ち込むと、男はうずくまった。
「痛ってえ!! お前ら!」
「行くぞ!」
ヴィクターは男の馬を放してしまってから、エリックと共に、急いで馬車に乗り込んだ。
「出してくれ! 屋敷だ!」
御者に命じて馬車を走らせる。後ろから男の叫び声が聞こえた。
「無駄だ! どうせもう間に合わねえよ!」
ヴィクターはそれを無視した。
♢
屋敷まではすぐだ。
御者が少しでも早く、と馬を急かす。ヴィクターは馬車の手すりを握る手に、祈るように額をつけた。恐ろしさのあまり手が震える。
なんとか無事でいてほしい。なんとか――。
屋敷が見えてきて、ヴィクターとエリックの二人は暗がりの中、目を凝らした。人が集まっていることもなく、騒々しい雰囲気でもない。
少し離れた場所に馬車を止め、様子を窺う。屋敷からは灯りが漏れており、しかし入口の扉は不自然に半分開いていた。
「……なにかあったんだ。君、警邏隊まで行ってきてくれ。一応、要塞の方にも派遣してもらうように。エリックは俺と一緒に」
御者を警邏隊へやり、エリックと共に足音を立てないように中に入る。
家の中はめちゃくちゃだった。花瓶は割れ、床は泥で汚れた足跡。外に面したガラス窓は一枚割れていた。しかし、話し声などは聞こえない。異様に静かだ。
最悪の事態を想像し、喉が締まるかのように呼吸が浅くなる。
ヴィクターは割れそうになる心臓の辺りを押さえながら、一つ一つ部屋を見て回った。
「どうなってるんだ……、誰もいない」
「なにかあったはずですが……」
その時、ズズ、となにかを引きずるような音がした。
エリックと目配せし、そっと音の方へ向かう。
そこは暖炉のある部屋だった。ステラが編み物をしていた場所だ。
薄く開いた扉から中を覗く。
すると、床には腕を縛られた大柄の男が転がっていた。
さらに、近くにも人。
足元から視線で追うと、そこにはステラが立っていた。
「――ステラ!!」
振り向いたステラの鋭い視線と交わり、部屋へ入ったヴィクターはその様子に硬直した。
ひざ丈のワンピースは肩部分が刃物で切り付けられたように裂けており、普段巻き上げている金髪は下ろされ、乱れていた。
さらに、彼女の白い頬には血。
射るような眼差しでヴィクターを視認したステラは乱れた金髪を邪魔そうにばさりと払うと、にやりと口の端を上げた。
「――なんだ、エヴァンス卿。領民を大事にしろと言ったじゃないか」
「――――!?」
今の言葉に混乱して返せない。普段とは真逆のステラの様子。穏やかでしとやかな彼女とはまるで違い、肉食獣のようなオーラで立っている。
いやしかし、今の言葉はまるで――。
「…………軍師……!?」
ステラはふっと笑みを漏らすと、ヴィクターの隣に立つエリックに目を向けた。
「屋敷の他の皆は地下に隠れている。襲撃の目的は私の拉致。犯人は三人。一人は隣。それからここ。残り一人は逃げた。死人はなし」
そう言って、足元で小さく呻く男を指差す。
エリックは頷くと、踵を返して走って部屋を出て行った。地下へ向かったのだろう。
ヴィクターはそっと一歩、ステラに近付いた。
「ス、ステラ……、怪我は……?」
「ああ、問題ない」
「いやでも、頬に血が」
「ん?」
言われて気付いたのか、ステラはぐい、と手の平で雑に頬を拭った。彼女の傷ではなかったようだが、擦れた痕が頬に残る。手のひらに付いた血痕を、今度はスカートでぐいぐいと拭った。
それからヴィクターの方に顔を向ける。
「――さて、領民の方は? もしエヴァンス卿が帰ってくるようなら足止めしていると奴らは言っていたが」
腕を組み、まるで部下の報告を聞くような様子で話すステラにヴィクターは思考を戻した。どうやら彼女はヴィクターたちも襲われたことを知っているらしい。
「えっと……、要塞の街に放火すると言っていたけど、あそこは住民がいないので……」
「ああそうか。あのときに避難させて、そのままだったんだな」
要領を得ないヴィクターの説明にも、ステラはすぐに理解したようだ。
あの男が指した要塞近くの住民は、戦争騒ぎのときに避難させた。
しかし軍が撤収して住民を戻そうとした際のこと。あの地域はもともと頻繁に洪水災害が起こるので、そのまま移住できないかと住人から意見が上がったのだ。そのため現在はほぼ人が住んでいない。
