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妬みの泥沼 ~対峙~

 しばらくして車の窓から外を見るが、すでに時刻は夜になっており、辺りは暗闇に包まれていた。

 やがて車は住宅街から山地に入り、林道を走っていく。途中で後ろを振り返ったが、鳴海刑事や大倉刑事の乗った車が見当たらない。おそらく、北沢に気づかれないように距離をとっているのだろう。

 山の中は驚くほど静まり返っており、虫の鳴き声どころか、木々のせせらぎさえも聞こえない。

 だが、染谷香は車のヘッドライトを頼りに、道に迷う素振りも見せずに車を走らせていった。

 しかも、細い林道は意外なほどしっかりと舗装されていた。車が揺れることはほとんどない。周囲に村や集落などない山奥の道であるにもかかわらず、である。

 やがて、車は行き止まりに突き当って停車した。

 そこは、どうやら駐車場のようだった。だが、他に停まっている車は一台もない。

 染谷香の方は、車を停めるとさっさと降りてしまった。

 私は迷った……ここが『朝の栄光』ならば、すでに北沢千里がどこかから様子を伺っているかもしれない。迂闊に車から出ることはできない……だが、染谷香をこのまま一人で進ませるわけにもいかないだろう。

 私は車のドアをゆっくりと開けて車体に身を隠し、染谷香の動向を探った。辺りに人の気配はない。染谷香の方もこちらを見ている。

 私は車体から出て、彼女に付いていくことにした。

 しばらく進むと、唐突に巨大な建造物が姿を現した。

 林道はこの建物のために舗装されていたのか……建物は平均的な小学校より少し小さいぐらいで、白い塗装が剥げかかっていた。


「……見て」


 彼女の言葉に促され、私はその指さす方向を見た。


『アサガオ病院』


 カビの生えた看板にはそう書かれていた。

……そういうことだったのか。朝の栄光……英語だとモーニンググローリーだ。それは、アサガオの英名でもある。


「悠斗はね……ここで生まれたのよ」


 私は彼女の言葉に違和感を感じた。そう、彼女は染谷悠斗を『生まれた』と表現した。『生んだ』ではなく……私の意図を察したのか、染谷香は話を続ける。


「私……言ったわよね。『悠斗を愛していない』と」


 私は黙って、彼女の次の言葉を待った。

 おそらく、彼女は母親として心の奥底にため込んでいた本音を話そうとしているのだ。


「悠斗はここで生まれたのよ。代理母出産によってね」


 私は耳を疑った。

 代理母出産……確か日本では問題があったはずだ。


「……この病院では、極秘裏に代理母出産を請け負ってくれていたのよ。もちろん違法だから、相当なお金がかかったけど……でも……私は子供を産めない体だった……だけど、子供の頃から夢見ていた幸せな家庭を築くためには、どうしても子供が欲しかったの。

 だから、主人に頼んでこの病院を訪れたわ。でも、その時に作った借金が最後まで祟ってしまった……子供はできたけど、主人は借金を返すために休みも取らずに働き続けた。幸せな家庭を手に入れるためだったのに……逆に夫婦仲はどんどん冷めていって……お互いに顔を合わせない日がずっと続いた……借金の方は何とかなったけど、主人は徐々に家に帰って来なくなって、よそに女を作った。

 そこで二人の溝は決定的になったわね。その後、悠斗が幼稚園の年長さんになって手が掛からなくなって、ふと思ったの。これが、私が夢見ていた幸せな家庭なのかなって……主人との離婚調停が進んで、身も心もボロボロになってくると、物事を悪い方にしか考えられなくなっていた……『私は何をやっているんだろう? 幸せなんてどこにもないじゃない』ってね」


 そう言って、彼女は自嘲気味に微笑んだ。


「そして、両親の死が決定的に追い打ちをかけた。私にはもう、悠斗しかいなかったの。でも、あの子が小学校に進学して、少しずつ成長していくにつれて不安だったわ。この子は私の顔に似るんだろうか? もしかたしたら、代理母の顔に似るんじゃないか?

