サイコ・ラバー ~住居兼屠殺場〜
その夜、東京都二十三区から離れた某市郊外に建つ一軒家の前で、二人の男性刑事が乗った乗用車が止まっていた。一軒家とはつまり私の自宅であり、男性刑事とは鳴海刑事と大倉刑事の事である。
私の家に着くなり、鳴海刑事は私の自宅で看病すると言ってくれたが、丁重にお断りした。私は、プライベートな部分を他人に見せたくはない……他にも理由はあるが、とにかく鳴海刑事は今、表に停まっている車の中にいる。
だが、自分達の時間を削って私の身辺警護兼看病に付き合ってくれる彼らに、私は心から敬意を払っている。
そんな彼らに、私は自家製のクラブハウスサンドを持って車の方まで向かった。
「お疲れ様です、どうしたんですか?」
私が車の前まで来ると、鳴海刑事が車のウィンドウガラスを下げて質問してきた。
私は彼らに対して、私の体調不良に付き合ってくれたことに対する感謝の言葉と共に、サンドウィッチを手渡した。
「あ、ありがとうございますっ!」
「おぉ、これはなんともうまそうな……感謝する」
二人がそう言うのを聞いて、私は再び家の中に戻っていき、家や仕事の雑用を片付け、風呂に入ってベッドの中に潜り込んだ。
身体はだるく、熱も出てきたようだ……今日は本当に疲れた……血まみれの女性、北条さつき、飯島佳代子……この日だけで、どれだけの気苦労をすることになったか……だが、やがて眠気が私を襲い、夢の世界へ誘おうとしたその時、
(っ!)
私は反射的にベッドから飛び退いていた。
私は体勢を整えてベッドを見ると、さっきまで私の頭があった枕に、月明かりに照らされて不気味に光る斧があった。
「ふふ。さすがですね」
いる……私の二、三十センチ手前に、何かがいるっ! それは月の光によって、徐々にその姿を現したっ!
「ごめんなさい……でも、私はあなたの事を愛しているんですよ? ただ……あなたの立場からすれば、私は犯人でしょうし……」
その声は女性のようだった。月明かりが逆光となっているため、その姿をハッキリとは見れない。
いったい何者なのか……私がそう考えていた時、その女性は私に突進してきた! 私は壁に叩き付けられ、息が詰まるっ!
「ふふ、どうしました? 抵抗しないと死んじゃいますよ? ま、死んじゃったらあなたを剥製にしてお家に飾るだけですけどねっ!」
首がギリギリと締まるっ! 凄まじい力だっ! このままではまずいっ! 何か、何か策は無いかっ!?
「あの人の言う通りにして良かった……おかげでようやく、私にも人生のパートナーが出来そうだわ」
その女性は私を壁に押し付けて首を絞めながら、平然と言ってのけた。
私は薄れゆく意識のなか、その女性の腕を片手で掴み、もう片方の手で関節の部分を外側に叩く――女性の肘はガクッと曲がり、体勢を崩した――私はチャンスを逃すまいと、体勢を崩した女性に体当たりした。
窓に叩き付け、ガラスの破片が飛び散るなか、私は女性を押さえつけようとしたが失敗した。
体調が悪いせいで、思ったより体が衰弱しているようだ。
女性に足で蹴り飛ばされ、ベッドに叩き付けられ――再び立ち向かおうとすると、すでに女性の姿はどこにも無かった……。
「神牙さんっ!? 何かありましたかっ!?」
「おい、大丈夫かっ!?」
タイミングよく、自室の扉を開けて鳴海刑事と大倉刑事がやってきた。
私は、今起きたことを二人に話した。
「そんな事が……」
「むぅ……自分が付いていながら……すまんっ!」
二人は思い思いの感想を述べた。
割れたガラス窓が開けられているという事は、彼女はここから逃げたのか……幸い、私自身にさほど被害は無かったが、その日は彼らと共に車の中で夜を明かすことにした。
※
翌日、鑑識に依頼して私と女性が格闘した自室を調べてもらったが、何も手掛かりは無かったという。
私は失意のなか自分の仕事場に向かい、デスクに座って溜息をついた。
「なんだぁ? 朝っぱらから溜息なんてついて? オンナに振られたか?」
鬼島警部はソファに座りながら、お気楽に言ってくる。
私は昨夜起きたことを、正直に話した。
「へぇ、そりゃ大変だったな。ま、なんとかなるさ」
そう言って、テレビのワイドショーに釘付けになってしまった。