それにあの男の馬は放したし、強く殴ってしまったのでダメージは残ったはずだ。街に辿り着く前に警邏隊に捕まるだろう。
それよりも、ステラの言葉。「あのとき」というのは、戦争騒ぎを詳細に知っているということだ。
「あの……、なぜ知ってるんだ……?」
「え? まだ分からないのか? 皆が軍師と呼んでいたあの赤髪の男の側に、もう一人いただろう?」
問われて、すぐに思い出した。
介添の従者の少年だ。発声の不自由な軍師の補助をしていた。
「えっ!? あれがステラ……!?」
「すぐにばれるかと思ったけどな」
腰に手を当て、髪をかき上げる。こんな彼女、見たことがない。
目を白黒させるヴィクターに、ステラは続けた。
「私はもともと兄の補佐なんだよ。父の目を欺いて病弱なふりをしていただけだ。暴走する軍部を中から壊すために、私が軍師とやらを仕立て上げて動いていたのさ」
「えっ、軍師が偽物!?」
「そうだぞ。あの男はただの雇われ役者だ。指示を出していた私の隠れ蓑だな」
「でも皆、信じてた……」
ステラは鷹揚に頷いた。
「あの時の軍部の将軍らは父の傀儡の寄せ集めだから。古株はいない。適当にでっち上げた戦歴を噂で流せば、架空の軍師なんて簡単なものだ」
「そんな……」
「それで将軍たちに金をちらつかせればすぐに崩れたね。あいつら、もともと父に金で釣られてたから」
彼女の話に脱力し、ヴィクターは壁にもたれかかった。
あの時、ヴィクターには他に術がなかった。いきなり軍の駐屯地になってしまい、余裕もないし金もない。話も聞いてもらえなかった。
ステラから見たら、軍部を離散させようと裏工作している中で、愚直に頭を下げる自分は大層格好悪かったのではないだろうか。
大きくため息を吐いて、顔を手で覆う。
「……ここを救ってくれたのがステラだったなんて……。君から見たら俺はずいぶん滑稽だったはずだ。みっともない……」
「エヴァンス卿、あの時君は誰よりも勇敢だった。誰よりも領民を思い、実直に奔走する姿に私は感動した。実際、君が協力してくれたからうまくいった」
「いやしかし、情けない俺に君を娶る資格なんてない……」
うなだれるヴィクターの顎に細い指がかかり、くい、と上向かせられた。ステラの真剣な表情が目の前にあり、思わずどきりとする。
「違うんだよ、エヴァンス卿。私が君の褒賞だと思っていたようだが、そうじゃない。君が私の褒賞なんだ」
意味が分からずきょとんとするヴィクターに、彼女は破顔してくすくすと笑った。
「兄に頼んだんだ。私が望んで来たと言ったろう?」
「ええ……」
確かに言っていた。あれは正しく、『望んで来た』ということだったのか。
ステラはヴィクターの顎に添えていた指を離し、「そうだ」と言ってスカートから何かを取り出した。
「手紙の返事」
ん、と差し出された手紙を受け取ると、それはステラの指から移った血の跡によって呪いの手紙のようになっていた。ヴィクターは恐る恐る、指でつまむように受け取る。
今朝『白百合の姫』宛で渡した手紙の返事。そっと中を開くと、繊細な美しい字で、愛の言葉への返答が記されていた。もらえたら嬉しいとは思っていたが、今は衝撃が大きすぎる。
ヴィクターは皺のついたそれを手で伸ばしてから封筒へしまった。
「……本当のステラはどちらなんだ?」
正直な疑問をぽつりと漏らす。
たおやかな『白百合の姫』と雄々しい『暁の女神』。
きっと今のステラが真実なんだろう。だが、わずかな甘いやり取りに頬を染めていた彼女も嘘だったとは思えない。
ステラはヴィクターの呟きに、首を小さく傾げた。
「どちらも本当だよ。花も好きだし、編み物も好き。なまってはいたけど、武闘には自信がある。誠実で勇敢な男が好きだし、その好きな男を手に入れるために兄に願い出ることもする」
「…………」
普段、彼女からなかなか聞けない愛の言葉に、ヴィクターは赤くなった顔を背けた。
伏し目がちだった瞳を向けられ、ずっと聞いていたいと思っていた声で饒舌に愛を紡ぐ。
いつもの彼女とはまるで違うのに、なぜかドキドキさせられてしまう。
ステラは面白そうにそれを覗き込んで続けた。
「君が今までの私を好いてくれているのは知っている。騙したようで悪かった。でも婚姻をなかったことにはしないし、させない。その上で聞こう」
腕を組み、にやりと不敵な笑み。
「エヴァンス卿、どちらの私が好みだ?」
《 おしまい 》