 それだけじゃないわ。将来、あの子が自分の出生の秘密を知ってしまったら、私はなんて言われるんだろうって。それからは毎日が不安だった……結局、私の周りには誰もいなくなっていたの。そう思うと、無邪気に懐いてくる悠斗が、本当に憎くなってきたわ。

 この子は私の子じゃないのに、どうしてここにいるんだろうって……あの子を叩いても、それほど心は痛まなかった。それが悲しくてもっと叩いたわ。そしてどんどんエスカレートしていって……気づいたら自分でも止められなくなってた……こんな女、母親失格よね?」


 顔を上げて質問する彼女に、私はハンカチを差し出してその意見を否定した。

 なぜなら、彼女は両目から涙を流していたからだ。

 私がその事を指摘すると、彼女は驚いていた。


「そんな……どうして……」


 私はハンカチを彼女に握らせて、改めて染谷悠斗を助けることを提案した。


「……そうね」


 彼女はそう言って微笑んだ。その姿は、母の慈愛に満ち溢れているような気がした。

 おそらく、彼女は染谷悠斗を失うことが怖かったのだろう。すべて失った彼女に、たった一つ残った染谷悠斗は決して失いたくない存在だったはずだ。だから彼女は、何度も染谷悠斗を叩いた。いつ失っても心が痛まないように……。

 だが、それも終わりだ。

 私は決意を新たにした彼女と共に、廃病院の中に入っていった。


             ※


……病院の中は完全な暗闇に閉ざされていた。

 私は軍用の懐中電灯を照らし、彼女を後ろに付かせて前に進んでいった。

 カビと埃、かすかな消毒液の臭いに耐えながらしばらく進むと、前方の壁に肖像画があった。

 そこには、一人の長髪の女性が微笑んでおり、プレートには『副院長 北沢千里』と書かれていた。

 私の頭の中で、バラバラだったパズルのピースがどんどんと組み立てられていく。

 まさか……北沢千里が……はやる気持ちを抑え、私は隣の肖像画も見た。

『院長 北沢宗二郎』と書かれたプレートの肖像画には、初老の男性が描かれていた。

 いったいなぜ、この病院はつぶれてしまったのだろうか? 北沢宗二郎はすでに亡くなっているのだろうか? 様々な憶測と疑問が脳内で渦巻く。

 だが、今は一刻も早く染谷悠斗の身の安全を図ることが先決だ。

 北沢千里は、染谷悠斗を傷つけるつもりは無いだろう。

 しかし、母親の染谷香については怒りを感じていた。彼女を傷つける可能性は否定できない。

 私は鳴海刑事と大倉刑事、そして捜査員達のバックアップを信じて歩き続けた。

 建物の上階に進んでしばらく進むと、前方のドアからボンヤリとオレンジ色の光が漏れていた。

 私達はドアの前に立つと、一度大きく息を吸い込んだ。

 ここから先は、何が起きても不思議じゃない。

 私は染谷香の方を見て合図を送ると、ゆっくりとドアを開けた。

……部屋の中の光景に、私と染谷香は共に釘付けになった。

……薄汚れた病室……ランプの明かりが陽炎のように揺れる室内で、恐ろしい形相を浮かべた女が、少年の首に鉈を押し付けていた。

 黒く長い髪は乱れ、赤くギラギラと血走る目は彼女がこの世の者ではないかのような印象を抱かせる。

 だが、彼女には角がない。その代わりに、彼女からは異様な気配を感じる。

 それは、宮川晴子から感じたのと同じものだ。


「ママッ!」


 涙声で、少年が叫んだ。おそらく染谷悠斗だろう。

 だが女の方、北沢千里だと思うが、彼女は明らかにこちらに対して殺気を放っている。今にも鉈を振り下ろしそうだ。


「悠斗っ!」


 そう叫んで染谷悠斗の方へ向かう染谷香を押しとどめて、私は北沢に少年を解放するように叫んだ。

 だが、彼女は悠斗に鉈を突き付けたまま、こちらを見ている。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……なぜだ?」


