1-12.第12話 最初の町、ハイテ
「おはよう~……やっぱり私ここに住む」
シアンタは顔を合わせてすぐそんなこと言った。
彼女は昨晩、アニマに案内され客室に泊まっていた筈だ。よほど居心地が良かったのだろう。
しかしその割には眠そうだ。
「あ~あはは。ちょっとおじいちゃんの本に目を通していたら止まらなくなっちゃって」
疑問が顔に出ていたのか。シンに見つめられている事に気付いたシアンタは、言い訳がましくそう話す。
もちろんどんな本を読んで夜更かししていたのかは知らない。アニマを除いて。
「おはよう」
『おはようございます。朝食の準備が出来ています、座ってください』
朝食のメニューは洋食のシンプルなものだった。
中央にはパンの詰まったカゴ。ベーコンエッグにウインナーそしてサラダ、コーンスープ。デザートに小さなプリンが付いていた。
シアンタは美味しい美味しいと呟きながら奇麗に食べた。多めに用意されたパンも彼女がほとんど平らげた。
シンはその健啖ぶりについ見惚れてしまったくらいだ。
「ご馳走様」
「ふ~ご馳走様~」
『お粗末様です』
食後。シンはコーヒー。シアンタは紅茶を飲んで一息ついている。
「朝食の直ぐで悪いんだが、精霊について聞きたい」
「ん、なあに? 何でも聞いて」
どうやら胃袋を鷲掴みにするという行為はエルフにも有効らしい。
「精霊はヒュータンに……この船にもいるのか?」
艦の動力は常に停まることがない。つまり有害であるならば、精霊に何らかの影響があるはずだ。
「いるわよ。というかこの世界に居ない所なんてないの」
シアンタは言う。この世界は精霊達が創ったのだと。
「それは言い伝え……神話とかそういったモノか?」
「半分正解。そういう昔ばなしは幼い頃、よく聞かされたわ。でももう半分は、私がこれまで生きてきてそう実感した分。精霊使いだからこそ見える世界の感じ方ってね」
と語った。真剣な話だと思ったが、よく見るとシアンタの顔が少し赤くなっている。格好つけて少し照れているらしい。
「とにかく! そう感じるくらい精霊は身近なものなの! みんな気付かないだけで!」
『それでは、その精霊がこの船の近くで可笑しな挙動を見せる。そういった事はありませんか?』
「おかしな? ……いいえ。逆にはしゃいでいる感じがするわ」
シアンタは短時間視線を虚空に彷徨わせて言った。
「問題はないようだな」
『はい。最悪の事態は避けられたかと』
二人は安堵を漏らす。最終手段として、動力を停止させることも考えていたからだ。
「どういうこと? ちゃんと説明してよ」
「この船は動力にエーテルを用いているんだ」
「ああなるほど。だから精霊に気を遣ったのね。でも問題ないわ」
『シエンタはエーテルが何なのか知っているのですか?』
アニマの指摘にシンも気が付く。エーテルは自分達の世界で発見、利用しているエネルギーである。異世界の住人であるシエンタが分る筈がない。
しかしエーテルと精霊の関係性にも理解があるようだ。
「もちろんよ。魔法にも魔道具にもエーテルは使うし、精霊もエーテルが多い所に集まるのよ」
『そうなのですか』
「不思議なものだな。あっちでもこっちでもエーテルという言葉があって、意味が通じる。同音同義語というわけだ」
シンは思った。分かりやすくて良いじゃないか、と。
***
『これから北東の町に向かう訳ですが』
「ハイテの町ね」
『ハイテの町に行くのは、このヒュータンで向かうのが良いかと思います』
「そうか。隠ぺいが可能になったんだったな」
アニマは、シンがシアンタの祖父の庵に向かっている間に回収を済ませている。それによって視覚的には完全に見えない船となったのだ。
「しかし異世界的な知覚方法があったらどうする?」
『我が艦のステルスシステムは最新式でありますが、それは確かに不安ですね』
シアンタはどうやら精霊が見えるようだ。それならば視認する以外にも、別の方法でばれてしまう可能性がある。それは問題だ。
異星人の友好的接触には威圧的な軍艦は必要ないのだから。
「シアンタに確かめてもらうか」
『そうですね。それなら確度が上がりそうです。それがいいでしょう』
「え、何をすればいいの?」
早速とばかりに確認のため、シンはシアンタを外へと連れ出し、アニマに合図を送った。
「始めてくれ」
『ステルスシステム再始動します』
アニマは二人が船外へ出る前に切っていたシステムを再起動させる。
するとヒュータンの白い船体は目の前から一瞬で掻き消えた。
