7.約束繋いで薬恋歌
レイルに土地勘はないが、妖人は獣のように鼻が効く。嗅ぎ分け、聞き分け、とにかく人気のない奥まった場所を探した。こちらを窺う獣は、警戒心だけで殺気はない。兎が多いこの地では狼達も飢えていないのだ。
レイルは昨日までの洞窟とは違うも、湿気てない洞を見つけた。歩けもしない身体を抱いて中に入り、そっと下ろす。木より軽いかもしれない。この身体で、レイルを洞窟まで運んだのだ。端から見れば中々みっともなかったに違いない。覚えてなくてよかったが、意識があればそんな無様な醜態を晒さなかったとも思う。
「ごめん」
ぽつりと、ライラが呟く。
「貴方が人攫いでないと訂正出来てない。必ず晴らしてもらうから、それまで」
俯いて喋り続ける頭を小突いた。
「そんなことはどうでもいい。それより、顔を上げろ」
頑なに下を向く理由は何だ。ライラは泣いていなかった。どれだけ震えても、恐怖で泣き叫んでもいいのに、鼻を啜る音も聞こえない。ならば何故頑なにこちらを見ない。
「ジェイと、行っちゃったかと、思った」
「あんたといたかった」
驚いたようにライラの顔が上がった。自分で言ったことに驚いたレイルは、それを上回る驚愕に思わず細い肩を掴んだ。
「その顔!」
「やっぱり不細工でしょ!? だからやだったのよ――!」
慌てて隠す両手を握ってぎょっとした。細くて嫌になる。ちょっとの力加減で簡単に折れそうだ。
ライラの顔は傷だらけだった。刃物が擦った跡が幾本も走っている。髪を切ろうと振り回された刃物は、加減をせずにライラの顔や腕を傷つけていた。血が流れないほど薄い物も多かったが、深く裂かれた傷もある。
不快感と苛立ちに毛が逆立った。
「何故、殺してはならないんだ!」
生かす価値どころか、殺してならぬ理由すらない。
「こんなの珍しくもないからよ!」
叫び返された言葉に愕然とした。
「救えなかったら石投げられて、刃物で脅されて、髪の毛引き千切られて。何度もあるよ! 通りすがりだったり、お世話の人だったり、誰が襲ってくるか分かんない! 人間は怖いよ、知ってるよ! 知ってるけど、私は薬術師よ! そう生きるって決めて院を出た。癒術は、名の通り、癒すための術よ。術者は、法も、方も、惑うなかれ。恐怖も怒りもある! なんでって、ひどいって思うよ! 思っても癒すわ。私は薬術師だから!」
炎のように叫びきった途端、細い身体からは急速に力抜けていく。ざんばらの髪が無残に揺れる。
疲れ切ったように深い息を吐いたライラは、今度は揺るがぬ瞳でレイルを見上げた。
「人が人である限り、きっと変わらない。彼らが不安であればあるほど、誰かが犠牲にされる。人は卑怯で傲慢だから、彼らの憂さは許される人に限定される。許されると、思い込んでる人に集中する。でも、だから? 殺して、それで? 殺せばその罪で追われる。そうして? また殺すの? 殺して、殺して、それで辿りつくのはどこ!? 薬術師が掲げるのは理想よ。甘っちょろい、守られているから言える夢物語よ。だけど理想は悪じゃないでしょ!? 医に携わる者が命に理想を掲げて、何がいけないの!」
頬に、腕に、深い傷が未だ血を流す。細かな傷は数えきれない。薬術師は自らを癒せない。癒せるのは他者だけだ。
「俺は、既に数えきれぬほど殺してる。それを、今更」
「それが殺していい理由になる!? 殺せば何か変わった!? 妖人は危険だと捕われるだけよ! 殺された人の家族が妖人を憎んで殺して、それでまた妖人が人間を殺すの!? 奴隷なんてする奴が悪いよ! 全部悪いよ! でも、殺したら貴方の罪よ。誰かの所為でも貴方の罪よ。どうしてそんな奴の為に貴方が罪を負うの。おかしいじゃない。恨んで殺して憎まれて、そうして殺されるの!? やめてよ! もうやめてよ! 私が癒した人が誰かを傷つけて、その人を癒したら傷つけ返して!? 癒すわよ! 薬術師だもの! でも殺さないで。お願いだから、殺されないで……」
ライラが癒した相手が人を殺し、誰かが癒した相手に殺される。薬術師を奇跡と讃えながら、神の御業と崇めながら、薬術師が癒した命を絶つのだ。なんて酷い冒涜だろう。
青褪めた頬を流れるのは血だ。伝い落ちる血を、レイルは無意識で受け止めた。泣いているように、見えた。
「泣くな」
「泣いて、ない」
「泣くな、ライラ」
細い身体を引き寄せ、胸に押し付けた。互いに骨が当たって痛い。何とも不恰好な抱擁だ。レイルは誰かを抱きしめたことなどなかったし、ライラは誰かを抱きしめることばかりで抱きしめられることは滅多になかったからだ。
震える手が背に回り、躊躇いがちにそっと握りしめられる。