 その声はひどく耳障りで、全身に不快感を覚える声だった。


「なぜすぐ助けに来なかった?」

「……」


 染谷香は、その質問に答えられなかった。


「私は、この子を取り戻すチャンスを与えた……この子が家に帰りたがっていたから……でも、お前は来なかった……」

「違うっ!」

「何が違うっ! ユウちゃんはずっと……ずっとお前の下に帰りたがっていたっ! なのにっ! おまえは来なかったじゃないかっ!」


 染谷香の反論に、北沢は声を荒げる。

 たしかに、染谷香が息子を見捨てようとしたのは事実だ。

 だが、今は違う。なんとかその部分に活路を見いだせないものか……。

 私は彼女に、染谷香が改心すれば息子の悠斗を返すつもりだったのではないかという事を伝え、再び悠斗を離すように言った。


「そのつもりだった……だが、気が変わった……こいつに返したら、またユウちゃんが不幸になってしまう……こいつはユウちゃんの母親にふさわしくないっ! だからユウちゃんは返さないっ!」


 北沢はギロリと私を睨みつけると、今度は一転して優しい口調で染谷悠斗に話しかけた。


「ねぇ、ユウちゃん? あんな女より、私と一緒にいる方が楽しいわよね? 私はユウちゃんの望むことなら何でもしてあげる。だから、ずっと一緒にいようね?」

「で、でも、ママが――」

「あんな女、ママなんかじゃないわよ。ユウちゃんをいじめる悪い女だわ。そんな女に、母親の資格なんてないでしょ? ねぇ、ユウちゃん、本当のことを言って? あなたを叩くあの女の事なんて嫌いよね? ね?」


