3.鼻血は解除で薬恋歌
一晩明け、人々はクーデターを知った。
主犯は、国王従兄の息子、ベルナルド・カリュー・アミアス。現国王にクーデターの「疑い」を掛けられ、偶然外に出ていた幼い彼と付き人以外、使用人も含む全ての人間を焼き殺された男だった。一人生き残った彼は、軟禁状態だったと聞く。そこでいつしか自らの手勢を構え、国王に牙を向いた。王家が課した疑いを、真にして帰ってきたのだ。
男は、王家の腐敗を糾弾。絢爛豪華に振舞う貴族の暮らしぶりを暴露し、使われる税金の額を調べ上げ、民へ増税の理由を知らしめた。過去にも糾弾したアミアス家を、焼き討ちという非道で黙らせた悪行を激しく批難し、民から同情と支持を得た。
王族と有力者達は捕らえられた。逃げた数人も時間の問題だと言われている。ベルナルドは即座に懸賞金を掛けた。
ライラには不運としか言い様がないタイミングだった。しかし、不運はここで終わらない。男は、薬術師が城の検診で嘘の治療を施した可能性があると発表し、真偽を確かめるべく招集を掛けた。だが、二人は現れない。反論なしと見なし、二人を拘束するとした。猛反発したのは、先発でキオスより派遣されていた薬術師達だ。即座に二人への嫌疑を晴らし、身柄を安全にキオスに返還することを要求している。
薬術師と護衛のサルダート隊は、パオイラ城の一塔を乗っ取って立て篭もっていた。
塔の先端には、薬草と薬花をモチーフに作られた薬術師の旗を立て、薬術師の権限においてここを国家不介入地と定めた。たとえ、暗殺に失敗した敵対国の要人の治療行為が行われている最中であったとしても手を出してはならぬ絶対地である。連合が絶対とした保護法だ。連合国であるならば従わなければならない。
彼らは政治に介入しない。同じく、国も彼らに介入してはならない。遠征先でクーデターが起ころうと、戦中であろうと、誰も手出ししてはならぬ。しかし、彼らが罪を犯したというのなら話は変わる。
平行線が続く塔の周囲は二百もの兵士が囲み、サルダート隊と睨み合っている。総勢百名弱の小隊と侮ってはならない。キオスを襲った侵略国デューラの猛攻に為す術なかったキオス軍の先陣を切り開き、押し返すまでに至らせたのはここにいるサルダート隊である。
現在デューラは国の形を失い、連合の管理下に収まっている。キオスに手を出せば国を失うと、妙に誇張されてはいるものの、事実ではないと言いきれない噂が流れたのは記憶に新しい。
支配者が変わってもさほど戸惑いのない兵士達が塔を取り囲んでいる。ほとんどが了承済みのクーデターだったということは、前王は噂に違わぬ愚王だったのだろう。
兵士達は新王の元、張り切って初任務に出たはいいが、鬼のような形相でバルコニーに立つ酷く小柄な男のプレッシャーに一歩も踏み出せないでいた。薬術師の身柄を引き渡せと叫んではみたものの「あ?」とチンピラの如く睨み返されて腰を抜かした。鬼のような男は、自国でも鬼で通っている。遠目には少年にしか見えない男は、組んだ腕をそのままに背筋を伸ばして立ち、既に七時間が経過していた。
「隊長、代わります」
イヅナはサルダートと同じほど背筋を伸ばして横に立った。
「精々、余裕を持って見下しとけ。まあ、てめぇの表情読める奴なんて早々いねぇがな」
「薬術師は二名ともここにいると思わせるくらい、余裕でいます」
目の下の隈が標準装備の小柄な男は、苦虫を六匹くらい噛み潰した顔をした。新兵と思われる兵士が気絶した。離れていても怖いくらい、サルダートは筋金入りの悪党面だった。
「中はどうだ」
「ネイ五等伝令士がキオスと東部救施場に繋げています。隊長から指示を仰ぎたいと」
「薬術師に絡んできやがるとは思わなかったからな。新米が、一人で抵抗するのは分が悪りい。護衛も伝令士もついてねぇのがいてぇな」
サルダートは舌打ちした。更に一人倒れた。おい、古参兵っぽかったぞと、サルダートの舌打ちが追加される。
「くそがきの判断は正しい。世話係全部がクーデター側とは思わなかった俺の甘さだ」
「サキです」
「くそがきはくそがきだ! 人のことを未だちっちゃいおじさんと言いやがる!」
びしりと青筋が走った瞬間、また一人倒れた。……隊長っぽかったぞ。そんなに怖いか?
