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 陽はすっかり落ち、人々の大半がベッドに入ると、世界は急速に静まり返る。騒がしいのは、この夜を宴と定めて飲み明かすつもりの酔人だけだ。子どもは勿論、大人も大人しくベッドに潜ることに躊躇わない時間。

 ライラは、ペンを持った手を口元に当て、軽く欠伸をした。

 しゃらり、しゃらりと、頁をめくる音と、硬いペン先がかりかりと紙を滑る音だけが響いていた部屋は、ライラが動きを止めたことで沈黙が落ちる。

 それを見計らっていたわけではないだろうに、扉からこつんとノック音が聞こえた。こんこんと何度か叩くのではなく、指を一回打ちつけるだけの無骨なノックが、ライラは好きだった。



「開けろ」

「はーい」


 ふわぁと小さく欠伸をしながら椅子から立ちあがり、伸びをする。肩から落ちかけたストールを羽織り直しながら扉の鍵を開けた。その先には灯りが落ちた廊下がある。暗い廊下の中に溶け込むように立っているのは、隣の部屋で就寝中のはずのレイルだ。夜目の利く妖人は、この程度の闇では灯りを必要としない。


 ここは、街道沿いにあるキオスが所有している建物だから、こうして姿を確認する前に開けてしまう。完全にキオスの人間で固めているから出来ることだ。これが普通の宿屋や建物内ならば決してしてはいけないことだ。開けた瞬間、声真似が得意な全くの別人、なんてこともありうるのだから。




「レイル、どうしたの? 眠れない?」

「こっちの台詞だ」


 軽く嘆息しながら部屋に入ってくるレイルのために場所を譲る。もう夜も遅いというのに剣を下げたままのレイルは、別に夜番でも見回り中でもない。いつも大抵このままなのだ。常に警戒しているとも、これ以外の常を知らないともいえる。流石に外套まで羽織ってはいないが、寝間着でもない。ライラのように寝巻用のワンピースを着ろとは言わないが、せめてそのままでは外出を躊躇われてしまうくらい気楽な格好をしてもいいのではないかと、ライラは思う。思い立った瞬間に外に駈け出していける服ではなく、だ。


 部屋の中に入ってきたレイルは、机の上に残ったままの書き物を見て眉を寄せ、ベッドの上に座った。


「さっさと寝ろ」

「うわー……レイルにまで言われるようになっちゃった……」


 ライラは困った顔で笑うと、さっきまで座っていた椅子を引っ張り、ベッドに座るレイルと向き合って座った。


「薬術師の騎士は、薬術師を守ることは当然の責務として、放っておくとどこまでも休まない薬術師を休ませることも仕事だそうだ」

「…………誰から聞いたの?」

「薬術師以外のキオスの人間全てからだ」


 思っていたよりも壮大な人数に、ライラはふいーっと視線を彷徨わせた。ランプの明かりと共に揺れる影をなんとなく見つめるけれど、この逃げ道も長くは持たないと分かっている。


「薬術師が身体を休められるのは移動中しかないんだろう」

「そ、うなんだけど……」


 一か所に留まっていれば必ず治療を求める声は現れるものだ。どこにだって病人はいる。どこでだって怪我人は出る。どこでだって人が死ぬ以上、薬術師を求める声が途絶えることはない。そして順番を持っていないのであれば、薬術師にそれを断わる理由もない。だから、薬術師を護衛している隊は、基本的に薬術師の存在を秘匿して移動する。薬術師が癒術を使用せず一日を終えられるのは、移動中の期間しかない。


 まだ二十歳に満たない薬術師三人を護衛するサルダートは、特にそれを徹底した。薬術師としては一人前でも、まだ身体が出来ていない三人の子どもへの負担を減らすためだ。癒術は、酷使すれば寿命が縮む。癒術が、命を削る。人を癒すための術が、術者の命を削るのだ。そこまでしなければならないのかと疑問に思う人間は多くいる。そんな彼らに、そこまでしなければ救えない命があるのだと、薬術師は答える。それでも救いたいのだと、薬術師は願うのだ。



 薬術師が順番以外の理由で癒術を制限できないと分かっているからこそ、キオスの人間は自分達が壁となる。救いを求める声が薬術師まで届いてしまえば必ず応えると分かっているからこそ、秘匿して進む。救いを求める声に際限などないのだから。


 薬術師も人である以上、休息が必要だ。際限なく酷使すれば、人の脆弱な身体などすぐに壊れてしまう。誰もが人である以上、分かっているはずのことだ。それなのに、自分が窮状にあれば、無理が通ると思っている人間は恐ろしいほどに多い。自分が困っているのであれ、自分の状態が救いを求める現状であるならば、それを救える職にある存在は無茶も無理も押し通していいと思っている。押し通す権利があると、思っているのだ。救える立場にある人間は、その願いを当たり前のように受け止め、自分を救うのが責務のであるのだと思っている人間は、珍しくもないのだ。