 それを聞いて、染谷悠斗は激しく首を横に振った。

 その拍子に鉈が彼の首を切りそうになったが、北沢千里が慌てて鉈を引っ込めたために事なきを得た。


「……どうして? 私なら、ユウちゃんを幸せにしてあげられるわ。ねぇ、ユウちゃん、私頑張る。あなたの優しいお母さんになってあげるから」


 今の北沢千里の姿は、見るに堪えなかった。あまりにも痛々しい。


「僕のママは……ママだけだもんっ!」

「悠斗……」


 染谷香の表情には、どこか後ろめたさのようなものが感じられた。おそらく、代理出産の事を気にしてるのだろう。

 だが、私にとってはこの場面はとても感動的で――


「なんでよっ!?」


 いかんいかん、感動している場合じゃない。まだ北沢千里がいるのだ。

 彼女は、染谷香を親の仇のように睨みつけている。

 その目に宿るのは、もはや怨念といっても差し支えない感情だった。


「違うっ! 違うのよっ! この女は、あなたの母親なんかじゃないのっ!」

「やめてっ!」


 染谷香がハッとして叫ぶが、北沢千里は構わずに話し続ける。


「母親面してユウちゃんを叩いてっ! でも、あの女にはそもそもそんな資格はないのっ! あの女はあなたを生んでいないのよっ!?」

「やめてっ!!」


 染谷香の悲鳴にも似た絶叫が、廃病院に響き渡る。

 染谷悠斗の方は、明らかに動揺していた。

 北沢の言葉の真意は分かっていないだろうが、染谷香が自分の母親ではないと言われたことは理解しているらしい。


「教えてあげるわ、ユウちゃんっ! あなたを生んだのは――」

「やめてぇっ!!」


 染谷香はいきなり飛び出した。

 私は止めようとしたが間に合わず、彼女は北沢千里へと掴みかかろうとする。

 だが、北沢はためらいなく鉈を薙ぎ払った。


「ママァッ!」


 悠斗の叫び声と共に、染谷香は突き飛ばされた。

 すぐに駆け寄って容態を見ると、顔に殴られたような跡があるだけだった。どうやら鉈の刃の部分ではなく、柄の部分が当たったのだろう。

 染谷悠斗は暴れながら必死に北沢千里に訴えかけた。


「やめて、お姉ちゃんっ! ママをいじめないでっ!」


 彼は北沢千里を心から慕っていたのだろう。彼女の事をお姉ちゃんと呼んだのがその証だ。

 しかし、北沢千里はそんな声に耳を貸さずに、ただただ自分の思いをぶつけるだけだった。


「ユウちゃん、聞いてっ! あなたを産んだのはね、私なのっ! 私が、あなたの本当のお母さんなのよっ!」


……私は自分の耳を疑った。北沢千里が……染谷悠斗を産んだのか? 代理母というのは……北沢千里だったのか?


「うぅ……ううぅ……」


 床に倒れながら、染谷香が嗚咽する。その様子が、北沢千里の言葉を暗に肯定していた。

 卵子は染谷香のものだろうが、お腹の中で染谷悠斗を育てて産んだのは北沢千里なのだろう。


「ユウちゃん、私はね? 代理母として働いていたの。たくさんの子供を産んだけど、ユウちゃんは最後の子供だった……一番思い出深い子だった……別れるのがとてもつらかった……だから……もう一度会えた時は……本当に嬉しかった……ユウちゃん……私が、あなたの本当のお母さんなのよっ!」


 染谷悠斗は、明らかに動揺していた。彼は今この瞬間、自らのアイデンティティーを大きく揺さぶられたのだ。

……このままではマズい。幼い心には、この状況は後々消えない傷になる。


「ねぇ、ママ……」


 案の定、染谷悠斗は母親に助けを求めた。


「嘘だよね? ぼくのママは、ママだよね?」


 それは、年相応に真っ直ぐな質問だった。

 だが、染谷香は顔を伏せたまま、何も答えられないでいる。


「ねぇ……ママ……どうして何も言ってくれないの?……ねぇ!」

「……」


 染谷香は、何も答えない……まさか、染谷香は自分が母親としてふさわしくないと考えているのだろうか? だとしたら、私はその考えを否定する。


「香さんっ!」


 私は染谷香の名を叫んだ。


「悠斗君は、あなたを信じてくれているんですよっ! あなたが信じなくてどうするんですかっ!」

「わ、私は……」


 だが、私の問いかけにも、彼女は声を曇らせる。

 北沢千里はその光景を見て、甲高い声で勝ち誇ったようにあざ笑う。


「ユウちゃん、これでわかったでしょっ!? あの女は自分でもわかってるのよっ! 自分はユウちゃんの母親としてふさわしくないってっ!」

「そんなことないもんっ!」


 しかし、染谷悠斗は力強く叫んだ。


「ぼくのママは、一人だけだもんっ!」


 その言葉を聞いて、染谷香はハッとして顔を上げた。

 そして自分の息子の顔を見て、目から大量の涙を流した。


「ゆ、悠斗……」


 思わず息子の名前を口にするが、対する北沢千里は甲高い悲鳴を上げたっ!


「ああああああぁぁぁぁああああぁっっ!!!」


 その瞬間、周囲の空間の空気が変わった。

 これは……異界? あり得ない、北沢千里は普通の人間のはずだ。こんな簡単に異界を顕現させることなど――


「どうしてっ!? なんでっ!? どうして皆、私の下から去っていくのっ!? 私はあんなにお腹を痛めたのにっ! 心を痛めたのにっ! 結局、私は存在してはいけないものとしか見られないっ! あの男、北沢もそうっ! 法を犯してまでやった事なのに……それなのにっ! 私の事を殺そうとしてっ! どうしてよっ!」


 染谷悠斗を睨みつける瞳に、残忍な光が宿った。

 その時、私達が入ってきた方のドアが開いた。


「誰っ!?」


 狂気の瞳を出入り口に向け、北沢は叫ぶ。だが、その表情はすぐに和らいだ。


「お姉ちゃんっ!?」


 私は思わず、ドアの方を見た。

……そこには、斧を持った宮川晴子がいた。


「だから言っただろ? その子と遊ぶなってよ」

「……ごめん、お姉ちゃん……でも……私、どうしてもこの子と……お姉ちゃんと一緒に暮らしたくて……」


 まさか……北沢千里の姉とは宮川晴子の事だったのか?


