05.最悪の結末
「ねえ、あんたいつまで私を待たせるわけ!?」
神宮志穂を待たせて10分。彼女はテーブルを両手で強く叩きつけ、怒りをあらわにした。
朝比奈は何とかここまでのらりくらりとかわしてきたが、ついに神宮にも限界がきたようだ。
すでに灰皿は煙草でいっぱいになっている。煙草の火を消すのが、神宮はそもそも早すぎるのだ。ヘビースモーカー、ここに極まれりである。
「ねえ、証拠はどこなのよ!? 証拠をさっさと出せってさっきから言ってるんだけど!? 何なの!? 証拠がないのならさっさと帰りなさいよ!」
「いえ、もうちょっと! あと、ちょっとなんです! もうすぐ部下が来ますから、もう少しの辛抱を!」
――――もう! 本当にアイツ、何やってんのよ!
神宮は、朝比奈を罵倒してくる。朝比奈はそれに耐えるように、身を縮こまらせた。よくこんなに罵倒の言葉が思いつくものだと、彼女のレパートリーの多さに感心してしまう。
朝比奈は神宮に罵られながら、手元のスマホを覗く。ちょうどその時、鹿上から着信が入っていた。急いで電話に出る。
「鹿上君!? ねえ、何やってんの!? もう準備はできた!?」
「ええ。できましたよ。外に出て向かいのマンションを見てください。……あ。あとスマホで動画撮っといた方がいいっすよ」
「……やだ! たすけて!! おかあさん!!」
鹿上の後ろから、子供の声が聞こえてくる。どう聞いても、泣き喚いてる声だった。
カオルはその声を聞いて、青ざめる。
嫌な予感しかしない。
「鹿上君? いま子供の声が聞こえたんだけど……」
「ああもう、うるせえガキだなぁ。センパイ、とにかく早く来てください。俺、外にいますから。それじゃあ」
鹿上がそう言うと、電話は一方的に切られてしまった。
朝比奈は放心しながらリビングを見渡す。
――――ここは神宮家。
神宮志穂には一人息子がいたはずだった。
名前は海斗くん。小学4年生の男の子。
その子の姿は、今はない。
「神宮さん! お子さんは!? 海斗君は今どこに!?」
朝比奈は立ち上がり、神宮の肩を揺さぶる。突然のことに神宮の目は点となる。
「何よ、突然!?」
「いいから答えてください!
海斗君はどこ!?」
神宮は、朝比奈の勢いに気圧される。
「え……えっと、海斗は友達のところに出かけたわよ! もう! ちょっと放しなさいよ! 痛いじゃない!」
神宮は肩に食い込む朝比奈の指を引きはがし、強く握られた自分の肩をさすった。
「……友達!? その友達の名前は!?」
「なんなのよ、一体……。
確か、鹿上とか言ってたかしら」
――――鹿上。
聞きたくない名前だった。
部下と同じ名前。偶然なわけがない。
鹿上が、海斗君をたぶらかしたと見える。
――――最悪だ。鹿上の野郎、やりやがった。
朝比奈は、鹿上の思惑をすべて理解する。理解してしまった。
飛行能力。
子供の泣き声。
彼女に空を飛ばせるには、どうすればいいか。
すべてが線で繋がった時、朝比奈は泣き叫びたくなった。
――――最悪だ!
「ちょっとここで待っててください!
