15:superanda omnis fortuna ferendo est.
「イグニス様、今……何と」
「リオ、僕の最後の供は……君だ。君の力が必要だ」
私の答えを待たずに、あの方を象る数字が元素が揺れ動く。精霊となったあの方は、火でも水でも土でも風でもない。全てを従え全てと異なる輝き。それは光、第五元素だ。
出会った日と変わらぬ美しさ。私はこの精霊に心を奪われ生きて来た。この美しい人を、一時でも私の中に保管出来ると思うと……私はそのまま死んでしまいたいくらい幸福だ。貴方を私の中に閉じ込めたまま、命を終えることが出来たならどんなに幸せなことだろう。嗚呼だが、そんなことはあってはならない。
「私の力は貴方のために」
私の言葉にあの方は、嬉しそうに微笑んで……美しい精霊は数値となって私の内へと入り込む。後に残された物は――……
「よろしくね、リオ」
精一杯、ギメル様を演じる口調の主。あの方もまた……自ら契約精霊を取り込み、戦う術を確保した。誰にでも出来ることではない。精神の大部分が眠ったまま、僅かに残した精神で人間らしく振る舞うなどと……あの方だから出来たこと。
運命の輪でさえも、真実を知らない者は多い。盲目にあの方を崇め慕う者には見えない事実。愛は時に目を曇らせ、時に霧を見通す力に変わる。矛盾が生み出す力の大きさをイグニス様は知っていた。
(貴方が私に与えた保管数術が、貴方の役に立つならば……)
光栄ですと私は役目を受け入れた。道化師の目を欺くため、最後の力を残すため。その方法が選ばれた。私とあの方の出会いと同じ方法で、私達の最後の別れは訪れる。
*
「……主よ」
私は何を信じれば良い? 聞こえた声は何だった? 私は自分で定めた道を歩いたはず。けれど今回のよう、聞こえたものが数術使いのまやかしであったなら。私が信じた正義とは……果たして正義であったのか。どこまで幻聴なのかが解らない。私を呪い、罵倒する人々の声。
「私は…………」
私、ジャンヌ=アークはカーネフェルに戻り、祖国を守り……多くの友を。大事な人を得た。私は幸福だった。笑ってしまう。唯の村娘に過ぎない私が、祖国の王妃になるなんて。故郷のみんなが聞いたらどんな顔をしただろう。ああ、そうだ。カーネフェルに戻ってから、昔なじみと顔を合わせることも出来なかった。私はいつも戦うことばかりを考えていて、アルドールのことばかり世話を焼いて。薄情な娘。聖十字に入ると家を飛び出してから、兵士になった後も帰ることもなく……私は正義のために身を粉にする喜びに打ち震えていた。
兵士としての身分、王妃としての身分……全て失い残された、罪人としての私。何も彼もを剥ぎ取られて、残る後悔が祖国でもあの人でもなく……顧みなかった、普通の人間としての私であったなんて。
(ごめんなさい……父さん母さん、兄さん…………)
あなた方は私をどう思うのでしょうか。私が死んだ後、私のことを。馬鹿な娘と、愚か者だと? それとも……英雄だったと、誇りだと…………感じてくれるでしょうか? 他人からの評価なんてそんな物、私は一度だって欲しいと思わなかったのに。いざこうして罪業を並び立てられると、私は罪の重さに押しつぶされそうになる。聖女の肩書き、カーネフェリアという名前。私の盾よ、鎧であった名前がいなくなったなら。残されたのは丸裸の惨めな小娘一人だけ。私はこんなにも、弱い人間だったのか。暗い牢の中、流れた涙に私は沈む。親友の死を冒涜してでも、カーネフェルを守りたかった。その気持ちに嘘はないのに、今更涙が止まらない。
こんなカードがあったって、私の刃は女王の喉元にさえ届かなかった!! 何故!? どうして!? あんな非道を行う女に、神は世界は微笑むの!? どんな罪を犯しても、正義を選んで来た私が……何故、こうして全てを失わなければならないのですか、主よ。
《……王妃はん、王妃はん》
また、幻聴か。ため息を吐く私の側へ、近づいたのは一匹の虫だった。虫はぼんやりと発光し、牢を微かに照らし出す。
《王妃はん、うちの声聞こえてへん?》
特徴的な物言いは、どこかで聞いたことがある。
(天九騎士、阿迦奢!?)
