6.人の奇跡が薬恋歌
ジェイがレイルを連れてきたのは一軒家だった。
家具は少なく、地面にたくさんの寝具が詰め込まれていて、寝泊りに使っているのが見て取れる。
踏まないよう避けるジェイは、バランスを崩してその上に転げ込んだ。照れ笑いを浮かべて伸ばされた手を掴む。少し、熱い。
「ごめんな。まさかあんたも魂石を取り返してたなんて。おれはてっきり、奴隷にされてる一人かと」
しょんぼりと肩を落とす様は、さきほど激情を爆発させた姿とは別人だ。
「でもさ、どうして人間と一緒にいるんだ? まだ弱みを握られてるのか? だったら、親父に言えばいいんだ」
「親父?」
一二、三歳ほどだろうか。ジェイは左手がなかった。
「おれ達を助けてくれる人だ。親父が助けてくれなかったら、おれは脚も全部切られてた。人間が新しい剣を買ったから、切れ味を試したんだ」
非道だ。しかし、妖人相手になると、それがどうしたで済まされてしまう。人間とはかくも醜く、憎しみを生み出し、増大させるのが得意な生き物だ。
ジェイも、今更語るつもりもないのだろう。感情は込み上げるようだが、それ以上の詳細は語らなかった。妖人である以上、人間に何もされていない者などいないのだ。腕や足がないものなど多数いる。切り落とされた者、手当されずに腐り落ちた者。だから、不幸を語る意味などない。いま生きている妖人は、死んだ妖人よりは怪我の程度がましだったと、それだけの話だった。
「アカツキは国中に散らばって、妖人を自由にしてるんだ。それで、いつか、妖人の国を創るんだ。親父はそれが出来る人なんだ!」
夢物語だ。
顔を赤くして夢を語る子どもを見下ろし、レイルは静かに目を閉じた。国が出来る前に、妖人が集まれば人間に殺す口実を与えるだけだ。口実がなくとも殺されるだろうが。
「俺は乗らない」
ジェイは頬を打たれたような顔をした。
「な、なんでだよ! あんた強いんだろ!? おれの電撃、瞳術だけで弾いた。あんたがいれば親父も喜ぶ。なあ、一緒に人間を殺そうぜ。おれ達を害した奴らを、今度はおれ達が殺してやるんだ! あんたを連れてたあの人間も、あんたが殺してやればいいんだ!」
ぴくり、と、意思を介さず眉が寄った。
「俺は、あいつに雇われて傍にいるだけだ。契約終了したら離れる事が可能だ。あれは、恐らく、稀有な人間だ」
何を言ってるんだ、俺は。自分が言っていることが不思議だ。
人間は殺す。殺してやる。凝り固まった憎悪の結晶は今でもそう叫んでいるのに。
『レイル』
うるさいくらい笑うライラが悲しい顔をするのは、決まってレイルの憎悪を感じた時だ。
「ジェイ! いるか!?」
寝具を踏み散らかしながら男が飛び込んできた。三十代前半の男は妖人だったが、髪に色素を持たない妖人には珍しく髪が赤い。
「親父!」
片手で縋りつき、ジェイは泣きそうな声を上げた。
「こいつ、妖人なのに、アカツキ入らないって言うんだ! 人間に雇われてるって、魂石もあるのに人間と一緒にいるんだ! なんでだ!? 妖人は妖人といるべきだろ!?」
男は話している時間も惜しいとレイルの姿を捉えてすぐに口を開いた。酷く焦っている。
「すまん! こいつが無茶をした! あんた、あの薬術師の連れだな!?」
どうしてライラが薬術師だと知っている。眉根を寄せたが、問いただす前に男が告げた内容に愕然とした。
「詫びは後だ。関係のない妖人が出ては収まりがつかん。行ってくれ!」
「親父!?」
返事をするのももどかしい。レイルは家を飛び出していた。
場所はすぐに分かった。別れた場所からほとんど動いていない。屋根の上に降り立ち、愕然とした。さっきまでと同じ街とは思えない。狂ったように人々が犇きあい、何かを手に入れようとしている。手にした人間が咆哮のような声で歓喜の叫びを上げた。
暗闇の中でも月明かりを弾いて光った、見惚れるほど美しいと思った、黒髪。
蠢く人間の真ん中で、少女が突き飛ばされては引き戻されていた。細い両手で顔を庇い、何かを叫んでいる。人間達の手には思い思いの刃物が握られ、手当たり次第に触れた箇所を掴んで切り取り、嬉しそうに掲げた。
何をしている? そいつは人間だろう。何故、人間がそいつを害す。
「やった! これで流行り病に罹らない!」
「ちょっと、取ったのならどいてよ!」
「通してくれ! 家族の分も欲しいんだ!」
何を言っている? そいつは人間だろう? お前達と同じ、人間だろう? お前達の為に痩せ細り、枯れ枝のような腕をした、優しい女だろう?