少し複雑な気持ちになったのは、サルダート・ガク。二九歳。
ついた仇名は、鬼と魔王と、ちっちゃいおじさん。
今にも崩れ落ちそうな宿の一室で、ライラは床と仲良くしていた。
「本当に申し訳ございませんでした!」
土下座の相手は、窓枠に腰掛けて窓の外を眺めている。風に流れる真白い髪が綺麗だなと見惚れて、そんな場合ではないとはっとなるを繰り返していた。
ライラは昨夜、支配から解放された妖人を、自由になった瞬間に支配してしまった。鼻血で。
「なら、破棄に同意しろ」
「うっ……」
はい喜んでと答えたい。即座に彼を自由の身とし、それを喜びたい。けれど、出来ないのには訳があった。すぐに応じようとしたライラの前で、レイルはうっそりと微笑んだのだ。ああ、やっと全員殺しにいける、と。
聞いた瞬間応じられなくなったライラを、金紫は冷たく見遣った。
「あんたも、他の人間と同じか」
「だからっ……殺さないって約束してくれればすぐに応じます」
瞬きの瞬間に顔が目の前にあった。冷たい吐息が唇に触れる。
「妖人というだけで男に女に慰み者にされ、同胞と殺し合わされ、簡単に死なないのをいいことに散々嬲られ続ける。許せとあんたは言うのか? 俺に、人間が、許せと?」
金紫の中で揺れる炎は極上の憎悪だ。絶えず煮詰められ、最早結晶となった憎悪は、視線だけでライラを焼こうとしているかのように熱い。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「妖人、とか、人間とか、私には関係ないって、言いました。許せなんて、いえない。絶対的に人間が悪い! でも、命を絶ちに行く貴方には渡せない」
薬術師の前で人殺し宣言などしたレイルが迂闊だったのだ。ライラは逸れそうになる視線を根性で押し留めた。
「私は、薬術師よ!」
薬術院を出たばかりの新米でも、先達が継いできた信条を破ることは出来ない。
手錠を引き千切ってできた傷跡が生々しい手が、緩慢な動作で首を掴んだ。熱っぽい、傷だらけの手だ。微妙な力加減で徐々に絞まっていく手に、恐怖より意地が勝った。長めの爪、尖った犬歯と耳は妖人の特徴だが、近くで見てもやはり美しい。獣のように本能に近い生き物は、命の本質にも近い。その美しさに、命を尊ぶ者が惹かれない訳がないのだ。
「どうした。早く命じないと、この枯れ枝みたいな首、簡単にへし折るぞ」
じわりと息が閉ざされていく。このまま縊り殺されるのか。そうして彼は魂石を取り戻して自由を得る。正当だ。だって石は彼の物だから。
「年頃の、女の子、に、枯れ枝、って、言うな」
ちょっと気にしてるのに。
「……早く命じろ。俺は本気だぞ」
「奴隷、は、嫌い、って、言った」
「ライラ!」
酸素が足りずに喘ぐように息をする手が、そっと重なった。は、と、小さな息の後、淡い光が二人を包んだ。光の後には癒されたレイルの手が残された。
くたりと力の抜けた身体は、レイルの胸に凭れかかり、ずるずると床に落ちた。渡せない。そう言ったライラは魂石を握りしめた。それが支配の仕方だ。妖人の命を握り、命令する。それだけで妖人は縛られ、どんな残虐な指示にも逆らえない。そうとは知らずに発された言葉でも同様に。
床に落ちた細い身体の中で握りしめられた己の魂を、レイルは静かに見下ろす。