ヒュータンのステルスシステムは光学的センサーだけでなく、ありとあらゆる探査を無効化する。それは電波、音波だけでなく、その表面の空間を歪めることで、接触面を限りなく小さくすることを可能としている。つまり見かけ上の大きさを鳥の程度にまで減らすことが出来るのだ。
「すごい! 上から見た時もそうだったけど、こんなに近くに居てもそこにあるのが分からないなんて」
シアンタは再度見る、その異様な現象に声を上げる。
彼女は思う。魔法で姿を隠す者に出会った事はあるが、これほど見事な隠形ではなかった。そうでなければきっと自分は今ここ居ないだろうと。
「どうだろうか。精霊が見えるシアンタでも分からないか?」
「普段の精霊は見るんじゃなくて、感じる程度の話なんだけど……私がこんなに近くに居て気づかないのなら、私の同胞でもそうそう分からないと思うわ」
同胞とは彼女と同じエルフのことだ。どの程度エルフが居るのか分からないが次第点は貰えたようである。
『ではヒュータンで向かう事にしましょう』
「よし行こう」
予定は遅れに遅れたが、ようやくシンは憧れの異世界の町へと歩みを進めるのだった。
目指すはハイテの町。ロザリア大陸最南端の町だ。
***
二人とAI一体を乗せたヒュータン号は、ものの数分でハイテの町近郊へと到着した。
その場所は周囲に、村や集落もなく、放棄され荒れ果てた低木の茂る平原だったが、その植生に規則性が見られることから、そこが放棄された耕作地だとアニマは説明した。
「ここは最南端の開拓地だから、ちょっと油断すると直ぐ森に飲まれるのね」
シアンタは呟く。洪水があったのか。それとも人手が足りず手放したのか。それとも――
一歩外へ出れば原風景が広がるような世界では、自然と人類はその生存権を巡り日々競い合っているのだ。
「――それとも魔物の襲撃があったのかもね」
その一言をシンは聞き逃さなかった。
「魔物が居るのか!」
「? ……そりゃいるわよ」
『警戒すべきは野盗だけではないという事ですね』
「そういう事」
『シン丁度いいです。試してみましょう』
「試す?」
アニマの提案もあり、ヒュータン号は元耕作地であった場所に着陸する。
そこは四方が並木か生垣の名残だろう。周囲が木々に覆われており、死角が多く、都合が良かった。
シンとシアンタは船を降りる。その恰好は旅装である。シンはぴっちりとした戦闘服の上から木綿の服を羽織った格好。
シアンタは出会った時と同じ、薄緑の旅の服に濃緑のマント、革の鞄と細剣。
そして浴場で支給された数着の下着を回収し、装着していた。
その伸縮性と肌触りの良さに感激し、アニマに多めに貰っていたのである。もちろんサイズはばっちり。アニマの見立てに誤差はない。
『さあ、シン。先ずこれを』
その言葉と共に音もなく飛んできたドローンが持っていたのは木の棒だった。
長さは30センチ程度。装飾もなく、見た目は本当にただの棒である。しかし先の部分が緩く曲がっていて、握りやすそうに出来ている。
「これは?」
『魔法専用に調整した照準器です。見た目はこちらの世界に馴染みやすいように木材を使用しています』
シンの手の中にあるそれを、シアンタは興味深そうに覗き込んでいる。
「これがないと魔法は撃てないのか?」
魔法は杖だけでなく、手の平や指先からも出るイメージだ。
『魔法による対象の捕捉は主に視線で行うということが分かっています』
それは魔導書を研究した成果であった。
『しかし対象を見続けなくてはならないという欠陥でもあり、また偏差射撃を困難なものにします』
対象を見るということは、自分も体を敵に晒してしまう。そして偏差射撃は発動した魔法の弾速が遅い場合、対象が動き続けていればほぼ当たらない。
『ある程度の誘導は可能ですが、先ずは初級からやりましょう』
とアニマは話を区切るのだった。
「すごいぞこれは」
シンの魔法は成功した。
ナノマシンがエーテルや呪文の操作を肩代わりし、シンはただ引き金を引くように発動の意志を示すだけである。
銃のような短い棒の先から火の玉が飛び出し目標の岩に当たって白い煙を上げる様子に、俺は魔法使いになった! と心の中で喝采する。
だが、その構える姿も拳銃の構えそのもの。魔法使い感がまるでないことに気付いていない。
『本に書かれていた魔法の情報は既に送っています。他にも治癒や水の創造など有用なものもありました』
「ありがとうアニマ。これで俺も魔法使いの一員という訳だ」