《うちのこと覚えてくれてはったん? おおきに。あ! 堪忍な、ほな手短に》
先日も目にしたが、あの女は生物を使役する。今回は虫を使って私のところへやって来たらしい。虫が話すというよりは、虫を音響機器にして声を届けているのか。虫の羽が震えている。ならばこれは音として会話が成立している? 防音数術も展開している? 訊ねれば、光を数式に用いているのだとか。光が届く範囲は聞こえない。便利な物だ、などと感心する余裕が何処にあるのだろう? いつものように数術を讃えかけ、私は自身を嘲笑う。他ならぬ数術使いのために、私はこんな場所にいるのに。
《真面目な話やから、うちも切り替えんとね……ごほん。貴女を毒殺処刑して仮死回収しようと思ったけれど、ここは混血が多くて話が通じない。仮に成功しても、貴女の体をバラバラにしようとするでしょうね。仮死にしても意味がない。やり手の扇動家がいるようです》
阿迦奢の真面目な口調。
《カーネフェリア。貴女は本当に王妃に。王の伴侶になる覚悟はありますか? でなければ、貴女はあの人に勝てはしません》
「覚悟などとうに……」
《こんなカードのために、貴方達は自身の命を紙切れのように扱う。それは王族とは、統治者……守護者とは言えません。何を犠牲にしても生き延び、血を守ること。民にそれだけの価値があると、愛される者であること。カーネフェリア妃、貴女は民に愛される覚悟がありますか? 自身のために、命を散らせることを是と言えますか?》
国のためとは当然言える。しかし私のためになど……言える訳が無い。それが私とあの女の違いだと彼女は言った。
《貴女は騎士を見捨てるべきだ。それは彼の誇りです。何故彼を使わなかったのですか? そのために、貴女は一番大事な……守るべき王を危険に晒した。いいやそもそも、何故伴侶を信じなかったのです?》
私の迷いが、この状況を作り出した。私は望んで地獄に囚われたのだと告げられる。
《……まもなく貴女の裁判がある。十字法に則って、ならば貴女が殺されることはない。幸運ですね、こんな村にも聖教会がありました。彼らに救われた人々の……かの英雄への愛でしょう。ですが……死に死んでいるのなら話は変わってきます》
彼らはなんとしても私を殺したい。裁判の前に不慮の事故で私を殺してしまいたい。不特定多数の人間から殺意を向けられる恐怖に背筋が震えた。
《その食事、手を付けていないようですね。賢明です、食べ次第裁判が始まっていました。既に毒が入っています。……もっとも、痺れを切らせば問答無用で貴女を殺しに来るでしょうね。理由なんて後からどうとでもなります。処刑したという事実さえなければいいのですから……仮死状態になるなら今ですよ》
先ほど意味がないと言ったことを今度は肯定する阿迦奢、けれども意味合いは大きく異なる。元々この食事に混入されているのは睡眠毒だと彼女は言う。
《先ほど別の虫に持ち帰らせましたが、その毒を中和するならこの虫ですね。体液を絞って食事に混ぜて食べて下さい》
「睡眠状態の私を亡骸として、裁判を行うと言うことですか?」
《ええ。弁解は出来ませんし、後は亡骸の処理方法を決める。その後死体が泣き叫ぼうが何をしようが法律上は問題ないという解釈でしょう》
何というこじつけ。彼らはローカル蛮族ルールを持ち出し始めた。それがセネトレア流なのか。あの女王に通じる何かを感じてしまう。
騎士阿迦奢は刹那姫に仕えていた。彼女の手管は知り尽くしている? ならば人の裏をかくことも彼女は得意なのだろう。それが……道化師を上回るかどうか。これはそんな賭けだった。
「では裁判中に私が目覚めて、弁解すれば良いのですね?」
《いいえ。死ぬ前に目覚めればいいんです。裁判中に、教会ごと焼き払います。それで貴女の処刑は有耶無耶になる。火に焼かれて死んだことにも出来る》
「……そんなことが、出来るのですか?」
《協力者に、支度をさせています。後は……貴女の騎士の力量次第。それで構わないのであれば、彼にも別の虫で話を伝えに行きます》