私は心の中で薄情者の鬼島警部を三回ほど撲殺すると、デスクワークを行う鳴海刑事と大倉刑事を見た。正直、この二人がいてくれて心強かった。でなければ、私は死ぬまで奴と殺し合いをしていたかもしれない。
その事を考えて身を震わせていると、鳴海刑事の電話が鳴りだした。
「もしもし、鳴海ですが?……あぁ、北条さん?」
電話の相手は北条さつきらしい。要件が気になる。
「うん……うん……わかった。すぐに行くよ。それじゃ」
そう言って、鳴海刑事は電話を切った。
「どのような要件でありますか?」
いつの間にか鳴海刑事の横に立っていた大倉刑事が、興味津々で質問する。もっとも、私も気になっているのだが……。
「北条さんがこれから仕事らしいから、僕らに警護してほしいそうです」
「なるほどっ! それでは早速まいりましょうっ! 場所はどこでありますかっ!?」
急にテンションが上がった大倉刑事が、鳴海刑事にグイグイと質問する。鳴海刑事はタジタジしながら答えた。
「そ、それが、彼女はもう警視庁の前で待っているそうです」
「なんとっ!? 分かりましたっ! 自分、お先にさつきちゃんを迎えに行ってくるでありますっ!」
そう言って、大倉刑事は扉を勢いよく開け放って行ってしまった。
私は彼の単純さに呆れつつも、デスクの引き出しに入れてあった私物の銃、レッドホークアラスカン・カスタムを高級牛革で作ったショルダーホルスターに入れて装備した。
さらに、同じ引き出しに入れてあるコールドスチール社製のナイフ、エスパーダを腰に差し込み、鳴海刑事と共に警視庁の正面入り口へと向かった。
そこではすでに大倉刑事と北条さつきが話し込んでおり、北条さつきは我々の姿を見ると駆け寄って『おはようっ!』と挨拶をしてくれた。
その後、警視庁の外に出たが、昨日見た白いワゴン車が見当たらなかった。
てっきり、飯島佳代子が運転するワゴン車で仕事場に向かうものと思っていたが……北条さつきにその事を聞いてみると、
「その事なんだけど……今日は事務所の車は全部他の子たちが使っているそうなの。でも、佳代子さんはもう現場にいるって言うし、現場もここから二十分ぐらい歩いた所にあるらしいわ」
なるほど、そういうことか。とは言っても、飯島佳代子の言い分を全面的に信じることは出来ないが……。
その後……二十分程歩いて、私達は通りを抜けた先の路地裏にある廃ビルの前に来た。
「ここが?」
「一応、そうらしいけど……」
鳴海刑事の質問に、北条さつきは言葉を濁しながら答えた。彼女自身も、ここが仕事場であることを不思議に思っているらしい。
「それじゃ、あなた達はここで待ってて?」
「えっ!? 一緒について行ってはいけないでありますか? な、なぜでありますかっ!? なぜっ!?」
大倉刑事は大声で北条さつきを問いただした。彼のその気持ちもわかる。何かが変だ……昨日の夜の出来事もあって、私は警戒していた。
「あのね、あなた達が警護に付くっていうのは、今のところ私と佳代子さんしか知らないのよ? この業界で、なんの連絡も無しに見知らぬ人間を仕事場に連れてきていいと思う? そういうところは、ちゃんとしなきゃダメなの」
そう言って、彼女は廃ビルの中に入っていった。
「……どうしますか?」
彼女がビルの階段を上って我々の視界から消えた直後、鳴海刑事が私に聞いてきた。
彼の隣では、大倉刑事がこれ以上ないほど心配した様子でビルの方を見ている。
私は、北条さつき及びその関係者に気づかれないようにビルの中に入り、異常がなければそのまま堂々と警護を続けたい旨を二人に伝えた。
「うむっ! 自分も同感だっ!」
「分かりました。少し不安ですが……そうしましょう」
こうして、私は二人の刑事と共にビルの中に入っていった。
少し埃っぽい空間を慎重に進み、私が階段に足を掛けた瞬間、
「キャアアアァァアッ!!」
上から女性の悲鳴が聞こえたっ!――私は階段を駆け上がっていき、一フロアずつ確認しながらホルスターから拳銃を引き抜いた。
やがて壁に三階の表示がされたフロアを見ると、奥の方から明かりが漏れていた。
私は二人にジェスチャーで静かに付いてくるように指示すると、壁に背を預けながら、ビルの柱を盾にするように進んでいった。
それにしても、ひどい臭いがする……まるで腐った肉のような――
(っ!)