『どういたしまして』
アニマはシンの、その子供の様に喜ぶさまを嬉しく見守る。彼の趣味は理解できないが、協力はしてあげたくなるもの。
それが母性か愛情なのかは誰にも分からない。
「魔法を短期間で使えるのは凄いけど……」
それまで黙ってみていたシアンタが喜ぶシンに言いにくそうにこう言った。
「シンが野盗を攻撃したアレのほうが、その、強いんじゃない?」
「……」
『……』
シンは「これは浪漫」である。アニマは『余計なことを』と言おうとしたのだが、その言葉は喉につかえたかの様に、声として出ることは無かった。
二人が共通した思いは一つ。
それを言ったらお終いだ。
***
二人は歩く。シンの腰にはブラスターの他に新しい装備として木の棒が。
放棄された耕作地を出て、しばらく歩くとけもの道に出た。シアンタが言うにはこれでも街道なのだそうだ。
町に続くこの道だが、反対側に向かっても森で行き止まり。つまりこの道は、木こりや猟師くらいしか使わない。他には薬草や野草、木の実やベリーを採りに入る人しか利用しない。
これから開拓が進めば、この道が次の町へと続くようになるだろう。
「私もこの道を使って、お祖父ちゃんの家に行っていたんだ。それで奴らに後を付けられる事になったんだけどね」
シアンタはそう言って苦笑いする。
そのまま街道を北に進んでいると道も少しずつ広くなっていく。周辺の畑も人が手入れされているようだ。
植わっている植物を手に載せて観察する。青々としているそれは、地球でも見知ったものだ。
「麦を栽培しているようだな」
ここから見当たす限りの麦であるなら、かなりの規模の耕作地である。
『町の人口を面積から算出できますね』
アニマによると、12万人程度だろうという事だ。
「いいえ、もっと少ないと思うわ。税もあるし、ここから首都方面に運んで売ったほうが儲かるだろうしね」
とシアンタ。彼女の方が町の事に詳しいのだ。
『なるほど』
「この周辺にも村があるんだけど、そこの人達が出稼ぎに来たりもするから――」
その時――ピチュン――という湿った音が遠くから聞こえた。
「なに今の音ッ!」
柄に手を当て警戒するシアンタの耳に平坦な声が届く。
『敵性のある野生動物がこちらに向かっていたのでドローンで迎撃しました。死骸はサンプルとして回収中』
「了解した。報告感謝する」
『どういたいしまして』
「……本当に魔法の意味なかったんじゃない?」
溜息の後出てきたその言葉は、呆れてそう言うしかなかったという想いがたっぷりと込められていた。
***
ハイテの町には1時間程で到着した。
町を囲む壁は高さが4メートル程で中々の威圧感があったが、それも門の両脇から少し離れると途切れていた。しかしそれに続くように家の壁が町を囲っている。恐らく全てを壁で覆う事が出来なかった苦肉の策なのだろう。遠めに見ても、建物と建物との隙間に、アーチを拵えて作られた木戸が幾つか見える。この町に潜り込むのは容易そうだし、魔物に知恵があるなら門以外から侵入してきそうだ。
だがそれでも、こうして発展している様子は、この周辺が安全であることの証左でもあった。
門番も居るには居たが素通りだった。
門の脇に椅子を置いてコクリコクリと舟をこいでいる。
こちら側は森に向かう門なのだ。畑に向かう者しか利用者はおらず。危険な野生動物も魔物も、人の群れを襲うようなことはしない。つまりシン達は結果的に、見張りの緩い町の裏口から訪ねることになった。
そういう理由もあり結果素通り。厳しい検査があるのかと気構えていたシンは少子抜けしてしまった。
「ようこそ人族と大自然の境の町、ハイテの町へ! ……まあ私はここに定住している訳じゃないけどね」
と芝居がかった身振りを添えてのRPGお馴染みの台詞だ。もちろんシアンタは狙っていた訳ではない。偶然である。
「おお……」
しかしシンの琴線にはジャストミートだった。彼女の手を両手で握り、盛大に握手して感謝した。
「そ、そんなに喜んでもらえると嬉し……いやちょっと怖い」
当人は引いてしまったが。
「改めてみると……人口密度が高いな」
門から続いている大通りであるはずの道もシンの目から見ると狭く感じる。
とはいえ馬車が二台すれ違える幅はあるのだが、両脇に構えられた露店が道を狭くしてしまっていた。更に道を行く人並みが、ここを開拓最前線の町であることを忘れさせた。
居眠りしていた門番と同じ装束の一団とも時折すれ違う。治安はいい方なのだろうか?