すぐ戻りますので!」
「はぁ!? ちょっと、あんたどこに行く気!?」
朝比奈は神宮をリビングに置いて、急いで家の外に出た。
神宮家の向かいには、4階建てのマンションがある。外に出れば、それは真正面に建っている。朝比奈は外に出ると、すぐにその屋上を見上げた。見たくない光景が、そこにあった。
しかしそれは、朝比奈にとって予想通りでもある。
「あ。センパーイ。俺ここっすよー」
マンションの屋上。フェンスのこちら側。一歩前に進めば落ちてしまう狭い足場で、鹿上がのんきな声を上げている。
「おかあさん! おかあさん!! 助けて! ゔぇぇぇぇん!!」
神宮の息子、海斗君に関してはもっと酷い状況だ。
海斗君は、鹿上が伸ばす腕の先にいた。
つまり空中。海斗君の足は、何もないところで宙ぶらりんになっていた。海斗君は青い顔をしながら、遠くなった地面を見て泣き叫んでいる。
鹿上が手を離せば、海斗君は当然、真っ逆さまに落ちていくだろう。比較的高さのないマンションとはいえ、無事で済むはずがない。
「ねえ!? アンタ何してんの!?」
朝比奈が鹿上にそう言おうとした時、朝比奈の後ろから誰かが先にそれを言った。振り返れば、神宮が鬼の形相でマンションの屋上を見ている。
――――最悪だ。
「ねえ!? これ、どういうこと!? なんで海斗があんなことになってるワケ!?」
神宮が、朝比奈に詰め寄る。
朝比奈はタジタジだった。
「これは、その、すぐ降ろさせますので!」
「当たり前でしょ!? 何よあいつ!? うちの子に何してくれてんの!?」
「あー。神宮さーん。あんたの息子、このままだと落ちちゃうよー。あんたのご自慢の魔法でさあ、息子を救ってやんなよー」
鹿上は相変わらずの暢気な声で、神宮を煽る。
――――やめてくれ!
朝比奈は叫びたかった。
神宮は眉間にしわを寄せ、マンションの方へと近づく。
「あんたねえ! 誰だか知らないけど、こんなことしてただで済むと思ってんの!? うちの子を放しなさい!」
「放していいんすかー。落ちちゃうけどー」
子供がそれを聞いて、いっそう泣き叫ぶ。足をジタバタさせ、今にも鹿上の手から離れそうだった。神宮の顔に焦りが見える。
神宮は地団駄を踏んで、屋上の鹿上に叫んだ。
「そうじゃなくて! ……あのねえ、あんた、こっちには刑事がいるのよ!? どうなるかわかってるんでしょうねぇ!? 言うこと聞かないと、あんたなんかすぐに刑務所にぶち込んでやるんだから!」
「あー。俺も朝比奈センパイと同じ刑事っすよー。まだ新人っすけどー」
「な……!?」
神宮が朝比奈を睨む。
――――あのバカ。
こっちに飛び火させやがった。
「これ、どういうこと!? あいつ、あんたの事を先輩呼びしてるけど!? ねえ、さっき言ってた部下ってあいつの事なの!? もしかしてあんたがこれを仕組んだワケ!?」
「違います、違います! 今すぐ降ろさせますので! 鹿上君!! いますぐその子を安全な方法でこっちに降ろして!!」
「嫌ですー」
――――ふざけやがって。
思わず舌打ちが出る。
朝比奈はプライドを捨て、鹿上に懇願した。
「お願い! 海斗君を助けてあげて! 本当にこれ、シャレにならないから!」
「すいません。そろそろ腕も限界なんで、手ぇ放しますねー。あと10秒でー」
神宮の顔が青ざめる。
子供がさらに強く泣き叫んだ。
――――まずい。
アイツ、本気で手を放す気だ。
顔を見て、声を聴き、相手の様子を注意深く見れば、その発言が本気かどうかなど朝比奈には容易くわかった。
結果、鹿上は犯罪の証拠をつかむためなら、子供を殺すことすら厭わない人間だと理解する。
「じゅー。きゅー。はーち」
鹿上がカウントダウンを始める。
神宮は絶叫した。
「やめて!! やめなさい!! うちの子を返せ!! あんた、早くなんとかしなさいよ!!」
神宮が朝比奈の肩を叩く。しかし、どうしようもなかった。今からマンションに向かっても、階段を上る前にカウントダウンは終わるだろう。絶望的だ。
「なーな。ろーく。ごー」
「おかあさん!! たすけて!!」
悲痛な子供の叫び声が、朝比奈の鼓膜を刺激する。
「ねぇ、お願い! こんなことはやめて!」
朝比奈は何とか子供を降ろしてもらうように鹿上を説得するが、彼の耳にその声は届いていないようだった。カウントダウンは止まらない。
「よーん。さーん。にー」
――――終わりだ。
朝比奈はそう思った。
ところで、さっきまで喚いていた神宮の声が、いつの間にか聞こえない。朝比奈は神宮の方に振り向いた。
――――神宮の姿がない。
見渡しても、見つからなかった。
「いーち。…………ぜろ」
カウントダウンが終わる。
朝比奈は屋上に目をやった。
屋上にいる鹿上。その腕の先にいたはずの、子供の姿が消えている。
――――どこへ? 落ちたのか?
