【1】
その日私ははじめて竜というのをみた。
どこかで水の落ちる音がする。ぽちゃん、ぽちゃんと一定感覚で。いくら水に恵まれた土地であっても、無駄遣いはいけない。雨季が少なかった時期だって過去にはあったのだ。誰だろう、うっかりものは。そんな思いで意識を完全に起こした。
「え」
短く戸惑いの声が出る。辺りを見回して周囲を確認したが戸惑うばかりで全く把握などできなかった。
ランタンの明かりこそあるもののそこはおおよそ人のすむような場所ではない、洞窟だったからだ。幸い岩肌に寝ているわけではなかった。下には大量で厚手の毛布が重ねてありその上に私はいた。更に数枚布がかけられている。お陰で寒さは全く感じることがなかった。服も、普段着のままだ。光の方を見る。不自然に転がったランタンが一つそこにはあった。動こうとして、やめる。体の至る所がぶつけてしまったのか、果ては暴行されたのか痛んだのだ。―なので私は寝る前に何があったのかを思い出そうとした。
たしか、そう、移動の最中だったのだ。
それは思い出せる。進む馬車。そのなかに私はいた。何のために居たのか?雇われたのだ。親のいない私は普段は町中の教会で過ごし、時折人に雇われて日々を送っている。そのなかの一貫だった。仕事の内容は隣町まで荷物をもっての移動、だったはずだ。それなのに何故こんな場所に?まさか騙された?思い出せ、思い出すんだ。
頭を抱えて考えるがやはり曖昧でしかない。もしや売り飛ばしにあい、何か薬でも盛られたのだろうか。ごくり、と喉がなる。実感がようやくわいてきたのだ。あぁ、なんてこった!泣きそうになる。いや、それよりも現状をどうにかしないといけない。体勢を起こそうとした瞬間、体が凍りつくのを感じた。
何かが、来る。
風の音が強くなった。そしてそれがやがて止む。次に聞こえたのは足音らしきもの。地響き。これは決して人じゃない。人じゃないならば怪物。
ここは怪物の巣だったか。
頭が痛くなる。段々と記憶が呼び起こされてきた。最悪だ。
馬車の揺れる振動、一際大きくいなく馬。御者の叫び声。投げ出されて痛むからだ。顔をあげてみたさき。
止まった。近づくのをやめた。否、もう近くに来たのである。ランタンの光に照らされて黒く艶やかな体が映し出される。大きな体を十分照らすにはその光は心許ない。
―そう私は、竜を見た。漆黒の体をもった悪魔のようなものを。金色に光る双方を。それに見つめられ、私は気を失ったのだ。恐怖に支配され、動けず。
今度は真っすぐとそれに視線を向ける。ああ、こわい。
「く、食うのか」
震える唇でなんとか音を紡ぐ。竜に人の言葉が伝わるのかはわからない。それでも言葉を紡いだ。恐怖を手っ取り早く誤魔化すように言葉を紡いだ。
「わざわざ住みかに、つれてきて……悪趣味な」
なるだけ威勢のいい表情をつくって見せてそう言った。その眼がそれを視認できるかはわからない。それでもそうした。―竜はじっと此方を微動もせずに見るだけだった。むなしい。むなしい。食べるなら殺すなら早くしてほしい。猫のように獲物をなぶらずに早くしてほしい。その爪で引き裂くなり、その牙で貫くなり、早くしてほしい。―威勢のいい表情なんて結局は作れてないだろう。悪足掻きにしかならない。安心材料にしかならない。その役目すら果たせていない。
永遠とも言えるような間が開く。それから竜が動いた。体が震える。ただ目は開いたままだった。瞑るという動作ができなくなっている。怖い。竜の腕が伸びてくる。硬質な爪がランタンの明かりに照らされて光った。ひっ、と喉からもれた。情けない。ゆっくり、ゆっくり、とその手はのびる。爪先あと数センチでそれは止まった。ゆっくりと手が引かれる。腰が抜けたのがわかった。既にぬけていたのかもしれない。ただ、今こうして動けなくなってることがわかった。
「なにをしたい」
震える唇で問うても竜は答えない。ただまた手が伸びてきた。今度は掌ではなく甲が迫ってくる。このまま殴り飛ばすのだろうか。骨と皮じゃ、食べるに値しない?わかる。私だって肉付きがいい方を食べたい。そうじゃない。考えるべきはそうじゃないのに。甲はせまってるのに!……だが、また数センチで止まった。ただ今度は引かれずに、微調整するかのようにわずかに動く。私の体は動かない。視線だけをやった。暗闇の中、ランタンの光だけではその黒い体はよく見えない。照らされるのは巨体の一部でそれが光か否かだ。竜の甲がどうなっているかなんて、わからない。ただ、熱は感じなかった。
「いっ」
どん、と甲が頬にぶつかる。痛い、硬質なそれは痛い。痛ぶるのが趣味なのだろうか、やっぱり。風を切る音、体に感じる風圧。吹き飛んでしまうかと思った。さっきまですくそばにあった竜の甲が離れたのだ。第二陣、今度こそか、と体が縮こまるが、何故かそれは来なかった。それどころか竜は私と距離を置く。
「え、と」
戸惑いの声が今度はもれた。足音が聞こえ出す。本当に、竜は去ったのだ。
「なに、あれ、なんだ」
返事はやはり返ってこなかった。