生きる事を「素晴らしい」とする時代
最近、経済学の本を読んでいたが、なるほど、そういうものかと思う部分もある。と言っても、自分の読んだ本はB・ライシュという人で、どちらかと言うと「経済批判」にあたるのかもしれない。(マルクスも資本論の副題は「経済学批判」だったはずだ)
中谷巌の本なども読んでいた思ったのだが、そもそも「いかに稼ぐか?」というのは生きる目標になるのだろうか? 過去に、これほどまでにも金の事が問題になり、個人の社会的成功が切望された事はあったのだろうか? ふと考えると、そもそも根底から間違っているのではないかという気がしてしょうがない。
例えば、現代の物語には、常に「社会的成功」という抜け道というか、結論があって、物語作者は困ったらそこに行く。
「恋は雨上がりのように」の主人公アキラは(ここからネタバレ〈注意〉)ーーーーー作品の最後では、陸上に復帰して、良い成績を上げる。しかし、怪我してろくに練習していなかった人間が、また復帰したらあっさり成果が出るのだろうか? 成果が出るまでの苦渋の道を描くのが物語ではないか? いや、そもそも社会的成功というのが、素晴らしいとされて、そこには苦渋も苦悩もないというのは一体、どんなものなのだろう?
最近自分はこれを「現代の宗教」と規定しようかと思っている(自分の中で勝手に)。この宗教を否定する事は許されない。そうして、成功した人間が、なにがしか不満を言うと「成功したのにそれ以上不満そうな事を言うな」という声が飛び交い、成功していない人間が何か言えば「嫉妬だろ」という声が飛び交う。
この問題はもっと深く考える必要がある。今、「罪と罰」を読み返しているが、娼婦のソーニャと人を殺したラスコーリニコフが対決する場面がある。ここで、ソーニャは「民衆」的なものを代表していると、自分には感じられた。ソーニャはなんといっても神を信じているのである。彼女が悲惨な境遇を耐えしのいでいるのは、神を信じて、死んだもの、滅びたものの復活を信じているからである。一方で、ラスコーリニコフは神を信じていない。彼はソーニャとは逆で、自分を神だと思っている。だから、人を殺しても許される、という論理が発動する。
この時、現代の我々がどちらの立場に立っているかといえば当然、ラスコーリニコフである。自分の利益、価値、自分の社会的価値上昇、自分が他人に見られる事。それらが我々の価値観の基礎と言っても良い。その奥底にはデカルトの「我思う故に我あり」があって、「自我」というものが世界の頂上に突出したと言っても良い。
我々は神を失ったのであって、神を信じると言えば、馬鹿な話とされる。では馬鹿ではないのは誰かと言えば、ホリエモンだったり橋下徹だったりする。ホリエモンは現代を代表する人物と、確かに言う事ができる。何故か。それは、ホリエモンを心の底から尊敬する人というのはおそらくいないが、ただ、「あんな風な立場に立ちたい」とは誰もが思うような人物だからである。僕自身で言えば正にそうで、ホリエモンのように、名前も売れて、金も入って、そこそこにうまくやっていけるのであれば、「ああした立場」に立ちたい。しかし、ホリエモンに偉大な行為や悲劇的な精神があるとは誰も思わないだろう。
ドストエフスキーは、ラスコーリニコフをソーニャの前に頭を下げさせるという道を選んだ。そこには滑稽であると同時に、偉大な悲劇精神があるのだが、現代の我々からは、それらは笑うべきものに見えるのかもしれない。例えば、『ラスコーリニコフはもっとうまくやれたはずだ』なんて思う利巧な人物が出てこないとも限らない。この人物は、自分の『利巧な』思想そのものがあの作品で批判的に描かれている事には気づく事がない。
整理しよう。問題はこうだ。我々は神を失った。同時に、生きる事は楽しい事、素晴らしい事、良いものという風になった。自らの悲惨を耐えしのぐには神が必要という事はなくなかった。もう悲惨ではないからだ。そこで、自分の生はどこまでも突っ走っていける。物語のキャラクターは最後には真面目に、「芥川賞を目指して小説を書いて」みたり、「自分を取り戻して陸上で結果を出し」たり、悪の道にはまり込んでいた人間が「勉強して資格を取ったり」するわけである。ここにおいて、これらの事がゴールである。しかし、何故ゴールなのだろう。
自分が不思議に思っている事、古典を自分なりに学ぶ事によって感じた現在との差異はーー現在においては、「生きる事そのものが悲しい」という視点が欠落している事だ。恋愛は素晴らしい、仕事は素晴らしい、金を稼ぐのは素晴らしい、生きるのは素晴らしい、という事で、生きる事の悲しみを噛みしめるという事がなく、あったとしても、それはやってくる「生の素晴らしさ」に至る為の踏み台でしかない。
青山七恵の「ひとり日和」もふんわり幸福感で終わったし、平野啓一郎や中村文則の露悪的な方向性も、別に現代の「生ー希望」を打ち破るものではない。中村文則の「銃」では主人公が拾った銃を撃つか撃たないかでぐだぐだ悩むが、何故悩むのかはよくわからない。ドストエフスキーの背景にあったものは存在せず、村上春樹にさえあった背景すらない。そこで、読者はとにかくぐだぐだ悩んでいるだけの青年を観察させられるはめになる。(これと比べると、ラスコーリニコフが未熟な青年であるにも関わらず、極めて巨大なものを背負っているというのは読めば感得されると思う)
