17話 パンドラの箱を開けるとき①
落ち着け、俺。
今この場に邪神は居ないんだ。秒速で命を刈られたりはしない。選択の猶予は存分にある。
教習所への申し込みがまだの今、お年玉貯金は手付かずだ。
加えて母さんから貰った5万円もある。
この金を持って、海を目指して逃げるのはどうだろうか。
……うん。いいかもしれない。
体力には自信がある。俺は突っ伏寝界のホープに君臨する男。
漁業組合に掛け合ってマグロ漁船に乗せてもらえれば、とりあえずの身の安全は確保できる。
さすがに海の上までは邪神の手も届くまい。
よしっ! 決めた!
と、ここまで考えがまとまり行動に移そうとすると、俺の鼓動はまたもや大きく脈を打った。
──ドクンッ。
「でかした渡! こいつはご馳走だぞ!」
「お前ならやってくれると信じていた!」
「宴じゃ〜! 宴じゃ〜! ベッドへGOGOGO!」
鼓動に便乗するように、一匹のオスたちがこれみよがしに声を掛けてきた。
手提げ袋──。
この中身はオスたちにとってはご馳走に他ならなかった。
だから俺は、手提げ袋を丁重に扱ってきた。抱きかかえるなんてとんでもないと、必死に避けてきたんだ。
「つーか渡よぉ〜。もうわかってんだろ?」
「あの子は邪神なんかじゃないってこと!」
「むしろ頼めば、おっぱいくらい揉ませてくれそうだよな!」
や、やめろ。やめてくれ。そんなはずない。あるわけないだろ!
「まぁどっちでもいいけどよ、早く手提げ袋の中身を拝借しようぜ?」
「そうだぜ渡。やることやろうぜ?」
「大丈夫。バレやしないぜ?」
──ドクンッ。ドクンッ。ドクンッ。
たぶん、昨日までの俺なら開けたいとは思わなかった。
しかし今の俺は知ってしまっている。『D』の魅力、色褪せたパステルカラーの水玉模様。そしてもあむん。
でも、それと同じように昨日までの俺なら開けて居たのだと思う。
昨日と今日の違いはもうひとつある。
それは、ケンジの笑顔だ。
もし昨日、ケンジに会って居なかったのなら俺はきっと、欲望の限りを手提げ袋にぶつけていたと思う。
でも今の俺は違う。
ケンジの笑顔さえあれば、他にはなにもいらないから!
「バカヤロウ! ケンジとは1ミリも脈がないことくらいわかってんだろ!」
「ケンジの笑顔じゃご飯のおかずにはならねえんだよ!」
「おい渡! 考え直せ! こんなチャンスはもう二度とない! 合法的に誰にもバレずに楽しめるんだぞ!」
うるせえよ。黙れよ、俺。
そんなことはわかってるんだよ。喉から手が出るくらいに、手提げ袋の中身には興味があるよ。
でも、だめなんだ。それだけは、絶対にだめなんだ。
ここで手を出してしまったら、軽井沢さんを好きだって認めることになる。そうなったらもう、後戻りはできない。
ギャル五ヶ条を前に、怯える毎日を過ごすハメにもなる。
だから俺は、ケンジの笑顔さえあればいい。それ以外にはなにも望まない。
クソみたいな俺の人生に光を差してくれた。今日までの人生に意味を見出してくれた。
俺は、今のままで十分幸せなんだ!
手提げ袋の中身を拝借しなくても、幸せなんだよ!
「そうやって、目の前のチャンスを逃していくんだな。まるでお前の今日までの人生そのものだ。クソみたいな前髪しやがって」
「花より団子って知ってるか? で、軽井沢さんは団子か? 俺は花としか思えないけどな。ケンジと甲乙付けがたいだろ。」
「これが思い出補正ってやつか。哀れだな渡。お前は一生、持たざる者だよ」
うるさいうるさいうるさい!
軽井沢さんに連絡するんだ。
手提げ袋返すの忘れてましたって。今、すぐに!