「人間は、人間だ。勝者にだけ有益な正義を振りかざし、自己愛を満たすだけの同情を押し付け、笑って他者を害せる。ライラ、あんたも人間だ。妖人を害すだけの、人間だ」
どこにも行くなとは命じられていない。レイルは窓から飛び降りて明け方の闇に消えた。とにかく自由になりたかった。仮初でも束の間の自由を感じていたいと願って何が悪い。
四年ぶりに枷のない世界を走る。夜露に湿った風が頬を打ち、湧き上がった土の香りを肺いっぱいに吸い込む。
何年経とうが、世界は何も変わらない。人間にだけ降る祝福の中、妖人が殺されていく今日がまた始まる。
ライラが目を覚ましたのは、恐らく昼下がりだ。腹具合がそう告げていた。
ぱちりと目を開けて飛び起る。ぼさぼさの髪で隠れた顔を両手で覆い、しばし動かない。顔を上げた時、心は決まっていた。
トランクを開けて着替える。薬術師は目立つため、公務以外で出歩こうと思ったら衣装を変えねば一歩も進めない。女性らしいふんわりとしたドレスより、悲しいかな、少年の格好が似合ってしまうのは薬術師の悲しい性だ。癒術は体力を使うため、なかなか太れないのだ。
ズボンにだぼりとしたシャツを帯で留め、中指の指輪と布は忘れない。頭には装飾品の代わりに帽子を被り、思いっきり顔を叩いた。
「レイル、おはようございます!」
妖人は石を握っている相手から離れられない。近くにいるだろうと声を張り上げる。予想通り、いつの間にか窓枠に腰掛けたレイルがこちらを見ていた。腰まであった髪は、自分で切ったのか肩を少し越えるほどになっていた。
「ライラ、石を返せ」
静かな声に、ライラは姿勢を正した。
「お話しがあります。これを持って言う以上命令になるけど、これはお願いです。命令にならないよう、貴方に選んでほしい」
昼の強い陽光に晒された真白い髪は砂糖菓子のように儚いが、金紫の瞳はそれを裏切るように鋭かった。
「俺に何をさせたい? ならば命じろ。俺はそれに逆らえない」
「命令じゃない。拒否も自由です。拒絶も立派な権利だから。レイル、これは真っ当な契約です」
「契約?」
妖人相手に契約などと持ち出す輩は初めてだ。金で買って、又は元の所有者から魂石を奪い、有無を言わさず従える。そこに妖人の意思など存在しない。妖人は、奴隷という名の商品であり、物なのだから。誰だって物の意思など尊重しない。物に意思があることを確認するなど、その人間が気狂いと言われる類の行動だ。
ライラは、装飾の分重たくなった魂石を両手で掲げた。
「石は返します。その上で問います。レイル、貴方、私に雇われませんか」
レイルは耳を疑った。妖人を、雇う? 聞いたことのない言葉だ。妖人は搾取されるだけで、与えられるのは苦痛と屈辱だけだ。
「救施場まで一人でいける気がしません。だから、貴方を護衛として雇います。如何せん世間知らずだから、ちょっと相場は分からないけど、出来る限り相場より高く賃金は払います。後払いが可能なら、目的地に着いてから上乗せもします。私は救施場まで行きたい。そこまで護衛してください。必須事項は一つ。どうしようもない場合以外、殺さないで」
意外な気がして、レイルは瞬きする。甘い世間知らずの薬術師は、誰も殺すなとのたまうと思っていた。
「殺すな、ではなくか?」
「殺す気の相手を殺さないようになんて、無茶なお願いできない」