「薬術師の髪を手に入れれば、どんな病にも罹らないとは本当か?」
「薬術師の目を食べれば、寿命が延びるとは本当か?」
「薬術師の血を飲ませれば、死者が蘇るとは本当か?」
「薬術師の処女と交われば、不死になれるとは本当か?」
「薬術師の心臓を食べれば、不老になれるとは本当か?」
人間とは、かくも。
レイルは唇を噛み切った。
やめて、たすけて、やめて、ちがう。
いくら叫んでも誰にも届かない。聞く気がないのだ。理由が悪でないなら行為も悪にならないと、皆がやっているから罪にはならないと。
ライラは叫び続けた。気持ちを吐露するだけでは誰も動かない。分かっているのに、止められない。
「嫌だ、やめっ……離して……!」
悲鳴を絞り出した瞬間、赤い風がライラを覆った。髪を切り刻んでいた人々は、何が起こったか分からないまま悲鳴を上げて仰け反る。
炎がライラを覆っていた。包まれたライラは、熱くない炎に抱かれ、呆然とそれを見ていた。炎の中に腕がある。いつの間にか背中から抱きこまれて支えられていた。
「すまない」
白髪が炎に照らされて赤く染まっている。唇から血が伝い落ちていく。綺麗な人が、血を、流している。
無意識に伸ばした手は、これ以上傷ついてほしくない人を癒していた。
目の前で施された「奇跡」に歓声が上がる。拝むように手を擦り合せ、次は自分をといけしゃあしゃあと。自らが何をしたか覚えていないとでも言うつもりか。その手に握る物はなんだ。握れば折れそうな腕で人間を癒して救う女を大勢で害しておきながら、縋ろうというのか。
レイルの瞳が赤く染まる。
「うわぁあああ!」
握り締められた黒髪が燃え始めた。慌てて手離す者、手を焼きながらも手離さぬ者。どちらも変わらない。ライラを害した人間に、何も残してやるつもりはなかった。
「妖人だ! こいつも魂石持ちだ! 衛兵、早くしろ!」
衛兵は大分前からこの場に辿りついていた。しかし、人々の狂乱ぶりに手を出せずにいたのだ。急に存在を思い出されて押し出された先には、髪の毛を切り刻まれてぐったりとした薬術師を抱いた、美しい妖人がいた。
「おのれ、妖人! 薬術師を返せ!」
馬鹿馬鹿しくて言葉を交わす必要性も感じない。軽い音がして飛んできた矢を、視線だけで燃やした。魂石があれば容易なことだ。
腕の中の少女は、震えたまま両腕で顔を覆っている。その身体を反転させ、抱き上げた。片手にトランクを持ち、軽々と屋根の上に飛び上がる。
「薬術師が攫われたぞ!」
「衛兵! 薬術師を取り返してくれ!」
人間とはかくも醜悪な生き物か。身を持って知っていたはずだった。しかし、人間が人間を害す様を見て、更に確信する。
「ライラ、あいつらを殺していいか」
震える身体は、レイルの服の裾をぎゅっと握り、ふるりと首を振った。
「何故だ、ライラ。何故、殺しては駄目なんだ」
ふるり、ふるり。声も出せないくせに、無残に切り刻まれた髪を揺らして否定する。
ライラ。人間は、お前が身を削ってまで救う価値のない存在だ。
それなのに、どうしてお前は人間なんだ? 夢物語のような優しさで誰かを救うお前が、どうして人間に属している? どうしてお前が犠牲になっても、殺させまいとする?