「たぶん中央の方から人が来ているんだと思う。上手くいっている証拠よ」
とシアンタ。
開拓地というと田舎を想像してしまうが、人の生活圏が自然より小さい場合はそうではない。そこに手付かずの土地が広がっているということは、それだけ可能性があるということだ。冒険者は成り上がりを、農夫は広大な畑を、王は強大な国を。人は様々な夢を見て国を広げる。
そして人が集まるということは商売ができ、商人も集まる。それ故なんだかんだと仕事は多く、そうなれば人は根付いて子を産む。
今ハイテの町は怒涛の人口増加の時期を迎えていた。
だがそれ故、招かれざる者達も増えていく。善からぬ事をくわだてる輩は、まるで吸血鬼のように、人から甘い汁を啜ろうと人に惹かれるのだ。
シアンタが襲われた髭面の人攫い集団はそんな者達の一人であった。
「私が何時も利用している宿に向かうから付いてきなさい」
シアンタは町に入ってから妙にお姉さん風を吹かしている気がする。どうやら自分が役立てるのが嬉しいようだ。
アニマは町に入ってからは外部音声を使わずにいた。シンもスピーカーの内蔵されたヘッドギアも目立つので今は外している。
それは自身の声がシンにしか声が聞こえないということだ。まあそれは致し方ないと理解はしている。こんな人混みで話そうものなら、シンはブツブツと独り言を呟く危険人物に見られてしまうだろうから。
シンの為に町を案内するシアンタが羨ましいと、やきもきした気持ちで眺めていた。
***
歩くことしばし。目の前にはこじんまりとした建物があった。
場所は街はずれ。入ってきた南側の門からほど近く。主要道から外れている住宅街の只中にあり、人通りは少ない。
「町の拡張に合わせて作られた、新しめの宿でね。いわゆる穴場で気に入ってるの」
勝手知ったるといった様子で、シアンタは扉に手を掛けた。
「……いらっしゃーい」
開けてすぐ正面にあるカウンターから声が掛かる。そこに居たのは幼い少年だった。
「部屋空いてる?」
「あっシアンタねーちゃん!」
先程までの気だるそうな態度はどこへやら。その目は輝き、口には笑みがこぼれ出す。それは正に恋する乙女、ならぬ少年のそれである。
「どこ行ってたんだよ! 森に向かってたって、それ見た奴から聞いて心配してたんだぞ!」
「……ちょっと用事があったの。冒険者なんだから何処でも行かなきゃね」
とウインク。
シアンタは祖父の庵の事を誰にも話していない。そこは愛する者の終生の地であり、墓標でもある。
祖父が存命だったころはこの町は存在しなかった。
この町があるからこそシアンタは比較的楽に庵を発見することが出来たが、それは他の者にも言える事。
精一杯の愛想。
人攫いに後を付けられていた。人に森に入るところを見られていた。
それを少年に咎められているような気がして。そんな彼女が、心に燻る罪悪感を消す為にした小さな誤魔化しだった。
「それでカルキ、部屋は開いているの?」
「……ああ、ちょ、ちょっと待った!」
シアンタに見惚れていたカルキと呼ばれた少年は、その声で我に返る。慌てて後ろの鍵棚を確認すると大きく何度もうなずいた。
「あ、空いている空いてる! すっからかんだよ!」
「すっからかんって……2部屋空いていれば十分よ」
すっからかんとまで言い出すカルキに、微笑ましさを感じる。
「……なんだよおっさん」
ニコニコとそのやり取りを眺めていたことを、カルキ少年に気付かれたようだ。
そして相手は見知らぬ男のその笑みを、こちらを馬鹿にしているのだと勘違いしてしまう多感なお年頃。
「親の手伝いか。偉いな」
何気ないシンの言葉に、カルキの顔がカッと赤くなる。
「あんたシアンタの何なんだよ!」
「何なんだと言われると……ああ、彼女に町を案内してもらっている。シンと言う、世話になる」
とお辞儀をする。
ギリギリ一桁台であろう少年に対しても礼儀を忘れないシンである。
彼はそんな正確故、少々人間関係の距離感を見誤ることがよくある。カルキ少年は親の仕事を手伝う一人前である、というのがシンの感性であるが。まあ人付き合いは苦手なのである。
「……おう」
そんなシンの毒気のなさにカルキ少年は気をそがれてしまったようだ。
「シンは私の命の恩人なんだから、失礼のないようにね」
