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死を悼む象  作者: 音無。
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【ふたつ。】

【ふたつ。】



私と先生の出会いは、約一年半前の冬まで遡ります。決して良い天気とは言えない日だったと記憶しています。空には分厚い雲が幅を利かせており、その姿はさながらガキ大将のようでした。その日の私は、冷たく吹く風に身を縮めながらも近所の動物園にいました。ちょうどその時期の私は、動物園へ足を運ぶことが日常の一部と化していました。

私というヤツは、あらゆる物事を自分の中で反芻し再解釈してしまう癖があり、たった一人で塞ぎ込んでしまうことが多々ありました。要するに自分のうちに流れる情動の爽やかな清流も、ドロドロとした濁流も表現できず、誰かを頼ることも相談することすらもできず、ただ独りでもがき苦しんでいました。ずっとそうやって生きてきてしまったが故に、数少ない友人を除いて知らない人間と話すことさえ私は困難になってしまいました。そうやって累積した感情が私の身体を内から傷つけ始めた頃、私は自然と動物園へ通うようになっていました。一番最初は「散歩の延長」以上の意味は持たずに入り口である北門を潜りました。なので入り口付近にいた動物や看板の内容はよく憶えていません。きっとその私は、ほぼ屍のような存在だったのでしょう。フラフラとほぼ惰性で動物を見ていました。どれほどの時間をそう過ごしたか定かではありませんが、突然一匹の動物が私の目に留まりました。今思えばそれも運命だったのかも知れません。目線の先に座す象は、何事も意に解さぬ荘厳な「自然」を感じました。その濃い生を感じさせる息遣いや、彼の存在感を示す重厚な所作は、私の目を釘付けにしました。気づけば私は彼にギリギリまで近づいて、その境界線である金属製の柵に触れていました。その柵は冬場の冷気にあてられて、刺すような鋭い冷たさを孕んでいましたが、当時の私はそれにも気付かぬほど目の前の象に没入していました。特に彼らの象徴ともいえるその長い鼻には、柔軟性を裏付ける無数のシワが刻まれており、またそれは彼の生きてきた時間を記しているようで私にはとても美しく感じられました。


「なぜ私は、彼らのように美しくないのだろう」


心の中が、この言葉で満たされました。どんどん自分が小さく、惨めに感ぜられてしまいました。それにつれて少しづつ周りの音が、耳から遠ざかって行きました。人の雑踏も、会話も、園内に響き渡るアナウンスも、総てが溶けて混ざって小さくなって行きました。自分の小さな世界で、自分に問います。


彼らにあって、私にないものはなんだ?

純粋な生への執着か?

むしろ彼らはそんな事を考えないからこそ美しいのか?

では、知能を与えられた我々は美しくなんてなれないのではないか?

「美しいヒト」なんて、存在しないのではないか?


とめどなく溢れる疑問は、私の視界すら狭めて、まるで落ちていくようでした。きっと「美しいヒト」なんて存在しないのでしょう。ヒトは他の動物と比べて理性と知能を持ちあわせ過ぎているのです。それらは内なる自分を解放するにあたっての枷となり、発現するタイミングを失った言葉や感情は、身体の中で堆積し発酵し、最後は腐ってしまう。いくら良い顔をしていても、肚の中ではそのドロドロとした腐った感情が渦巻いているのです。そうなると表面である顔や表情にまで毒が廻り、薄っぺらく穢れてしまう。そしてもちろん私も例外ではないのです。それを自覚しているからこそ、きっと私も美しくない。


そう、私は美しくない。身体の内から吐く息まで。醜く、穢れているのです。


「すいません」

突然の意識外からの言葉に、私の脳内に稲妻に似た衝撃が走りました。遠のいていた意識を必死で現世に引き戻し、声の方向へ顔を向けると、色白の男がすぐ横に立っていました。まったく気付かなかったその存在に分かりやすく面喰らっていると、その男が続けて口を開きました。

「顔が真っ白だったので。大丈夫ですか?」

そう言われて私はこの上なく恥ずかしくなってしまいました。一体どれほど惚けた顔をしていたのでしょう。見ず知らずの他人から心配されるほどトリップした自分の顔など、想像したくもありません。思わず俯き、そのまま私は黙ってしまいました。雑踏も少しづつ耳に帰ってきはじめました。柵に触れていた手はもう氷のように冷たくなって若干悴んでしまい、少し痛みを感じました。

「象は」

死者のように押し黙った私を見てか、おもむろに男性は話し始めました。

「とても美しいですね」

バッと顔を上げてその男性の顔を見ました。するとゆっくりこちらを見て、にっこり微笑みました。その顔を見て、私は思わず「美しい」と強く思ってしまいました。ただ、それは象を見たときに感じた美しさとは全く異なる種類の、言語化するならば、「人間臭い美しさ」とでも言いましょうか。ヒトにしか出せない色味の美しさに感ぜられました。


 これが私と先生の邂逅であり、私の人生を大きく変えるポイントとなったのです。


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