そんなになっても、どうして。一言、一言でいい。そうしたら俺が全て殺してやるのに。
「ライラ!」
ふるり。ふるり。ふるり。
震える指が裾を握り、一言も発さず首が振られる。レイルは静かに息を吐き、激情を外に散らした。
「……分かった。だから、そんなに固く握りしめるな。枯れ枝が折れる」
反対の通りに飛び降り、低い体勢のまま走り出す。だんっと強く地面を蹴れば、再び屋根の上に乗る。街を囲う斜面を利用した外壁に飛び乗れば、街の騒ぎを知らない衛兵がぎょっと飛びのいた。
眼下に広がる世界は広い。街道が別れる先には街があり、人間がいて、妖人を害している。人間など殺してしまえばいい。奴らはそれだけの業を重ねてきた。
なのにジェイの誘いに乗れなかった。
人間を殺せ。理不尽に殺された同胞の為に、今尚虐げられる同胞を救い、人間を殺せ! 命を命で贖え!
振りかぶられた衛兵の剣は無造作に飛び降りることで避けた。背後から悲鳴が上がる。眼下には急な斜面が広がる森。人間では落ちれば死ぬだろうが、妖人からすれば獣道すら必要ない。風が頬を打つ。髪を靡かせ、濃厚な木々の匂いを巻き上げる。
俺は自由だ。空の中で風を受け、レイルは思った。だが、腕の中の温もりが風に溶けゆく己を否定する。俺は自由だ。なのに、今度は何に縛られた。人間を殺すと決め、人間を殺すという同胞を断り、人間がライラを害して憤った。
人間とは、かくも。
続く言葉はどれも醜悪だ。なのに、それらが腕の中の少女をも指すのだとしたら、レイルは言葉に出せなくなってしまうのだ。
城の中は多数の気配で溢れていた。
騒がしい。しかし、この喧騒が心地よくもあった。
ベルナルドは幽閉されて育った男だ。国を顧みず浪費して過ごす前王に忠言した父はクーデターの疑いをかけられ、一族諸とも焼き討ちにあい、幼いベルナルドは偶々外で遊んでいて、難を逃れた。
今でも覚えている。カシューと虫を狩りに出かけていた。大きな飛蝗を捕まえて振り返った先を、重厚な騎馬が駆け抜けていった。
城が燃えている。温厚で優しい父が、厳しくも最後は笑顔で頭を撫でる母が、ちょっとした悪戯を手伝ってくれた侍従が、泥だらけにした絨毯に慌てふためいて後を追ってくるメイドが、こそりと焼きたての菓子をくれた料理人見習いが。
みな、燃えていた。
逃げ惑う人々に矢が放たれ射抜く。熱い風が城壁を越えて丘に辿りついた。少年は目の前の情景に釘付けになり、身動ぎ一つ出来なかった。
『ベルナルド様、ご覧召されるな、ベルナルド様!』
乳母の子、カシューとは乳兄弟。六つも年上のカシューが、震えながらベルナルドを抱きかかえた。乳母もあの中だ。燃え盛る炎の中、それでもベルナルドの身を案じ叫ぶ人々の声が、聞こえた。
「ベルナルド様、如何なされました」
二十代半ばを越えたカシューは、もうあの頃のように細く頼りない少年ではない。ベルナルドも然り、今や国王と騎士だ。
「いや、容易く崩れる物だと思っていた」
前王アルフレッドは最低の王だ。女に現を抜かし、政に一切の興味を示さなかった。王妃もそれを諌めもせず、己の悋気だけを撒き散らし、怒りを物で慰めた。家臣には既に見放されていても気づかず、ベルナルドに立ってくれと頭を下げに来たのは宰相が先だった。