「うわっ!?」
「な、なんとっ!?」
……やがて奥にたどり着くと、その空間には異様な光景が広がっていた……その空間は擦り切れてボロボロになったパーテーションで仕切られていたが、床には所々に血の塊がこびりついており、パーテーションの壁や床には人間の耳や頭蓋骨などの人体のパーツが所狭しと飾られていた。
「あ、あれは……」
大倉刑事は、今にも卒倒しそうな勢いだ。
なぜなら、その部屋の中心には血まみれになった飯島佳代子と気絶した北条さつきがいたからだ。
しかし、飯島佳代子はこちらに気づいていないらしく、床に整理整頓されていた肉塊を、手にしたナイフで切り分けて一口ずつ食べている……。
私は内心焦った。今、我々の目の前にいる飯島佳代子は、間違いなく狂っている。
そんな人間の手にナイフが握られている以上、何をするかわからない。何か突破口はないものか……私が悩んでいると、事態は急変した。
「誰っ!?」
飯島佳代子が、こちらの方を向いた。その顔は狂気に歪み、口の周りは赤く染めあがっていた。
「動くなっ!!」
私は精一杯の声を張り上げて、拳銃を両手で構えた。
「あら、刑事さん?」
すると、飯島佳代子はいつもと変わらない、むしろいつも以上に明るい様子だった。
私は大倉刑事に容疑者を確保するように言ったが、反応はない。
「ふふ、同僚の刑事さんなら倒れてますよ?」
飯島佳代子は、面白そうにナイフで大倉刑事のいる場所を示した。
私はつられて大倉刑事の方を見ると、彼は白目を剥いて失神していた。
その時、私の隣で風が吹いたっ!
「ぐふぅっ!?」
見ると、飯島佳代子は私の後ろにいる鳴海刑事の首を絞めていた。
私は精一杯の声を張り上げて、鳴海刑事から離れるように言いながら飯島佳代子に拳銃を向けると、彼女はすんなりと鳴海刑事の首から手を放す。
鳴海刑事は意識がないのかすでに死んでいるのか、ぐったりとその場に倒れこんでしまった。
「ふふ、ほら、放しましたよ? 次は何をすればよろしいですか?」
彼女は、両手を広げるジェスチャーをしながら言った……正直、今の彼女が人間であるかどうか、私には確証がない。
今の動きは、明らかに人間の身体能力を超えているような気がした。
私が彼女に警戒しながら近づいて手錠を掛けようとしたその時、全身が戦慄した。
「はぁあっ!!」
彼女は真一文字にナイフを振ったが、私は間一髪で避けた。
「うふふ、さすがです、刑事さん」
彼女はそう言いながら私との距離を一瞬とも言える速さで詰め、ナイフを突き刺そうとしてきた――私は反射的に拳銃を捨て、合気道の要領で飯島佳代子を投げ飛ばした。
彼女は肉塊の海に落下したが、構わずに起き上がって私に向かってナイフを振り回す――。
「刑事さん、私、あなたに恋してしまいましたっ!」
いきなり何を言っているんだ、この人はっ!? 私はメチャクチャに振り回されるナイフを避けながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「私ねっ! あなたに初めて会ったあの時、分かったのっ! 私達は似た者同士なんだってっ! 普通の人じゃ満足なんか出来ないっ! あなたとなら、きっと素晴らしい関係を築けるわっ!」
彼女が何を言っているのか、私にはよくわからない。というか、ナイフを避けるのに必死で聞く暇がなくなってきた。
「なんでさつきちゃんをこの場所に呼んだか、知りたいですかっ!? もう彼女には用がないんですっ! あの子の気を私に向けるために、カミソリをあの子のバッグに入れたり、動物の死骸を家の玄関に置いたりしたわっ! 案の定、簡単に私に懐いちゃってっ! でも、もうどうでもいいっ! だって今の私には、あなたがいるんですものっ! それに、彼女には私の生活を見られてしまったしっ!」
私は、彼女のナイフを突き入れようとする手を取って腹部に膝蹴りをし、背負い投げをして彼女が転んだ隙に北条さつきの近くに駆け寄った。
飯島佳代子が言った『私の生活』……それは、北条さつきが目撃した殺人行為のことだろうか?