 医者も、兵士も、配達人も、薬術師も、それぞれが掲げる責務を忠実に守り、個々人の余暇を生活を家族を身体を精神を人生を犠牲にしてでも守り、困っている自分を救うのが当たり前だと、だってそれが彼らの責務なのだから、だって自分はそうしてもらわないと困るのだからと胸を張り、まるで当たり前のことのように言ってしまえる人間の多さを、レイルはこの短期間で目の当たりにしてきた。




「特にお前は死にかけた後だ。いま身体を休めないでいつ休めるつもりだ」


 諭されているのでも怒られているのでもなく、淡々と紡がれる言葉に、ライラは困った顔を返すしかない。レイルからすればそこで困った顔をされるほうが不思議だ。

 次の出張先で行われる新薬の説明は、サキとユーリスが担うと聞いている。二人からも体調回復を優先させるようにと、ライラも直接、幾度も言われていた。

 レイルは机の上に広がっている本と書き物の痕を見て、隣に置かれた茶に視線を向ける。まだかなりの量が残っているのを見るに、まだ寝るつもりはなかったのだと分かる。レイルが来なければ、この後何時間続けるつもりだったのだと溜息が出た。その溜息に、ライラは困った顔で笑う。



「ライラ」

「何?」


 そのままだと口を噤んでしまうと、長い付き合いでなくとも分かってしまったレイルはライラを呼んだ。薬術師は言葉を飲み込むことが多いとサキは言った。その通りだと、しみじみ思う。誰かを気遣って生きたことなどなかったレイルに、察することは難しい。それが薬術師ならば尚の事だ。


「サキとユーリスの部屋にも、さっき専属騎士が向かった。……新薬の説明の打ち合わせは、既に終えているはずだ。それなのに薬術師は、何をそんなに焦っているんだ。お前達が開いている本は、今すぐどうにかしなければならないものではないだろう」


 だから、レイルは言葉にして言う。問うて、聴く。そして、レイルが真摯に問うた言葉にライラが弱いことを、知っていた。

 逃げ道を失ったライラは、困った顔を情けない顔へと変える。薬術師は、薬術師でなければわからないことが沢山ある。喜びも、苦悩も、苦痛も、恐怖も、様々なことが薬術師であるが故に発生する。そして薬術師はいつしかそれが日常となり、当然となり、わざわざ口に出さなくなるのだ。薬術師以外の人間は、それを分かっているから深く聞こうとはしない。良くも悪くも、それが当たり前だった。

 だけど、レイルは聞こうとする。ライラが噤んだ言葉を、呑み込んだ感情を、真っ直ぐに聞いてくるのだ。


 視線を向けた先では、闇に溶けるような黒髪が揺れている。ライラと同じ黒の色。レイルが、ライラのために捨てた色を、ライラは一生覚えている。この黒は、レイルがライラと生きようと選んでくれた色だ。その彼が、ライラを知ろうと問うてくる。ライラにそれをはぐらかすことは出来なかった。



「…………怖いの」

「怖い?」

「うん……私達はね、足りないことが、怖いの」


 羽織ったストールの端を捩じりながら、ライラは俯く。


「知識であれ技量であれ、薬術師が持つ不足はそのまま死に直結する。命は待ってくれないの。その知識が必要となったとき、知ろうとする時間なんてくれない。いつだって、そのとき自分が持っている物でしか癒せない……出来ることを、してきたよ。全力で、そうしてきたつもりだけれど、足りないのも事実なの。人が一生のうちに学べることって、どれくらいなのかな。全てを知っても救えない命があるって分かってる。だけど、私達はまだ知らないの。全てを知っても救えないと分かっているのに、足りないままでいることが、不安で、怖くて堪らないの」



 零れ落ちていくのだ。命が、ライラの目の前で、消えていく。

 臓器が緩やかに、急速に、その機能を失っていく。じわじわと、時にぶつりと断ち切られるように、命が尽きる。癒術が、命の中を素通りして無に帰す瞬間を、その恐怖を、絶望を、悲鳴を、憤怒を、痛みを、悲しみと呼ぶことすら出来ないほどの絶望を、言葉にすることなど出来ない。


 常に追い立てられているような焦燥がある。何をしていても、どこにいても、それは薬術師を追ってくる。己の未熟を、不足を、自覚しているが故の焦燥だ。この未熟はそのまま、誰かの死となる。

 それは、誰にも背負えない不安だ。誰かが肩代わりすることは出来ない焦燥だ。同じ薬術師であっても、誰にも負えないものなのだ。誰かが勉強すればいいというものではない。誰かが知ればいいというものではない。全員が同等の責を負うということは、個々人が知識と技量を蓄えなければならないのだ。

 足りない。足りない。足りない。足りなければ、死ぬ。命が潰える。目の前で、この手の中で、命が潰えていく。

 

 ライラは、何も答えず静かに聞いているレイルに、ふわりと微笑んだ。その笑みは、誤魔化しだった。治療する側が揺らいではならない。治療者は常に、患者に向けて大丈夫ですよと微笑み続けなければならない。不安を煽ってはならない。不安はそのまま、患者の生き残る気力を奪う。どれだけ力を尽くしても、患者自身がああもう駄目だと思ってしまえば、その命はふっと掻き消えてしまうのだ。