「ま、気持ちは分からんでもないがな……どいつもこいつも……ウチらのことを苦しめて……久しぶりの現界だから楽しみにしてたのによ……結局こうなっちまうのか……ま、もう大丈夫だ。帰ろうぜ、寧々(ねね)」

「うん、お姉ちゃん」


 二人は我々のことなど眼中にないかのように会話すると、その体から妖気を発し――えっ!? 妖気っ!? まずい!……そう思ってからは一瞬だった。

 彼女達の身体が妖気に包まれ……二人の目は赤く輝き……額から二本の角が生える……私は思わず、その光景に見とれてしまった。

 やがて妖気が鳴りを潜めると、後ろにいる宮川晴子が静かにつぶやく。


「まず、そこにいる奴らを殺すぞ」

「うん」


 私はその言葉を聞いて反射的に、北沢千里に渾身の体当たりをした。拳銃を使えば良かったかもしれないが、そんな考えさえも思いつかなかった。

 幸い、体当たりは成功し、北沢千里は窓際まで吹き飛ばされた。

 元々、私も人外なのだ。この状況で『力』を温存する必要などない。

 私は北沢千里から視線を外しながら拳銃をホルスターから抜き、後ろですでに染谷香に斧を振り下ろそうとしていた宮川晴子の胸部に撃ち込んだっ!


「ぐぅっ!?」


 宮川は後方に吹き飛び、うめき声をあげた。

 しかし、直後に後方に衝撃を感じたと思ったら、私は床に倒れていた。


「悠斗ぉ!」

「ママっ!」


 二人の親子の姿が視界の隅に映るが、北沢はその親子に向かって高くジャンプし、鉈を振り下ろしたっ!――私は咄嗟に拳銃を構え、北沢目がけて発射した!

 北沢は体勢を崩したかと思うと轟音と共に床に穴が空き、染谷香は床の一部にしがみついていた。

 一方、北沢はゆっくりと立ち上がり、染谷香に近づいて行った。

 狙って撃ったわけではない。だが、常人ならその衝撃でしばらく動けなくなるはずだが、彼女には関係ないだろう。その顔は醜く歪み、残忍な笑みを浮かべている。


「あぐっ!」


 北沢は何度も染谷香のしがみつく手を足蹴にした。

 私は咄嗟に立ち上がって拳銃を構えたが、突然の後ろからの殺気に横っ飛びになり、発射のチャンスを失ってしまった。


「刑事さん……ウチの妹に何してんだよ?」


 殺気の正体は宮川晴子だった。彼女は残忍な笑みを浮かべて、私の方へ真っ直ぐと向かってくる。

 私は染谷悠斗に逃げるように言った。

 このままでは、染谷悠斗が脱出するチャンスを失ってしまう。だが、彼は逃げなかった。


「ママをいじめるなぁっ!」


 そう言って、染谷悠斗は近くにあったランプを北沢に投げた。

 しかし、北沢はそのランプを鉈で防ぎ、ランプは壁に当たって辺りに炎をまき散らした。

 その炎は不思議なほど激しく燃え上がり、室内を燃やしていった。

 もはや、ためらってはいられない。私は宮川晴子に蹴りを入れて壁に叩き付けた!


「がっ!?」

「お姉ちゃんっ!?」


 続いて突然の事態に驚く北沢に向かって、拳銃を向けて発射する!


「ぎゃあっ!?」


 北沢は絶叫して、後方に吹き飛んだ!