愚鈍な王は気づく訳もなく、大した混乱もなくベルナルドはこの席についた。重厚な作りの椅子は、ただの椅子だ。なのに座るだけで身が引き締まる。ここで国が動いていく。
整然と並んだ衛兵の間を、躊躇いもせずに歩いてくる壮年の男は、宰相だ。短い髭は測れたように切り揃えられている。
「王よ、御耳を」
簡易な許しを請い、文官らしくないがっしりとした体躯で横に屈んだ。
「ジェガバリーで薬術師が現れたとの報告が」
「なんだと?」
薬術師は塔に立て篭もっているはずだ。個人で旅する薬術師もいないわけではない。しかし、酷く少ない。理由は押してしかるべく。救いを求めて縋る人間に押し潰されるのだ。
「その薬術師、妖人を連れていたようですが、マリアンヌ様が寵愛していた妖人と酷似しております。魂石を、取り戻しているようです」
ベルナルドは何かを思い出すように瞳を伏せた。
「白狼か」
尋常ならぬ力を持ったと聞く美しい妖人を、ベルナルドも見たことがあった。マリアンヌが綱を引き、首輪をつけて歩いているのを格子を嵌められた部屋から見たことがある。
土竜が捕えるまで、散々人を殺しまわった妖人は、その美しさを買われて生かされた。そもそも、魂石を剥ぎ取られて逆らえる妖人はいない。彼らの意思に関らず、魂石を握って命じれば、どんな屈辱的な命令でも身体は勝手に従う。刃を振り被られながらも、動くなと命じられれば一寸も動けない。それほどに理不尽で絶対的な支配だった。
無力な置物と化した身を、年端も行かない少女が飼い犬のように連れ歩く。なるほど、確かに美しいと思ったのを覚えている。飼われながらも消えぬ矜持が、余計に征服欲を掻き立てると彼は分かっていたのだろうか。いや、きっと知っていただろう。彼は知性ある生き物だ。余計に手酷くなると分かっていながら、決して自らの意思で頭を垂れなかった
「そういえば、マリアンヌが騒いでいたな。妖人が逃げたと。助けてくれなかったと。本気で思っていたのだな。己が虐げた存在が、支配なしに救ってくれると」
人間とはかくも愚かしい。それは薬術師とて同じことだ。自らを削ってまで人を癒し、救う。けれどその実、保身を計る。
皮肉気に吊り上げた口角に気づいたのは、カシューだけだった。
「白狼がいたのなら、城にいた薬術師の可能性が高いな。しかし、なにゆえ自由をとらぬ。薬術師が新たな主となった訳ではないのだろう?」
「わたくしにも、とんと」
「何が何でも塔を破れ。薬術師が、我が国の貴人を謀り、治療を怠ったとあれば倫理に背く。薬術師が依頼で人を害したとあらば、薬術師の在り方にも異議を申し立てねばならん。よいな、必ずや我の前に薬術師を連れてまいれ。我が自ら問いただそう」
恭しく礼をしながらも、壮年の男は嘆息を押し留めた。今は重要な時だ。幾ら前王が愚王であれど、クーデターで王位を簒奪した。下準備は抜かりなくしてきたが、それでも民の不満が募れば準備など意味を成さない。
今はいい。戦もなく愚王が倒されて民は喜んでいる。しかし、流行り病が渦巻く現状で、薬術師という不介入が前提とされた存在への手出しは、命取りになりかねない。
聡明な青年が分からぬはずがない。ならば何故、薬術師に拘る。
男は様々な案件を頭の中で処理しつつ、片隅にそれを留めおいた。横流しにして忘れていい内容とは、どうしても思えなかったのだ。




