前編
「はあ……、好き……」
ヴィクターは短い黒髪をかき上げ、うっとりとため息をついた。
今朝の彼女はいつも以上に可愛かった。
目覚めたヴィクターの隣ですやすやと眠る姿はまるで生まれたての女神のようで、見つめているのも躊躇われるほどの神聖さであった。
星が瞬くような流れる金髪は肩の曲線を覆い、同じ色のまつげが呼吸とともにふわふわと揺れる。
紅を乗せていないのに十分色付いているその唇は、あまりの可憐さに一度見てしまうと目が離せなくなるのだ。
──好き。可愛い。好き。可愛い。
手元の紙にそのように書き連ねて、そうだ、次は手紙を贈ろうと思いついた。
ヴィクターは自身が貢ぎ体質だなどはちっとも思っていなかったが、最近は違う。可愛い彼女になんでも贈りたくなってしまう。
しかし彼女は高価な物品よりは、いたって普通の贈り物の方が嬉しいようだった。
大きな石のはまった指輪よりも街で見つけてきたシンプルな小物入れ。豪奢なドレスよりも視察先で摘んできた野に咲く花。繊細な砂糖細工の乗ったケーキよりも庭で採れた朝摘みトマト。
考えれば、それも当然だった。彼女は誰よりも高貴な出なのだ。たいがいの豪華なものは経験済みだろう。
手紙。そうだ手紙だ。心のこもった手紙を贈れば喜んでくれるかもしれない。ひょっとしたら返事もくれるかも。
女性への手紙にはなにを書けばよいのだろう。自分の気持ちを伝える? 普段から言葉にはしているが、文字にすればより愛が伝わるかもしれない。
まず、彼女の素晴らしさをどのように表現するべきか。
ヴィクターはうーんと悩んで、さらさらと書いていった。
花の妖精の化身。
白百合の姫。
愛を統べる女王。
(これはだめ。第三部隊隊長の二つ名『剣を統べる女将軍』に似ている)
星から生まれた神の子。
暁の女神。
(これは軍師とかぶる。でも彼女は意外と意思が強い面もあるので悪くないだろうか)
地上に舞い降りた天使。
孤独を救う救世主――――。
全然だめだ。自分の貧相な語彙力では彼女の素晴らしさを全く表現できない。
ヴィクターは箇条書きにしたそれらをトントンとペンで突いて、はっと気が付いた。
しまった。これは重要書類だった。
治水工事の予算申請書に承認のサインを入れているところだったのだ。
「すまん、エリック。これの予備は?」
顔を上げて部下に声をかけると、彼は思いの外、近くに立っていた。書類を仕分けている手を止め、ヴィクターの手元に視線を向ける。
慌てて書類を腕で隠したが、遅かった。
「うわ……」
気持ち悪いものでも見るような目。部下だというのに遠慮のない同世代の彼の呟きに、ヴィクターは顔を背けた。
しかしどうせ「はあ……、好き」も聞かれていただろうから、もう開き直ることにする。
「仕方ないじゃないか。彼女を言い表す言葉がうまく思いつかないんだ」
「いいセンスをしていると思いますよ」
にやりと口の端を上げるエリックの皮肉に、ヴィクターはふん、と鼻を鳴らした。
「ちなみに『白百合の姫』と『暁の女神』ならどちらの方がいいと思う?」
「ええ……、それはどちらでも……」
「うーん……」
「そんなに悩むことですか?」
ヴィクターは頷いて頭を抱えた。
仕方ないのだ。こんなに自分がおかしくなっているのも、思考が全て彼女に向いてしまっているのも、なにもかも彼女が可愛すぎるのがよくない。
そうだ。彼女のせいだ。帰ったら直接文句を言わねばならない。
「はあー……、帰りたい帰りたい帰りたい」
「仕事を終わらせないと、視察の出発まで家に帰れないことになりますよ」
代替の書類が机に滑り込んできた。ヴィクターは部下を一瞥し、仕事を再開した。
──早く顔を見たい。
ヴィクター・エヴァンス伯爵は恋をしている。
自分の妻、ステラに。
♢
領地にいる間、ヴィクターは屋敷ではなく文官たちが働く役所で仕事をしている。住み込みの部下エリックと共に毎朝通っているのだ。
仕事の効率のためにそうしているのだが、日中の妻の様子を知ることができないのが悔しいところではある。
「ただいま」
屋敷に帰宅すると、ステラは暖炉のある部屋で編み物をしていた。
