泥と朝顔、夏花火
前に書いた、『病室の花火』の補足みたいな、蛇足みたいな。
もし病室の花火を見ていないなら、先にそっちを見た方がいいんじゃ……ないかなぁ……。
「お気の毒ですが……って、なぁ……」
そう呟いて煙草に火をつける。彼女は自分が煙草を吸う事を嫌がっていたのだが、どうしても止めることが出来なかった。
彼女の前で吸わない様にはしているのだが、服に残った臭いすら嫌いであるらしく、こうして吸った後は決まって機嫌が悪くなる。
「あー……」
声を漏らしてみる。腹の底に溜まった泥は微塵も減る気配がない。息も吐いてみる。深い溜息によって排出されるのは二酸化炭素の増えた空気。思った以上に泥は重い様だ。
*
「お気の毒ですが――」
そんな在り来たりな言葉を自分が聞くとは思ってもいなかった。だが、その言葉が指すのは自分の事ではない。
今も病室で過ごしている彼女。幼いころから一緒に過ごしてきた。一緒に悪戯ばかりして、近所では悪ガキコンビだなんて呼ばれていた事をふと思い出した。
今の関係に発展したのは高校を卒業したばかりの頃で、当時、シングルマザーだった彼女の母親が病で他界したことが切っ掛けだった。同じ大学に合格したばかりで、喜んでいた矢先の出来事だ。
拠り所の無くなった彼女を、一人暮らしをしていた自分の部屋に居候させた。付き合いが長かった事もあり、直ぐに自分の生活の一部として馴染んだ。
馴染み、いつしか、かけがえのない存在に変わっていた。
その彼女が、今、彼女の母親が他界する原因となった病に罹った。進行が進み過ぎて、体を丸ごと取り替えたほうが早いと医師が匙を投げる程に、手遅れになっていた。
「よ、調子どうだい?」
いつもの様に彼女の病室を訪れた。ファッション雑誌を読んでいた彼女は顔を上げ、こちらを見つめると、笑った。
「ふふっ、昨日と同じこと言ってる」
思わず苦笑いした。日に日に悪くなっていく彼女に、毎日同じ言葉を投げかけるのは当然だと思っていたが、言われる本人からすると、どこか変らしい。
「いや、流石に毎日来てると挨拶の言葉も同じになるよ」
勿論嘘だ。その嘘を彼女がどう捉えたかは分からないが、納得はした様だ。
「ふーん、あ、そうだ。これ見て」
折り目の付けられたファッション雑誌の、あるページが目の前に差し出された。受け取り、そのページに目を通すと、左端に鉛筆で薄く丸がつけられた服があった。
「朝顔、の浴衣?」
「そ、これ着て、デートとかしてみたいなぁって」
彼女は恥ずかしそうに頬を掻く。
もう、浴衣なんて着られる機会なんて来ないのに。
この病室から、隔離されたまま、外の空気を吸うしかないのに。
「体調が良くなったらな。そしたら、一緒にどこか行こうか」
唇が少し震えたのが、気付かれていないだろうか。隠した左手を握りしめ、大きくなる何かを押さえつける。
「あー、じゃあ、あそこ行きたい。あの木の下」
木の下。何処を指しているのか、直ぐのには理解できなかった。
「あの木の下って……」
「もしかして、忘れてる? ほら、私が小学生の頃、登ったっきり降りられなくなったあそこ」
あぁ、彼女と初めて出会った場所か。そう気付いた時、突然怖くなった。理由はある。
「……どうして、ここなんだ?」
必死に絞り出した声が震えた。きっと、今度は気付かれただろう。この問いに意味はない。ただ、自分の頭に浮かんだ答えを否定する為に、自分に問いかけた言葉だった。
「ほんとは……結婚、とか。する時にね、行こうと思ってたんだけど。ほら、もう間に合わないから。……死ぬ前にさ、見ておきたいんだ」
あぁ。そうだろうな。
その言葉は濁流に流されていった。胸に走る激痛と止まる呼吸が、冷静さを奪っていく。
分かっている。彼女は、自分の時間がもうない事を、とうの昔に理解している。
理解している上で、受け入れている。
自分のやりたいこと、やり残したこと、言いたかったこと。それらを、自分の命が尽きる前に全て出そうとしているのだ。
「きっと……いや、うん。そう、だな」
理解しているのに、受け入れられないのは自分だ。
ずっと自分の痛みは乗り越えてきた。乗り越えて、受け入れて、そうやって生きてきた。
だが、
自分以外の痛みはどうやって乗り越えれば、いいのだろうか。
地面に煙草を落とし、踏みつけた。
泥は消えない。
彼女がいなくなってしまった今でも、消えていない。
薬を常備していないと、こうして思考することも儘ならなくなっていた。煙草の量は減った。彼女を思い出すことは増えた。どれだけ思考しても、行きつくのは「もし、彼女が生きていたら」という妄想。それは徐々に、体を蝕んでいた。
「……冷た」
じっとりとした雨が降り出した。梅雨の季節を思い出すような雨。濡れないように煙草を仕舞う。
「最近また値上がりしたって、いうの……に――」
何かが頭を過った。痕跡と感覚を頼りに、何かを特定しようと頭を働かせる。
『死ぬ前にさ。見ておきたいんだ』
何か大切なことをずっと忘れている。頭の中に確かにあった筈なのに、どうしても蝶番の錆びた扉の様に、きしんで思い出せない。
――去年
『――をあなたと見に行くの、楽しみだったの』
――夏
"チラシのタイトルは夏の――"
――ごみ箱に投げ入れられたくしゃくしゃの煙草
"そうだ、彼女は煙草が嫌いなのであった。"
――ファッション雑誌の折り目
『そ、これ着て、デートとかしてみたいなぁって』
――降りられなくなった木の下
『ほら、もう間に合わないから』
――日付に印のついたチラシ
"開催は、今週の木曜日"
――病室
『……少し、怖くなっただけ』
――――花火。
煙草を近くのごみ箱に叩きこみ、立ち上がる。
朝顔の浴衣が視界の端ではためく。
泥は変わらず残っている。だが、本来こいつは最初から存在していたのだ。そりゃなくならない訳だ、と呟く。
「待ってろ」
夏の花火大会は、今年も開催される。