ライラは性善説を信じるほどお人よしではないし、理想を実行する権力も無い。出来るのは、多分、対等でいることだけだ。
「レイル、貴方に自由を」
白い指が装飾で無駄に重い首飾りを受け取った。とても、しっくりした。当たり前のことを強く納得する。彼の命は、彼の手にあるべきだ。
装飾だけを残し、白い宝玉がほろほろと崩れていく。あ、と、思わず手を下に出していた。しかし、光はライラの手に落ちてはこない。宝玉は彼の中に戻っているのだ。
レイルは感慨深げに消えていく魂石を見つめ、詰めていた息をふっと吐いた。
「俺があんたを殺したらどうする?」
静かに、レイルが問うた。ライラは、背を伸ばして答える。
「致し方ないと、思う。私だって死にたいわけじゃない。けど、人はいつか死ぬ。命には限りがある。それは致し方ないことよ。でも、貴方は私に名をくれた。尊いものをくれた貴方に、せめて醜悪でない何かで報いたい。私は誰にも命令しない。お願いはするよ。けど、どうするかは全部、貴方が決めて。その結果が私の望むものでなくても、仕様がない。その時は全力で止める」
「馬鹿が。人間が魂石持ちの妖人を止められる訳がない。言う事を聞かせたいなら命じればよかったんだ」
「命は生まれ出づる瞬間から当人だけのものよ。何人も穢すことは許されない。レイル、貴方が望んで、決断して。貴方の生よ!」
たとえライラが殺されても、レイルを止める。人を殺すという人を自由にした。その責は負う。ライラが薬術師でいられなくなる事態となっても、誰も殺させない。
身動ぎせずに見つめる瞳を、金紫が静かに見下ろす。やがて、長い息が吐かれた。
「あんたの勝ちだ、ライラ。俺は名を渡したあんただけは殺せない。そのあんたが立ちはだかるなら、俺に勝ち目はないな。あんたには恩がある。あんただけが俺を癒した。あんただけだ、ライラ。それがあんたの願いなら、俺は従う他ない」
「従うとかそんなんじゃなくて!」
掌がちんまりとしたライラの頭を掴んだ。片手で掴まれたライラは大変不満だったが、ぐっと飲み込む。大事なのは頭の大きさじゃない。脳の皺だと自分に言い聞かせる。
「雇い主なんだろう? 雇われは雇い主の指示に従うものだ。違うか?」
ぱっとライラの表情が輝いて、はっとなり、萎んだ。競売に掛けられていた向かいの店で売られていた、ぜんまい仕掛けの玩具みたいによく動くと、レイルは思った。
「そうなんだけど、まあ、友達みたいなノリで、宜しくお願いします」
「海苔……乾燥か、生か、どっちだ」
「どっちでもないよ!?」
何の計画もない、ぐだぐだな旅が始まった。
地図を広げたライラは眉を寄せた。救施場は首都ヨイーネから遠い。流行り病が首都まで来ていたらもっと大騒ぎになっているだろう。それでも城では王女様の生誕祭を行ったのだろうか。
この宿は、所謂お尋ね者や訳有りが利用する場所だ。部屋は荒れ放題でシャワーは申し訳程度しか水は出ない。けれど潰れない。理由は押してしかるべく。
今のライラにはありがたいが、蚤ダニは憎い、痒い。トランクから薬草を取り出して無言で燻す。薬術師は薬草に詳しいのは害虫駆除の為じゃないが、知は身を助ける。
合わせ貝を開いて、ぽつりぽつりと赤い場所に練り薬を塗っていく。レイルにも渡したが、この部屋で寝ていないから平気だそうだ。羨ましい。
「レイル、腕は立つ?」