 そして染谷香に近づいて引っ張り上げ、悠斗の手を取って二人に逃げるように言った。


「あなたはっ!?」

「後から行きますっ!」


 そう言って、私は立ち上がろうとする宮川晴子を押さえつけ、染谷親子が部屋を走り去るのを確認すると、彼女の顔面を殴ってその隙に距離を取った。


「やるじゃん、刑事さん……」


 宮川晴子は、何事も無かったかのように立ち上がった。

 やはり、彼女も北沢も悪魔の類に入るのだろう……でなければ、今の一撃で死んでいたはずだ。

 炎はすでに室内どころか廊下の一部にも広がっている。あまり長居は出来なかった。


「ホント……さっさと死ねばいいのに……」


 私は拳銃のシリンダーを回して弾を取り出し、素早く新しい弾丸をこめる。

 対する二人はこの状況でも、余裕の笑みを浮かべている。


「……あんたとはもっと遊んでたいんだが……妹の事もあるんでな。今日の所はもう帰るぜ」

「えっ!? いいの、お姉ちゃんっ!?」

「ああ。あの母親も、最後には改心したじゃんか……ま、正直キツかったが……悪くなかったぜ。人間としての人生もよ」


 二人は、私を挟んで周りの炎など気にならないかのように会話している。


「……ま、そういうことだ。じゃあな」

「……覚えておきなさい。次会った時は……ただじゃおかないわ」


 そう言った瞬間、二人の姿は一瞬で消えていった……もう何が何だか分からない。

 とにかく、私はこの燃え盛る病院から脱出することを優先した。

 部屋を出て、燃え盛る廊下を突き進んで階段を降りると、一階の突き当りに染谷親子の姿があった。


「刑事さんっ!」

「助けてぇっ!」


 二人は燃え盛る柱に行く手を阻まれており、私の目の前には病院の出入り口がある。


「お願いしますっ! どうかこの子だけでもっ!」


 そう言って染谷悠斗を投げ渡そうとする染谷香を制し、私は彼女達のいる所まで駆け寄り、燃え盛る柱を掴んだ! 熱い! だが……決して見捨てはしない! 必ず、二人共脱出させる!

 柱が上がって、二人が通れるほどの隙間が出来たその時、


「刑事さん、危ないっ!」


 染谷香がそう言ったのとほぼ同時に、私の身体に燃え盛る天井が落ちてきた! 一瞬意識が飛びそうになるが、なんとか踏ん張る。見ると、左腕がダランと垂れ下がっている。肩が外れたか……! だが、あきらめるわけにはいかない! 私は右腕に渾身の力を込めて柱を持ち上げ、肩に担いだ! 耳が炎で焼けていくのを感じる! 二人に声をかける余裕なんかない!

 ふと失いかけた意識の片隅に、柱を抜けて病院の出入り口へと向かう親子の姿が見えた。彼女達は、私を必死に手招きしている。

 私は柱を肩から捨てて、出入り口まで走っていった。

 親子が出入り口から病院を脱出するのが見えたその時、突然横からの爆風に巻き込まれた! 燃える壁に叩き付けられ、床に倒れると同時に天井から物が落ちてきたと思ったら、私の身体はその物体に押し潰された。


「うわああぁああぁああっ!!」


 痛いっ!! 熱いっ!!

 ハレーションを起こしたような視線の先には、自分の下半身を押しつぶすベッドが見えた!

 しかし、その視界も徐々に薄れていき、痛みも不思議と引いていく。必死に抜け出そうとするが、まったく体が動かない……ここまでか……思えば……それなりに意義のある人生だった……ん?……誰だろう?……足音が聞こえる……ダメ……この病院は危険……早く逃げて……?……あなたは…………そうか……私が死ぬのを悟って現れたか……鳴海君と大倉君はこれからどうなるんだろう……鬼島警部は……大丈夫だろうな、きっと……ああ……感覚が無くなってきた…………もっと………幸せに……………………………生きたかった…………………

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