「ですが……混血は、空間転移が使えます。火を放つ意味は…………」
《それは貴女が一番よく解っているのでは?》
火の元素を増やす理由は、私を人々を焼き殺すためではなかった。
「なるほど……解りました。私は貴女を信じます。ですが一つ聞かせてください。何故劣っている私に貴女は力を貸してくれるのですか?」
計画は良い。手を貸してもらえるのもありがたい。それでも信じることが怖かった。藁にもすがるよう、主にも正義にも裏切られた私が……敵将を信じて良いものか。私はさらなる地獄へと突き落とされはしないのか。不安で不安で堪らなかった。
《……一度抱え込んだ恋を、完全に手放すことは難しい。私はまだ、何処かで燻っている。あの人を死の瀬戸際まで追い詰めるような敵を。献上する喜びを》
私の弱々しい視線を受けて、虫は不思議な言葉を返す。
《ですから、もっと鋭い剣となってください、カーネフェリア。あの人を殺して……私の恋を終わらせて欲しい》
最後の言葉を伝えると、虫は羽を制止させ……私に叩き潰されることを望んだ。
*
精霊の抜けたシャルルスは、カーネフェル王の手を握ったまま、再びその場に倒れ込む。施術は完了したのだろう。私は見た。出会った時から何も変わらない……愛した人。光の化身が如き美しい精霊の姿を。
(これが最後――……イグニス様の、“精霊化”)
保管数術という幸福で、貴方が死してもまた会える。貴方に会える。その瞬間を待ち望み、しかしながら来なければ良いとも願った。己を元素に変えて、数術のための贄とする。奇跡を生み出すために貴方は、身も心も……魂さえも投げ出した。
どうしてもっと早くに。ルキフェルの言葉は至極当然の物である。あの方が生きているなら、精霊化のタイミングは自在であった。けれども……イグニス様は、もういない。死ぬ前に切り離した、精神の大部分を構成する元素。第四島へと旅立ったのは、彼女の肉体と精神の一部……身体を動かし生命を維持するために必要な、最低限の精神。或いはそれを魂と呼べる物であるのかも。
イグニス様は、肉体と僅かな精神だけで動いていた。精霊化した精神は私に保管されるまま、本体が命を落とした。死んだ人間の精神を呼び起こすには、精霊として目覚めさせるにはきっかけが必要だった。誰にも起こせないのなら、同じ場所まで生きている者が落ちれば良い。イグニス様が待つ死の境界まで。
「イグニス様……」
精霊を見たルキフェル。彼女は嬉しそうに彼を見ている。愚かにも、精霊となったあの方とこれからまた共に居られると思い込んでいるのだ。
「…………別れの言葉を考えろ。これが、最後だ」
どうせ知ることになるのだから、早い方が良い。立ち直るまでの時間も、早く知った分だけ早くなろう。私は彼女に事実を教える。
「……え? やめてよリオ、なんで……だって、イグニス様は! これから私達を助けて下さるのでしょう!? ジャンヌ様のことだって、まだ!」
眠る二人に元素を送り込む精霊は、徐々に輝きを失っていく。精霊は元素の固まり。力を使い果たすことは死を意味する。道化師が何より求めた“ギメル”。その肉体は囮。欲しい餌をイグニス様はくれてやり、大きな賭けに出た。自身の精神、その大部分を精霊にして眠らせる。全てはカーネフェル王を復活させるために。
(アルドール様だけでは足りない。勝ち抜くためには、彼は“マリウス”を取り戻す必要があった)
アルドールとマリウス、どちらの記憶を持つカーネフェリアが必要だった。アルドールは弱く、この先勝ち抜く強さがない。弱いのは……力ではなく心の方が。時に非常な判断を下せる力。生き残るために必要なこと。
「馬鹿者がっ!」
彼女は私の教え子ではないが、生徒にするよう……いや力を込めて彼女の頬に一撃打ってやる。このくらいしなければこの甘ったれは目を覚まさない。こんな未熟者を一人残すことになる……そんな事実が口惜しかった。
「我らの主は、神ではない! 卓越した数術使い、先読みの神子であろうと混血だろうと人間だっ! 人間には不可能事が幾らでもある! 貴様もそれくらい知っているだろう!? だからイグニス様には手足が、我らが必要だったのだ!!」