その割に、静かなものだった。泣き叫ぶ子供の声はないし、神宮が悲鳴を上げることもない。
いや。やはり微かに泣き声は聞こえる。しかし、声が聞こえる方向は屋上ではない。もっと近くだ。朝比奈は視線を下ろす。
マンションの下。子供を抱きかかえる神宮の姿が、そこにはあった。
――――能力を使ったんだ。
朝比奈は察する。神宮は空を飛び、鹿上の腕から子供を奪ったのだ。
自分の逮捕と子供の命。その選択で、彼女は子供の命をとったということだろう。
鹿上の狙い通りになってしまったのは腹立たしいが、ともかく、子供が無事でよかった。そう思いながら、朝比奈は胸をなでおろす。
粛々《しゅくしゅく》と抱き合いながら泣いている神宮と海斗君に、朝比奈は近づいた。
「ごめんなさい。こんなことになって、本当に……」
朝比奈は、神宮に頭を下げた。神宮は何も言わず、赤くなった目で、ただこちらを睨んだ。
「本当に、ごめんなさい……」
消え入りそうな声で、朝比奈は言う。
「謝んなくていいっすよ、センパイ。
そいつ、人殺しなんですから」
いつの間にか、鹿上は朝比奈の隣にいた。
鹿上は事の重大さをわかっていないようである。子供一人を危険にさらしたのに、悪びれる様子もない。朝比奈は鹿上に怒鳴る。
「あんたね! 自分が何やったかわかってんの!?」
「証拠をあぶりだしただけじゃないですか。事実、俺のおかげでコイツは空を飛んだ。さっきの見たでしょ?
やっぱコイツ、センパイの言った通り魔法使いだったんスよ。とっとと逮捕しましょう。飛行能力なんて、逃げられると厄介だ」
鹿上はそう言って、ポケットから手錠を取り出した。
「……謝んなさいよ」
神宮が、地鳴りのような低い声で言う。
鹿上は彼女を見下し、鼻で笑った。
「は? 人殺しに何を謝れって言うんだよ」
「私じゃなくて、この子によ!!
うちの子に、謝れっ!!」
神宮はそう叫んで立ち上がると、鹿上につかみかかる――――かに見えた。
しかし、実際にはつかみかかることはなく、神宮は鹿上の前で倒れてしまう。
ぐしゃり。唐突に、彼女は床に崩れた。
「神宮さん!?」
「おかあさん!!」
子供が神宮に駆け寄ると、神宮の身体を強く揺すった。
力なく、神宮はただ揺れる。目を開けたまま、口を開けたまま、神宮は虚ろな目で、どこを見るとなく空を見ていた。
――――意識を失ってる。
朝比奈は神宮に駆け寄り、脈をとろうとする。しかし、手に触れた時点で、朝比奈はあることを察してしまい、その手を落としてしまった。
皮膚が異常に硬くなっていたのだ。朝比奈には、この症状に心当たりがあった。
――――これは、まさか。
朝比奈はもう一度神宮の手を取り、確認する。
「ダメだ……血液が硬化してる……」
魔法病が悪化すると、血液は粘度を持ち、ゼリー状になっていく。全身の血液がそうなれば、やがて死に至る。皮膚が硬くなるのは、その影響によるものだった。
こうなってしまっては、もはや医者には処置のしようがないのだと言う。
朝比奈は犯人がこの最期を迎えるのを、何度となく見ていた。
何度見ても、慣れることはなかった。
「おかあさん!! おかあさん!! 起きてよ!!」
子供の声が響く中、朝比奈は力なくうなだれる。
鹿上は面倒くさそうにスマホをポケットから取り出すと、署へと電話をかけていた。