ここでは何が起こっているのだろう。二十世紀の戦争は、神を巡った戦いではなかった。それは、各々の利益を求めての争いだった。戦争の後には平和が来たが、それもまた各々の利益を求めての平和だった。自分達にとって、何か巨大な、偉大なものがあるとは我々は考えない。だから、我々は我々自身が目的であるのだが、そこで、我々の生は昇華される。更に、それを自我の点にまで分解するなら、「私の為に世界あれ」という事になる。ランキング一位を目指す人間を考えてみよう。ランキング一位の人間は、二位以下の人間はみんな、自分を輝かす為にあるように感じるだろう。
ごちゃごちゃと色々書いてしまったが、自分が、世の中とのギャップとして考えるポイントは次のようなものである。世間ーー常識ーーのラインでは、生きる事は良い事、素晴らしい事であって、それは社会的階梯を昇っていく事を意味する。
一方で、自分が重視する古典においては、そうではないパターンというのが非常に多い。先日「ソクラテスの弁明」を読み返したが、そこでは、ソクラテスは「より良き生」を送る為に死を選ぶという、現代から考えると馬鹿馬鹿しい事をやった。今の人がどちらを取るかと言われれば、ソクラテスの価値観は絶対取らないと思う。モーツァルトなども、「このままでは大衆受けしないので楽譜を書き換えて欲しい」と出版社に言われて、「それだったら餓死した方がマシだ」という事を言ったらしい。彼はその後、貧困の中若死にしている。
ここにおいて、何が問題となっているのか。現代は、労働そのものの賞賛とも相まって、生きる事を昇華し、それを神とした。つまり、生きる事は素晴らしい、更にはそれを(人より)上に押し上げていくのは素晴らしいという事となった。ここで、他人を踏みつけにするかどうかはさほど問われない。仮に誰かに踏みつけられたとしても、(今度は自分が踏みつける側になる)と思わせておけば、踏みつけられた人間は文句は言わない。
そうやって、生きる事が素晴らしいものと現れ、大半の物語も人々の常識と合致する必要があるので、そういうものとして現れた。ここには互恵関係があると言って良いだろう。物語作者は、人々の信仰を物語という形で叶えてやる。ベストセラー本、自己啓発本という事で、彼らの「自己」を、彼らが望む通りに褒め称えてやる。すると、褒めた人間には金が入り、地位ができ、実際に「素晴らしい人生」となる。そういう関係ができあがっている。
そこでつくづく思うのが、これだけ物語作者が多いのに、セルバンテスの「ドン・キホーテ」のようなぶっ飛んだ作品は一つも見当たらないという事である。隠れている所にあるのかもしれないが、そういうものは今の所見えない。何故、それがないのか。「ドン・キホーテ」には、生きる事の悲哀が滲んでいる。「ドン・キホーテ」という人物が絶対に捨てられない信念を持って進んでいくその様が、彼の人生の悲しさを伝えるのだが、それは人間そのものの悲しさであり、人間の意志は絶えず現実に敗れる。しかし、敗北を意識し、理解し、それを描き出せるという作者の位相において始めて、精神は自然を越えるのである。
こうして考えていくと、次のような結論が見えてくる。人間の惨めさや、生きる事の悲しさを描き出すとは、正にその事によって、人間の生が限界づけられており、その限界を描く事によって限界そのものを(作者の位相で)越えていこうとする行為ではないか。一方で現在の物語の多くは、最初から生を「素晴らしいもの」と見て、そこに限界ないし悲惨さや惨めさがあったとしても、それは排除されるものか、成功の為の礎としてしか考えられていないので、我々にとっては都合よく気持ちよくなれるが、少しも偉大でない物語の集積となる。
我々はホリエモンのように生きたいと思うが、ソクラテスのように毒杯をあおぎたいとは思わない。そこに、生きる事への差異があるが、その差異は現代全体を覆っている。単に物語や作品を作るのでは、現在全体に行き渡っている世界観に最後は迎合する事になる。自分はそれに抵抗する術を古典に見出そうとしている。
現代において、「生の限界」は常に延長され、見えないものとされている。作家は人間の生を描くために筆を取るよりは、人々に認められたり、賞を取ったりする為に筆を取る事の方が多い。そこに「希望」があると人は言うのだが、それは人々の抱く「希望」と同じものだ。この幻想を破る事はできるのだろうか? 僕には、破られない幻想は、まさにそれゆえに、現実を歪んだものとして認識しながら哀れに沈んでいく気がしてならない。哲学者の言う通り、自らを哀れと知らないものは哀れなわけである。
そういう点において、現代に氾濫する無数の物語は我々の感性や価値観と一致して、様々に走っていくだろうが、我々の沈没と共に一緒に沈没するだろう。そして、それが沈没する事を見る視点だけは沈没しないだろう。自分にはそんな風に思われる。まあ、そんな風な事をこの沈没船の船上で考えている。しかし、こんな事をぐだぐだ言っている自分の人生が真っ先に沈没する気もする。自分も早い所「希望」を持とうと思う。いつか自分もホリエモンのようになれるという立派な「希望」を持とうと思う。早い所。