【2】
体が重くても動かさなくてはならない。こと自分が危険にさらされているなら尚更だろう。竜が現れて、その甲が私をゆるやかにぶってから暫く―。竜はどこかへ行って引き返さなかった。何をまた求めてか外に行ってしまった。正直助かっている。
察するにここは竜の拠点だ。住処だ。私はおやつ変りか、ペットか、何かのために連れてこられたのだろう。少なくとも自身にかけられた毛布をみるに、凍死させないようにする気はあるようだった。だからといってゆくゆくに食べられる運命を待つほどしおらしくなかった。
立ち上がって足の違和感に気づく。
「げ」
靴が破れていた。対して丈夫なものではなかったのだが何と間の悪い。もしかしたら、最初に襲われた時にそうなったのかもしれない。両足から脱いで置いておく。
そして私は岩肌に足を伸ばしてすぐに引っ込めた。冷たい。とても歩けたものではない。岩肌は氷のように冷えきっていて、人の素足では到底歩けるものではなかった。軟禁、と頭に言葉がよぎる。貴族に連れ去られた、教会の子供の顔がついで浮かんだのをふりやった。今は他人を思いやる暇はない。
どうしよう、と考える。先程魔の手ならぬ竜の手から逃れたばかりだ。足を凍傷で失いたくない。あるのは体と破れた靴に布だけだ。……充分に有るじゃないか。
自分の周辺にあった布から手頃な大きさを探す。やや大きいが仕方ないかと二枚を選別し、足に巻いていく。底を暑く重点的にしなければならない。両足をそうしてから、今度は大きく厚手の布を羽織った。少しだけ重さを感じるが我儘は言って居られない。此で対策はできた。
よし、と立ち上がる。そして一度伸びをした。ぐぐ、と縮こまったからだが少しだけ解れるのを感じる。
また一歩岩肌に足を伸ばした。ゴツゴツとした感触を感じるものの先程までの冷ややかさは感じない。成功した。
ひとまずは、とランタンの明かりで視認できる場所を探っていく。暗やみには少しなれた。といっても辺りは岩ばかりだ。壁は遠いし先はきっと長い。ランタンを起こして掴む。いつまでもつだろうか。先程まで自身が寝ていた場所を照らす。布、布、布。布だらけだ。というより布しかない。
今度は水音に耳を済ませた。いい加減喉が乾いたのだ。
ピチャン、ピチャン。水の跳ね返る音。溢れる音がする。高くランタンをもちその方角を見れば、少し高くなった岩場があった。近寄ってみるとそこは窪みになっており、水が天井から落ちてきていた。ランタンを足元にやり、手を伸ばす。冷たい。冷たくて、触り心地のいい水だ。混じりけのない水だというのが感触だけでわかった。手で汲んで口に含む。ごくん、ごくん、と喉がなり、水が体内に染み込んでいくのを感じた。自身が思っている以上に飲み物を必要としていたのだ。
さて、と次の行動に移ろうとしたが何かが聞こえてくる。足音、足音だ。ずしん、ずしん、という地響き。あわてて、ランタンを元の位置に置き毛布の中に入った。あ、戻る必要そこまであったけ?今さら思ってもしかたない。
黒い竜はまもなくやってきた。何かを器用にかかえてる様子だ。それをじ、とみる。観察する。ごとごとと竜は何かを地面に置いた。異臭がする。端的にいうと獣臭い。血なまぐさい。
毛布から今気づきましたよ、なんて行動を装って出てみた。
竜と目が合う。何でそんなにじっとみるのさ。此方からそらすこともできない。幸い竜は早々に目を離した。そして床においてあるものをみる。私もそれに続く。
異臭の原因はやはり獣だった。視たことのない生物だ。馬より大きな獣を私は目の前の竜以外にはみたことがない。おそらく、竜の晩餐だろう。確かに私じゃお腹は膨れないだろうな。その巨体じゃ。
あとは木の実や果実がいくつか。どうやら雑食らしい。そのままそれでお腹を満たしてくれないかな。
竜はその爪で獣の身を抉った。
「う」
思わず顔を背ける。鳥を自ら解体したことはある。小さな獣だってある。しかし、しかし。あの爪は私をああやって抉るかもしれない。そうよぎって見ていられなかった。後単純に異臭が凄い。小さな獣の比じゃない。
抉る音が聞こえる。割いているのだ。その身を。丸ごと食べはせずに行儀よく割いているのだ。ぐちゅり、と血の音までする。さっきまで温かだったはずの生命を、その爪をナイフかわりにさいていく。あぁやって私も割かれるのかな。せめて眠った時にしてくれ。致命傷で起きないまま痛みさえ感じないままがいい。痛いのは嫌だ。
暫く音がして、ぼと、と落ちた。おそるおそる目を向ける。赤黒い塊がそこにはあった。ずいぶんと先程よりは小さくなったが獣の一部だろう。竜は動きを止めて私を見ている。
「食えと?」
そう溢す。それは私への餌だというのだろうか。肥らせて食べようとかそういう。食料を貰えるのはありがたい。今すぐに私を食べないのはありがたい。ありがたいのだが、生肉。得たいの知れない生肉だ。前に教会の子が空腹に耐えきれずに生肉を食べそのまま死ぬのを見たことがある。危険だとシスターもいっていた。
どうしよう、と思う。食べなかったら殺されるんだろうか。それとも死ねと?ちら、と木の実や果実のあった方向を見る。幸いまだてはつけられていなかった。また、竜の方を見ておそるおそる指先で主張してみる。
「あの、あっちがいい」
ついでに伝わるかわからないが声にも出してみた。お願いだから伝わってくれ。頼むから。竜はゆっくり私の指先の方を見る。それからその手を果実にやって、軽く、軽く、おした。ころころとそれでも勢いよく果実は転がり布のすぐそばまできた。
ゆっくりと立ち上がり持ち上げる。思ったよりも大きく、顔をちかよせるとほのかに甘い臭いがした。手で表面をなぞる。固い。あ、固い。どうしよう。せっかく、せっかく、手に入れたのに。
向こうでは竜が私にやった肉の塊を口に入れる所だった。顔をそらす。それから横目だけで観察する。竜は果実をひとのみした。参考にはならない。
どうしたものか。立ち上がり、床に、ぶつけた。転がして表面をみる。いい感じに割れた。手を間に差し込めばどろりとした果肉がそこにはあった。抉れば手に密がつく。それを舐めた。甘く、酸味が少々つまりは美味しい。夢中で往復した。今まで食べた何よりも甘美な食べ物だったのだ。半分くらいを夢中で食べて、はたと止まる。すっかりその味に魅了されて目の前の脅威を、忘れかけていたことを思い出したのだ。顔をあげて竜を見た。竜は私を見ていた。
「あの、ありがとう」
伝わるかわからない。私を殺すかもしれない。それでもそう言っていた。育ちは悪いが躾は充分、いやというほどされていた。故に口から出たのは感謝の言葉だった。
竜は何も言わない。何も言わないけど、満足げに息をはいたのはわかった。