「夜盗くらいなら瞬殺できる。嬲れというなら嬲るが? 何せ、何度も経験したからな。とりあえず爪でも剥ぐか」
「よし、出会わない方向性でお願いします」
頼もしい頼もしいと明後日の方向を向いて軽く繰り返している少女が、本当にそう思ってるのか微妙なところだ。レイルはあえて突っ込まず、続きを待った。
ベッドに乗るのを諦めたライラは、トランクの上に地図を広げて指でなぞる。レイルが昨夜、町の屋根の上で聞いてきた騒ぎの内容は、サキ達の無事以外に喜ばしい物はなかった。
「レイルはこの辺詳しい?」
「檻に入れられて王家に売られて以来だ。そこまでも基本そうだ」
「地理感ない二人かぁ……一人よりは断然いいね!」
はた、と、ライラは顔を上げ、至近距離で瞬いた金紫に仰け反り、ぐっと持ち直した。
上から下まで視線を移動させ、再び金紫に戻って頬を掻く。
「レイル、その格好まずいわぁ」
「俺の趣味じゃない」
「うん、知ってる。だがしかし、非っ常に目立つ」
上質の布をたっぷりと使った裾に、重たく縫いこまれた刺繍。煩わしいと装飾はほとんど外されたけれど、そこら辺の小僧(しかもお金ないタイプ)に見えるライラの連れとしては、どうにもこうにも不釣り合いだ。妖人、しかもこれだけ美形となれば買うのにお金がかかる。レイルを連れるには、ライラの格好が釣り合わない。だからといって、薬術師の格好になる訳にはいかない。現在お尋ね者であることを踏まえても踏まえなくても、できない。
「どうしよう。とりあえず、レイルに着替えてもらおうかな。目立つし。なんなら私の外套被っといて。表は薬術師使用だけど、裏はお忍び用だから」
地図をそっちのけで薬草臭い外套を押し付けられたレイルは、大人しく丈の足りない外套を羽織った。
ぐぅ――。
「…………………………」
外套を脱いで、着た。
ぐぅ――――。
「……これを着れば、あんたの腹が鳴るのか?」
「そんな効果が」
もっちゃもっちゃ。
「山を越えます」
手持ちの薬草を食みながら、ライラは手の甲で地図を叩いた。宿は既に離れている。長居をするわけにもいかないのだ。
城を離れた夜、明け方になるまで宿を探し、街道から外れた場所で木々に埋もれた宿を見つけたのはレイルだった。夜目と鼻が利く妖人だから見つけられたようなものだ。初めて訪れた他国で、その筋の人間が利用する秘された宿など見つけようがない。しかし、ライラが目指したのは初めからこの宿だった。
「山を越えたらジェガバリー。街道の山越え拠点だし、ここで服とか食料とか揃えます」
「それまではどうする気だ」
山はそんなに甘くない。高山ではなくても、道のない山を越えるには装備がいる。
ライラは、こほんと咳払いをしてトランクの底を探った。本当に何でも入っている。自分の荷物を持ったことがほとんどないレイルは、なんとなくその鞄を眺めた。
「レイル君」
呼ばれ慣れない呼称に眉を寄せる。
「狩りはお得意?」
弓矢と小刀を手渡され、彼女の意図を理解した。
瞬く間に仕留められた兎に小躍りして喜んだ薬術師は、あっという間に血を抜いて皮を剥ぎ、薬草を積めて丸焼きにした。命云々に非常にうるさく言ってなかったかと思ったけれど、異論はないのでレイルは黙った。
「いい匂い……」
ぐぅ――。じゅ――。ぐぅぐぅぐぅ――。じゅわ――。ぐぅ――!