「命の恩人……ッ!? シアンタねえちゃん一体なにがあったんだよ! 危ない事したんじゃないよな!」
しまったと思ったがもう遅い。シンを持ち上げる為の言葉が自分を窮地に陥らせたことを悟る。
シアンタははぐらかす様に、両手をパタパタと振って――
「ちょっとあってね。心配しなくても大丈夫。もう済んだから」
と笑顔を見せた。苦しい言い訳である。
「……それなら、いいけど……」
だがそこは惚れた弱み。
カルキはシアンタの苦笑いと、興味深そうにこちらを見る謎の男を交互に見て、訝しみながらも――
「一泊、小銀貨3枚。夕飯と朝食付き」
――と仕事をこなすのだった。
「取り敢えず一泊お願いする」
町の近くにヒュータン号はある。しかし当初から、後学の為に宿へ泊る予定であった。
「じゃあ私も」
とシアンタ。
シンが支払うお金はもちろんアニマが作ったコインである。
少し警戒したが、カルキ少年は気にすることなく引き出しにしまったのを見て、使えるようだと確認したのであった。
***
「750ロスか。これは高いのか安いのか……」
シンは案内された部屋のベッドに腰を落ち着けると、部屋を眺めながらそう呟く。
750ロスは解り易く換算すると7500円ほど。物価の違いはあるが、これで夕飯と朝食付きなら悪くない。
『そこそこ、なのではないでしょうか。建物も新しく、部屋は狭いですが手入れが行き届いています』
と、アニマ。今まで喋られなかった時間を取り戻すべく、シンの独り言に相槌を返す。
そうしてアニマと他愛のない会話をしていると……。
――コンコン――
と、ドアがノックされる。
『シアンタです』
アニマの予言通り、開けるとそこにはすらりとした美麗なエルフが立っていた。
「遊びに来ちゃった」
「で、シン達はこれからどうするの?」
ベッドに腰かけたシアンタは、今話そうとしていた話題に先手を打った。
「それをアニマと相談しようと思っていた所だ」
とシン。今彼は部屋に置かれた小さなテーブル側の椅子に座っている。
『まずはこの町の統治者に会うことを目標と致しましょう』
「……いきなりか?」
「ちょっと難しいんじゃないかしら」
アニマの提案に二人は難色を示す。
『時間は有限です。この世界との国交を得るにしても、帰還の方法を模索するにしても、権力者との協力は必要不可欠です。シアンタが困難であると、苦言を呈するのは理解できますが、シンがためらう理由が分りません』
「……ぬう」
実はシンは身分を隠して諸国を漫遊するという物語が好きだった。普段は一般人として人々と触れ合い、一度事が起こった時にはその力を振るう。そしてまた旅に出る。そういった日常系ヒーローをやってみたかったのだ。
しかしいきなり権力者と接触してしまってはそれも不可能になる。まあ偉い人に会うのに少し腰が引けているのも、ちょっとある。
「アニマは焦り過ぎよ。この世界には幾つも国があるんだから、まず協力者を選ぶことから始めたらどうかしら?」
「そう、それがいい。先ずは身分を隠し、相手が悪人か善人か、和平を望むか望まないかを見極めるんだ」
大いに建前を利用して、シアンタの提案に乗っかる。異世界を満喫する気なのに何故そんな体逸れた事をしなければならないのか。というか偉い人と会う気など毛頭ない。
シンは言ってしまえばサラリーマンである。物語の主人公のように気後れすることなく貴族や王様に物申す胆力がないことなど、一体だれが責められようか、いやない。
『そうですね。悪人か善人かの判断が必要かどうかは置いておいて、確かに始めに接触する対象如何によっては、こちらの印象が大きく変わるのは事実です』
仲良くしようとしていた相手が、世界を支配しようとしている魔王だった。では、こちらまで悪者扱いになってしまう。そうなれば友好的な付き合いも糞もなく、この世界はシンの世界を敵とみなすだろう。
世の親が子によく言う「仲良くする相手を選びなさい」とはつまりそういうことだ。
『先ずはこの世界を知ることでしょうね。私達は何も知らない。それでは正しい判断が出来る筈もありません』
シンは隠れてガッツポーズをした。これで異世界政治闘争ではなく、異世界冒険活劇が出来るのだ。
「じゃあ先ずは庶民の生活を知る、ということで、私が案内してあげる」
それを持ち出すとあらかじめ決めていたのだろう。シアンタは満面の笑みで提案を持ち掛けた。




