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死を悼む象  作者: 音無。
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【ひとつ。】

【ひとつ。】



「結局、自分の名前を覚えてもらおうなど、傲慢なのです。相手の名前を覚えようとする事など、自己欺瞞なのです」


先生はそう言って、一口お茶を飲みました。先生の横顔は夏場のうるさいとも言える日差しをヒラリと躱し、その色白の肌は一点の曇りさえありませんでした。クマゼミの声が制空権を握り、青々とした緑の匂いが私たちを包んでいましたが、先生はそんな事も一切気にしておられませんでした。ただただ私の眼を射るように…いや、違う。私の目の奥、左脳を覗き込んでいるような目つきでした。この人の眼の奥は、一体どうなっているのだろう。

一瞬だったか、それとも一時間以上経っていたのでしょうか。虫の音や、葉と葉が擦れる音が、なぜか遠くで鳴り響いていました。そして私は、一つ深呼吸を置いて口を開きました。

「先生。お話は変わりますが、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「私は、今。ここで切腹します。先生にその介錯を務めて頂きたいと言ったら、どうしますか」

特段今の私に、溢れんばかりの希死念慮があるわけではありません。そしてなぜ自分がこんな質問を投げかけたのかすら分かりません。ただどうしても聞きたくなってしまったのです。それでもあまりに突飛な質問だと自覚はある為、少し気恥ずかしくなり私は俯いてしまいました。先生は今、どんな顔をしてらっしゃるのだろうか。

「ケイさん」先生は穏やかな声で私を呼びました。恐る恐る顔をあげると、そこにはまるで朝焼けのような、心が波立たない優しい光を放つ先生のお顔がありました。

「貴女のこの質問の裏側に、一体どんな心があるか私にはわかりません。だからただその文言のみを表面で捉えお答えしようと思います」私の気持ちが、気恥ずかしさや畏怖で果てしなく乱高下している事を知ってか知らずか、先生はいつもより穏やかで優しい声で私に言葉を紡いでゆきました。

「まず、介錯はして差し上げます。介錯とは三島由紀夫でいう森田必勝のように、特別な関係内でないとそれは成り立たないものです。なぜなら介錯とは、生半可な関係では抱え切れないほどのカルマなのだから。しかし私たちの関係は、親友とも呼べなければ恋仲とも言えません。しかし貴女は私と今、共にお茶を飲み、うだるような暑さの中を生きながらも、死が香る話をしている。それだけで普通の関係では無いと言えるでしょう。だからその要素は十分に満たしていると思います。ただし貴女の介錯を務めるには、もう一つ条件があります」

「なんでしょうか」思わぬ快諾に当惑しながらも、平静を装ってなんとか言葉を返しましたが、きっとそれすら見透かされていたでしょう。

「貴女より先に私が腹を裂く決心がついた時は、貴女が私の介錯を務めてください」

先生は食事に誘う時と似た軽やかさでそう言うと、カップに残っていたお茶を飲み干しました。そんな先生とは対照的に、先ほどまで平静を装っていたとは思えぬほど心の内も外も動揺しきった私は、きっと間抜けな顔をしていたことでしょう。

「先生は、自決なさるおつもりですか?」ギリギリで私の口は機能しました。

「はい」軽やかに先生は答え、続けます。

「ただし今ではありません。明日か、明後日か。もしかしたら十年後かもしれません。」

「…理由を、お聞かせ願えますか」

その時私の質問に対して淀みなく答えていた先生が今日初めて少し考え込んでいるようでした。質問に対する答えを考えているのか、それとも自分の考えを言うか否かで悩んでいるのか、私にはわかりませんでした。左肘をテーブルにつき、掌底に顎を乗せ優しく指で顔を包むこの仕草は、先生が考え込むとき特有のポーズでした。その姿から発せられる艶やかさに私が見惚れていると、先生は口を開きました。

「『死』という事象を、私は『生』の一部だと考えています。そして、『死』はその当人にできる最後の表現の場であると思っています。だからこそ、そこに私の人生のピークを持っていきたいのです。花は散り際が一番美しいように、私もそうでありたいのです。死ぬタイミングも、場所も、方法も。『自らの意思で決定する。』と書いて『自決』と言うのならば、そうするしかないと思っています。」

一拍おいて、先生は更に言葉を紡いでゆきます。

「ただ私は、腹を切って死ぬかはわかりません。切腹が最適解だと判断すれば喜んで腹を裂きますが、一般的な『介錯』を必要としない死に方を選ぶかもしれません。その時は、その死を見届けてください。それを『介錯』と定義させて頂きます。」

そこまで言うと、先生はふと私から視線を外し、すっかり夕暮れの世界を見渡しました。

ヒグラシの鳴き声が響き渡り、太陽は名も知らない山の後ろに隠れようとしていました。

「そろそろ帰りましょう。お嬢さん一人で夜道は危ない。私の交換条件に関しては、また呑めるかどうかを教えてください。」私はハッとしてあたふたしながら帰り支度をしました。その私を横目に、先生は独り言のようにポツリと呟きました。

「この夕暮れを見ていると、『生きたい』とも、『死にたい』とも強く想う。人間とは本当に面白い生き物ですね。」

思わず帰る準備の手を止め、私はバッと先生の顔を見ました。夕陽に慈愛の孕んだ眼差しを向けるその横顔に、美しさを感じながらも一つの欲望が私の中に生まれました。

私は、この人の死に様を見たい。この人の最後の作品を見たい。それまでは、死にたくない。


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