焼ける音と腹の音、断然腹の勝利だった。肉汁滴る熱い肉を、待ちきれぬまま熱さと格闘して切り分けたライラは、凄く勇ましかった。汗だくでいい笑顔のまま、葉に乗せた肉を差し出す。
「どうぞ!」
レイルはしばし湯気の出る肉を見つめた。すると、どんどん降下していく。重いらしい。巨大なトランクを持って山を登った細い腕は、よく見るとぶるぶる震えていた。早く、早く受け取ってと悲痛な声に急かされたレイルは、それを受け取ってじっと見つめた。
「腕が、滅びてる……。さて、いただこう!」
いそいそと肉に齧り付いたライラは、ようやくありつけた食事にうっとりとした。しかし、見せびらかしているのかと思っていたと、ぽつりと呟かれた言葉を拾い、早速口いっぱいに詰め込んでいた分を水で纏めて飲み込んだ。
「……食事は中断。レイル、お話しがあります」
ライラは返事も持たずに居住まいを正した。レイルは片膝を立てたまま動かなかったが、気にせず続ける。
「私は、雇い主で、貴方が健やかに働ける環境を提供する義務があります。食事はその最たる物です。そして貴方は男で私は女。必要エネルギーは男の方が高いから量も多い。特に、貴方は病み上がりです。熱は下がっていても身体の衰弱は変わりません。雇い主としても、ホストとしても、薬術師としても、正しい行動をしたと自負してます」
炎に照らされて影の出来た顔から、レイルは視線を落とした。手の中の温かい食事はレイルの分だ。罰で抜かれない、這い蹲って食べる事を強要されない。何の命令もこなさず与えられた食事は、恐ろしいほど美味かった。
食べ終わった後、ライラは早々に炎を消した。追っ手を警戒してのことだ。獣はどうするつもりなのか見ていたら、トランクの底から何かを引っ張り出してきた。布で包まれた土偶が現れた瞬間、レイルは鼻を押さえて飛びずさる。爪先から脳天まで一気に悪寒が走り抜け、全身の毛が逆立つ。
警戒心を前面に押し出したレイルの様子に、当人は呑気に首を傾げて自分の掌の臭いを嗅いだ。
「あれ、そんなに臭う? やっぱ薬術師は鼻が馬鹿になってるなぁ」
薬草に囲まれて生きている薬術師は、ちょっとやそっとの臭いでは反応しない。そしてこの物体程度の臭いでは、普通の人間でもさほど反応しないだろう。しかし、レイルは妖人だ。五感は獣並みに強い。
「なんだ、それは!」
全身の毛を逆立てるようにがなった様子から見ると、よほどの臭いのようだ。
「ハマオウの糞を練りこんだ土偶、野営用。獣の頂点に立つハマオウは凶暴で、ものすっごく強い。だからこそ、ハマオウの縄張りに獣は踏み込まない」
ハマオウは、キオス周辺に生息する凶暴で美しい獣だ。神獣とも呼ばれ、色鮮やかな尾を持つ。ハマオウの尾の先には鳥のような羽があり、その羽を百匹分集めれば、どんな願いでも叶うという言い伝えがある。言い伝えが本当だと証明したのは、イクスティリア兄妹だった。
今いる場所を中心として少し離れた場所に三か所設置する。その後、薬草を浸した水で手を洗い、清潔な布でふき取る。トランクから出しておいた消毒液をふりかけた手をパタパタと乾燥させていく。
一連の動作を終えたライラは、くるりとレイルを振り向いた。
「さて、と。一先ずこれでいいとして、レイル、服を脱いでください」
「断る」
間髪いれずに断られた。今までの彼の境遇を考えれば仕方ない。
両手を上げて手の甲を曝すと菱形の紋様が淡く光る。額の紋様は、円形を中心として支えるように広がる紋様、胸元は楕円形、背の付け根は手の甲同様菱形の紋様だ。
「ヤクジュツシ、フラチナマネシナイ」
無理して作ったことが丸分かりな淡々とした声と表情に、思わず噴き出したレイルの負けが決定した。
背を向けて服を落とした肌を見て、声を出さずに頬を引き攣らせる。治癒力の高い妖人の身体に、それすら間に合わぬ力と回数で上塗りされた傷跡。盛り上がり、削り取られ、白い肌は無残に壊れていた。古い傷から新しい物まで、無事な場所を見つけられない。
しかし、声には出さない。引き攣った頬も柔らかく解し、視線が届かないと分かっていて表情を戻す。
「動かないでね」