「……皆、事故でも病でも死ぬわ。終いには寿命で死ぬのよ。許せなんていわない。けど、他の道は、ほんとにない? 貴方が幸せになることで、貴方を害した奴への復讐にはできない? そいつらなんてどうでもいいのだと、お前らなんて忘れたよと鼻で笑って、勝手に幸せになるのはおかしい? それが自由だと思う私は、おかしいかな?」
人間に傷つけられた人間は、血を流しながらレイルの幸せを願う。誰も害さず生きる道を指し示す。連鎖を断ち切るを苦行と知りながら、自らへの害を許して、レイルの幸せを示そうとしている。
レイルは固く目蓋を閉じた。恐らく、枯れ枝のようなこの生き物は、レイルなどより余程強い。強くて、きっと優しい。これが優しさだ。
認めたくなかった。だが、熱に魘されたレイルの額に触れた手は、恐ろしいほど心地よかった。こんな手は知らない。こんな触れ方、知らなくても生きていけた。なのに知ってしまった。きっと、一人で目覚めた時、レイルは痛みを知るだろう。この手を知らなければ知らなくていい痛みを。
「……この旅が終わったら」
腕を流れる血が止まらない。レイルは布で傷口を押さえて簡易な止血をした。手当てはライラが本職だ。けれど、出来ることをしてやりたかった。
優しい優しい少女の故郷に、奴隷はいないと伝え聞く。薬術師が生きる国は、彼らの生き様を貫ける清廉な場所だという。
「お前の国に行くのも、悪くはないな」
「キオスは穏やかな国よ!」
ぱっとライラは微笑んだ。と思ったら急に曇る。
「その……妖人も珍しいから、レイルは寂しいかもしれないけど」
「何年も王家所有だった。今更同胞も何もないさ。その前も、土竜が貴族に単体で貸し出して回ってたから、あまり他の奴と話す機会もなかったな」
「貸し出しって……」
「俺の顔を気に召す人間が多くてな。一人に売るより、個々に貸し出したほうが長く元が取れると判断したらしい。鬱陶しいことだ」
ライラはしみじみと頷いた。
「美人は大変ね」
「よかったな。枯れ枝で」
「顔だけは枯れてないと思ってたのに!?」
「気のせいだ」
「ぉおぅ……」
手鏡を覗き込んでライラは絶望した。サキのように美人ではなくても、しわがれてはないと思っていたのに、気のせいだと!?
顔中に走る線に嘆息する。余裕がある薬術師がいたら治してもらおう。でも、流行り病が幅を利かせているなら無理かもしれない。ああ、嫁の貰い手がなくなっていく。
あまりに箇所が多いので、目と鼻と口の部分だけ切り取って薬草を浸したガーゼを顔に張り付ける。我ながら近寄りたくない人相になった。しょげながらもてきぱきと処理している様子を面白くもないだろうにずっと見ていたレイルは、振り向いた顔を見て噴き出す。
「いや……悪い……笑い事じゃないが…………っ……」
確かに自分でもあんまりな顔だったので、しばらくは耐えていた。しかし、声は出さずとも涙目になって痙攣されると我慢も限界だ。
「笑いすぎじゃない!?」
すまないと震える声で返されても嬉しくない。ぴしりと揃えられた指がしばし待てと眼前に突き出され、素直にしばし待つ。結果、視線が合ったら再度噴き出された。
「ちょっとお兄さん!? もしもしお兄さん!?」
薬草を浸した薄いガーゼをパックみたいにしていたら、どうやらずれてきていたらしい。何も見えないし、鼻にぴたりと吸い込まれて苦しい! 笑うお兄さん正しい!
もういいや、私も笑ってしまおう。諦めて衝動に任せて笑い始めたライラと目が合ったレイルは、今度こそ声を上げて笑った。
笑いながらレイルの頬にもガーゼを張り付けたり、手当てをしたり何故かされたりしていた時、ぴたりと動きが止まった。
「あれ? レイル?」
急に笑いを引っ込めたレイルは、洞の入り口に手をかける。鼻と少し尖った耳がひくりと動き、白髪が光を弾く。
「俺だ。頼むから警戒しないでくれ。約束どおり詫びにきた」
赤髪の男が空から降ってきた。どこかの木から飛び降りたらしい。男は鍛えられた身体をしている。短い髭は荒々しかったが、声と笑顔は気さくだ。
「親父! 何で人間なんかに!」
男の後ろにはジェイがいた。きんきんと頭に響く声を上げるジェイの丸い頭を鷲掴み、男は無理矢理頭を下げる。
「こいつが先走った。すまん! 特に薬術師の……嬢ちゃん、坊ちゃん?」
「女だ」
「重ね重ねすまん」
「こいつは枯れ枝だ。気にするな」
悪気なく言い返すレイルのほうに傷ついた。
「してよ!」
「人間が、親父になんて口の効き方しやがるんだ!」
目を見開いて怒鳴るジェイの頭に、ごつい拳骨が落ちた。
「お・ま・え・の! 詫びをしてんだよ!」
い・た・そ・う・だ!
ガーゼを外しながら、ライラは自分が殴られたように「うへぇ」と声を上げた。