帰宅したヴィクターに気付き、座っていた椅子から慌てて立ち上がろうとしたのでそれを制す。
「そのままでいいよ」
「ヴィクター様、おかえりなさい」
「うん。変わったことは?」
首を横に振る妻のまぶたに唇を落とすと、彼女はわずかに頬を染めた。こんなわずかな触れ合いでも初々しく反応する姿に悶えそうになる。
荷物を片付けてから食卓に着き、メイドが水を注ぐのを待って、ヴィクターは早速ステラに話しかけた。
「今日は? 何をしていたの?」
「ええと……、今日は夜会の招待状などを確認したりお礼状を書いて……」
思い出しながら喋るステラに、うんうんと頷く。
彼女は基本的には非常に物静かで、いつも穏やか。微笑を崩すことは少ない。
「……それから少しお散歩に出ました。夕方は編み物を」
「なにを編んでいるの?」
「冬に向けてヴィクター様に膝掛けを」
「えーーーっ!!??」
思わず立ち上がった拍子に、椅子が後ろにがたんと倒れた。その音に驚いたのか、ステラがびくりと肩を震わせる。
「えっ、うそ。俺に? ほんと? いいの?」
「え……と、余計でしたか……?」
「まさか! 嬉しい! 絶対もらう! 使わないで家宝にする!! 代々受け継ぐ!! それで百年後に博物館に寄贈する!!」
「いえそれは……」
先ほどの音がなんだったのかと料理人が顔を覗かせたが、「ああ、いつもの発作か」と呆れた表情で厨房に戻った。
メイドは慣れたもので、何事もなかったかのように倒れた椅子を戻す。
メイドに礼を言い着席したヴィクターは、暖炉の前で見かけた編み物をうっとりと思い出した。
さっきステラが編んでくれていたのは自分のためだったのだ。嬉しい。顔がにやけるのを抑えられない。この嬉しさも手紙にしたためよう。
「ありがとう、ステラ。大好きだよ、楽しみにしてる」
その言葉に、ステラは頬を染めて俯いた。
ヴィクターからは頻繁に愛情表現をするものの、ステラからそのようなことを返されることはほぼない。
しかし、彼はそれでも良いと思っていた。
普通、恋愛関係にある男女であれば相手が自分のことを好きかどうか気になるものである。相手に自分と同じだけの気持ちを返してもらいたがるものだ。
しかしエヴァンス伯夫妻の場合、ヴィクターからの愛情の方が強すぎることを本人も自覚している。
ひょっとすると妻はそこまで自分のことは好きではないかもしれないが、別にそれでもいいと思うくらい、彼女のことが好きなのである。
妻がこの世に存在し、健やかに過ごせていることがヴィクターにとっての幸せなのだ。
♢
仕事の合間を縫い、ヴィクターは数日かけて手紙を書き上げた。
こんなに愛があふれ出しそうなのに、それを抑えて清廉な内容を推敲していたら便せん一枚だけになってしまった。
エリックのように「うわ……」と思われたらさすがにちょっとショックだ。なので、シンプルに普段の礼を伝えるに留めることにしたのだ。
悩みに悩んで、書き出しは『白百合の姫 ステラへ』にした。無難だし、彼女は百合が好きなので。降嫁したので実際にはもう姫ではないが、そこは見ないことにする。
視察へ出る日の朝、早いので寝ていていいと言ったのに、ステラは起きてきた。
「眠いでしょ、見送ってくれなくてもいいのに」
ヴィクターがそう言うと、彼女ははにかんで首を横に振った。寝起きでまだ整えられていない、ふわふわの金髪が揺れる。
視察を取りやめて寝台に戻りたい気持ちを押し留め、ヴィクターは懐からなんの色気もない封筒を差し出した。ステラがわずかに首を傾げる。
「これ、別に特別な日でもなんでもないけど、手紙。恥ずかしいから俺が家を出たら読んで」
「分かりました」
鈴を転がすような可憐な声を頭に焼き付ける。ひょっとすると今日は泊まりになる。わずかでも会えないのは寂しい。
「……連れて行きたい……」
ヴィクターのこぼした本音にステラは苦笑し、困ったように眉を下げて「早いお帰りをお待ちしています」と言った。
仲睦まじい二人だが、実は政略結婚だった。
否、自分への褒賞あるいは詫びの意味合いもあったのだろうとヴィクターは思っている。