両手を合わせる。帽子を脱いだ額の紋様は淡く光り、不自然な風が黒髪を宙に浮かべた。
触れ合った箇所から何かが身体を巡る。レイルの奥まで勝手に侵入して触れていく感触が不快でないことに驚いた。温い湯に浸かったような、極上の香りに包まれたような、柔らかな感触に抱かれるような。与えられた事のない無償の心地よさ。
衰弱した身体が勝手にとろりと睡魔を呼んだ。癒術は一回で病を治すのではない。緩やかに身体を正常に戻す。その為には睡眠が最も重要だ。
「眠っていいよ」
安息の眠りなど知らない。矢面に立つ警戒心は細い指が勝手に解いた。頭を撫でられていると緩慢な思考が気づいたとき、身体は抱かれ、幼子のように眠りについていた。
遠くに狼の遠吠えが聞こえ、ライラは転寝から覚めた。
膝に抱いたままの身体が熱い。やはり発熱した。衰弱が日常となった身体を、レイルは気力だけで保たせていたのだ。気力の高さは持ち前の矜持か。
小さく息を吐く。一気に治癒させる術がないわけではない。怪我も、病も、跡形もなく癒せる。しかし、そうなると何かが壊れる。心も身体も治癒についていけず、治ったはずの傷が痛み、取り戻した平常に異常を感じて、平衡感覚がずれる。
身体が本来持ち得ている回復力を基盤にしなければならない。
薬術師は順番を厳守する。
自由行動中でも無闇に癒術を曝さない。癒術は力に伴い術者を削る。凄まじい負担となる術を必要な時に行使できるよう、仕事以外で使うことは少ない。ライラとて順番を持つ場合は、こうして癒術を行使してはならない。命に関る緊急事項以外受け入れてはならないのだ。
それに、生命には治癒力が備わっている。下手に癒術を使い続ければ、本来持つ治癒力が働かなくなり、生き物として成り立たなくなっていく。
しかし、必要とあらば躊躇わないのが薬術師だ。限界を悟りながら癒術を行使し、自らを散らせた薬術師は増える一方だった。
薬術師が一日に診る事の出来る患者の数は決まっている。こなせるならばそれ以外に癒術を使用してもいいが、大抵個々の薬術師の限界人数で順番は決められている。
学徒時代でさえ何度も経験した。道を歩いていると、母親が病の子を抱いて懇願してきた。お願いします癒してやって下さい、こんなに苦しそうなんです、お願いしますお願いします。母親の声は疲れ果て、地面に額を擦りつけてやつれた頬を汚している。
ライラは断るしか出来なかった。苦しいのも痛いのも彼女の子だけではない。ここで同情して子を癒すのは、苦痛の中順番を待っている人々への裏切りだ。
順番変更を強要してきた暴徒の手にかかり、死んだ薬術師も少なくなかった。
「移動しなきゃな……」
体制を変えず、不安定な体勢から片手を伸ばしてトランクを引き摺る。金具と岩が擦れ合う音にもレイルは反応しない。幼子のように身体を丸めて眠っている。身体にかけている大きな布を引き、傷だらけの手を仕舞いこむと、ライラはトランクから地図を引っ張り出した。
薬術師に渡される地図は特殊なものだ。世界中に遠征する薬術師の為に斥候が走り、緻密に作り上げられた、他国の情報そのものなのだった。分かる限りの情報が詰め込まれている。改訂される度に書き込まれた情報で一杯になり、地図なのに文字ばかりが目立つ。宿の存在もこの地図で知った。
細い指で地図を辿る。この分なら近くに洞窟がある。時期的にも熊は平気だろう。街道に近いから用心して使わなかったけれど、そうもいっていられない。追っ手がかかる様子はない。サキ達が立て篭もった塔に、自分もいると思われているのだろうか。だとしたらありがたい。
帽子を外した長い黒髪をぐしゃりと握り潰して額を覆う。薬術師は男女問わず髪が長い。纏めやすいし、切る暇がないのも理由だ。
今回はライラが迂闊だったが、本来薬術師が一人で出歩くなど有り得ない。他国でなんて持っての他だ。厳重な護衛も、他者に渡れば戦争の道具に成り得る緻密な地図も、必要だから存在する。
薬術師は稀少で、希望で、最後の拠り所だ。
「ごめん、レイル。私は、一人じゃなくて良かったって、思ってる」
人が怖い。
全ての薬術師が、一度は必ず呟く言葉を、例に漏れずライラも零した。