私の流す涙の意味も、この娘は理解していない。それが当たり前なのだ。保管したことで“知って”しまった私こそ、本来在ってはならないものだ。何と歯痒い。言おうとしても言葉が出ない。あれらの情報は、自らが気付くまで……理解されぬよう、伝えられぬよう仕組まれている。こんなことで知りたくなかったが、これが神の証明だ。私は言葉を換えて、抽象的に物を言う。それを誰かの例え話のように。
「…………罪を犯した人間が辿る、贖罪の道は途方もないほど果てしない。たった一度の過ちが、無限の責め苦を与え続ける」
「な、何の話よ……!?」
「お前は愚かだ。何も知らず、何も気付かず、愛するが故に守り……知ろうとしない。愛がために暴くこともない。それは稀な才能なのだ、ルキフェル。だからイグニス様は、何も知らないお前をずっと傍へと置いた」
神聖視による盲目と、不遜な愛情。カーネフェル王と同じように、お前はあの方を見ていた。青い色の瞳で。お前の目の輝きが、イグニス様には救いであり罰でもあった。
「生き延びて、辿り付け。お前は塔へと至り……全てを知れ、ルキフェル」
「リオ!? ちょっと、やめてよねぇ…………っ、どうしてあんたまでっ!!」
決まっている。器が壊れたのだ。大精霊の誕生に、器である私が耐えられなかった。血を吐き崩れる私を支え、ルキフェルは泣き叫ぶ。そんな彼女に私は、最後の力を振り絞り……唇を震わせた。
「ジャン……ヌ……を、頼……む」
「嫌よっ! あんたも一緒にっ……私一人じゃ、私の力はっ!! イグニス様っ、どうか……!」
私の目の端で、悲しそうに精霊は微笑んで……祈りの仕草と共に姿を消した。即ちそれは……。
*
リオの体が消えた。イグニス様が消えると同時に。リオが消えた……違う、弾けた。私の目の前ではじけ飛んだのだ。精霊が生まれ出た瞬間にそうなるべきだった者を、精霊自身が破壊の時を遅らせていたかのように。仲間の血の匂いなんて、知りたくなかった。こんなことってある? こんな血まみれで、肉片が散乱する馬車で……奇跡は起こった。起こらなかったら私はカーネフェリアをどうしていただろう? こんな犠牲を出したのだ。目覚めなければ許さない!
何はともあれ、二人が消えるとほぼ同時に。彼ら二人の瞼が動き震えた。完全にそれが開くより先に、片側の少年が彼の名を呼ぶ。
「お帰りなさい、アルドール様」
「……リアとはもう、呼んでくれないんだなフロリアス」
おかげでお前と気づかなかったと笑い目覚めた少年は、見覚えのある笑顔で……私の知らない陰を覗かせていた。
ここは貴方達二人だけの楽園ではないのよ。地獄よ地獄、こんなもの。はじけ飛んだリオ。消えてしまったイグニス様。泣いている私の側で、ゆっくり体を起こしたシャルルス。彼は眠った王の手を握りしめたまま、私の知らない声で彼を呼んだ。この場に私の愛すべき仲間達は……もはや一人も存在しない。なんて心細いのだろう。二人は笑い合っているのに、私は……。
「ルキフェルさん…………すみません」
シャルルスの体で目覚めたのは、フローリアでもイグニス様でもなく…………フロリアス。かりそめの人格は消え、少年達は互いの過去を取り戻していた。しかし彼は私の名を知っている。覚えている。イグニス様がシャルルスが……知りうる限りの情報を、彼へと引き渡したのだ。それはアルドール様の記憶を持つマリウス様? マリウス様の記憶があるアルドール様? どちらでも構わない、アルドール様に欠けていた王の風格を今の彼は身に付けていて、マリウス様に欠けていた……温かな心があるのなら!
「……ルキフェルさん、感謝も謝罪も後でゆっくりさせてください。だけど今は」
「はい、解っています。……丁度、先発隊から連絡が」
袖で血と涙を拭い去り、私は仕事に向き直る。嘆きも後悔も、私の死後にゆっくりやればいい。
(絶対に、助けるんだ。今度こそっ!!)
ジャンヌ様を、ランス様を。そのために今日、彼らは散っていったのだから。
久々に書けました。