「ふふ、本当に素敵……でね、彼女は『あなたは誰?』なんて聞いてくるから、私、言ってやったの。さつきちゃんの本名の『しのみやまい』ってね」
彼女はゆっくりと立ち上がって、私の方を見ながら鮮血に染まる口を開いた。
「今まで、本当に辛かった……男性も、女性も……どちらの性別でも色々な職業の人達と付き合ってきたけど、誰も私を理解してくれる人はいなかった……私のこの家を見てさつきちゃんが喜んでくれたなら、せめて愛人として生かしてあげたけど……ダメだった……もう他の人達なんかどうでもいいわ。私はあなたさえいれば幸せなの……」
その時、外からパトカーのサイレンが聞こえた。私は彼女に投降するように言った。
「……嫌よ……」
彼女の顔は、先程とは違って無表情になった。それは彼女が、私と初めて会った時の表情に似ている。
すると突然、彼女はフロアの階段へ走っていったっ!
私は大倉刑事と鳴海刑事の容態を心配しつつ、彼女を追いかけた。
飯島佳代子は階段を上の方に駆け上がっていき、やがてビルの屋上に出た。
彼女は屋上の出入り口、つまり私から見て左側に立っている。
彼女が建っている場所は屋上の端だったが、そこだけ柵が無かった。
「それで……どう? 刑事さん? 私と一緒になる気はない? 私、なんでもするわ。食事や家事も、仕事も全部両立して見せるっ! だから……一緒になりましょ?」
私は彼女の提案を断った。彼女に必要なのは、私との生活ではない。
罪を償い、被害者と遺族への懺悔……そして、精神病院への入院だ。
それで彼女が変わるとは、今の段階では正直思えない……しかし、それこそが、彼女が今後送っていく人生だと思う。
「……なんで?」
私の答えがよほどショックだったのだろう……彼女の顔には、明らかな悲壮感が漂っていた。
「なんでよっ!!?」
前言撤回。めっちゃこっち睨んでます。
「私はあなたのためなら何人でも殺せるっ! あなただってそうでしょっ!? 自分の家族を殺したくせにっ!」
……その言葉を聞いて、私の心臓は鷲掴みにされたような感覚に陥った。
古い記憶……とっくに忘れたと思っていた……過去の出来事……。
その時、私の心の中にある何か大事なものが、音を立てて壊れるのを感じた。
私は腰からナイフを取り出すと、ゆっくりと構えた。
「ふふ……やっぱりいいわ、あなた……でもね――」
佳代子はそう言った瞬間、柵の間から身を投げ出してビルから飛び降りた。
私は急いで駆け寄ると、下には線路があり電車が走っていた。
飯島佳代子はその屋根におり、何事か話しているようだった。
『またどこかで』
私にはそう言っているように聞こえた。
やがて、彼女の姿は電車と共に線路のカーブを曲がって見えなくなってしまった。
その後、私は例の場所に戻った。
床に倒れている鳴海刑事の身体を揺すって声を掛ける。
「あ……か、神牙さん……」
良かった……鳴海刑事はただ単に気を失っているだけだったようだ。彼の話によると、応援のパトカーは彼が呼んだらしい。
私は、未だに気を失っている大倉刑事を蹴り起こした。
「む……や、奴はどこにっ!?」
いまさら呑気に飯島佳代子の姿を探す大倉刑事に、私は事情を説明した。
「そうか……面目ない……自分は……」
思いつめる彼を適当になだめて、私は北条さつきの様子を見た。
彼女も特に目立った外傷はなく、ただ気を失っているだけのようだった。
私は彼女を揺すって起こすと、目を覚ました彼女にもう大丈夫だからと声をかけた。
「あ……刑事、さん?……あっ! か、佳代子さんはっ!?」
私は彼女にも事情を説明した。
「そう、ですか……」
その後、私達と自宅の前で別れるまで、彼女は一言も発さなかった。