 だから、薬術師は微笑み続ける。心の中がどれほど荒れ狂っていようと、大丈夫ですよ、もう大丈夫ですよと微笑み続けるのだ。





 弱みを言い慣れない薬術師は、望まれるがままに吐き出した不安を散らすかのように微笑む。


「薬術師は、忙しいほうがいいのかもね。たまに休みがあると駄目だね。考える暇が無いほうが、いいのかも」


 ライラは立ちあがり、机の上を片づけ始めた。ペンを所定の位置に置き、インク瓶を絞め、話している間に乾いた紙を纏めて開いていた本の間に挟んで閉じる。


「レイルの言うとおりもう寝なきゃ、サルダート陣頭が怒鳴りこんできそう。扉、蹴り壊されたらどうしようねー」


 ふざけるように笑うライラの腕を掴んだレイルは、驚いた顔をした少女をそのままベッドに引きずり込んだ。

 お人形宜しく抱きこまれたライラは、天井を見ながらぱちりと瞬きをした。人の顔のように見える天井の染みにいま気がついた。


「……………………………………ん?」

「寝ろ」

「寝るよ……寝るんだけどね!?」


 このまま!?

 手のやり場にも足のやり場にも、ついでに言うならば心のやり場にも困り固まるライラを抱え込んだまま、レイルは器用に片手で剣帯から剣を外して自分の背後に寄せる。


「今日はサルダートから薬術師専属騎士に指令が出ている。絞めてでも薬術師三人衆を寝かせろだそうだ」

「絞められる前に寝ます」


 だから放してほしいと蠢くライラの身体が、更に深く抱きこまれた。放してほしいと訴えたら抱きこまれたライラは、真剣な顔で腕を組んで首を傾げる。おかしい、レイルと話が通じない。


「一昨日、昨日も、お前達はろくに寝てないだろう」

「えっ」

「ランプ油の減りを見れば分かる。だから今日は、全員このまま就寝だ」


 まさかのサキとユーリスも同じ状況に陥っているらしい。確かに、見張られたまま自分だけ眠るのは大変居心地が悪い上に、見張りは徹夜をするのかと思うと薬術師としての責務がそわそわ顔を出す。それならいっそ一緒に寝てくれたほうがいいと思うは思う。

 だが、サキとイヅナはともかく、ユーリスと護衛騎士も同じ年の男女だ。いくら騎士の女性のほうが強いとはいえ、それはどうなのだろう。それとも、あの二人付き合っているのだろうか。ライラはちょっと考えて、明日聞いてみようという結論に達した。今は自分の身をどうにかしなければならないからだ。

 ライラは慌ててもがいた。


「みんなサルダート陣頭の命令、忠実に聞きすぎじゃない!?」

「必要があると思った内容に、わざわざ反抗する理由が無い」


 人間に対しての蟠りが消えるはずのないレイルだったが、そうきっぱり言い切られてしまってはライラにはぐうの音も出ない。


「寝るよ、ちゃんと寝るから!」

「じゃあ、今すぐ寝ろ」

「そんなご無体な」


 ライラは、治療を終えた仲間と一緒に倒れ込み、老若男女で薬術師団子を作り眠ったことは多々あれど、好きな人と一緒に眠った経験など皆無だ。


 特に遠征先でよく見られる薬術師団子だが、キオスでもわりとあちこちで見られる光景だ。あまりに折り重なっていたら、それぞれの専属騎士がそっと解体しにくる。中には寝ぼけて癒術を使ってくる薬術師もいるので、その手に捕まらないよう行動するのはなかなか至難の業らしい。薬術師の執念は眠っていても恐ろしいのである。

 それはそうとしても、今のレイルだ。


「レイル、ちゃんと寝る。寝ます。約束する。だからお願い。部屋で寝て……」

「…………お前、ちゃんとそういう感性があったんだな」


 驚いた顔で言われたライラは、私だって年頃の女の子なんだけどなと、切なくも悲しい思いをした。顔が赤くなっている自覚があるのに悲しい思いもしている。感情が渋滞を起こしているので、正直眠れる気がしない。だが、それを言ってしまえばレイルはこのままここで夜を明かしてしまうだろう。そんなことになれば、確実に眠れない。どっちにしても眠れない結論に達してしまったが、それならばかろうじてでも眠れる可能性に懸けるほうがまだましだ。




「平気で男の服を剥ぎ、自分の服を裂くくせに」

「治療中に性別を意識したことはないよ。それに、早く止血しなきゃいけなかったら、服くらい裂くよ」


 街道の途中で馬車が事故を起こし、酷い裂傷を起こした人がいたのだ。癒術を使うほどではなかったが、早急な止血が必要だった。逆に早急な止血が出来なければ癒術を使わなければならなかっただろう。


「……あの、レイル。薬術師は治療中、治療に必要なこと以外は何一つ気にしなくなるから、その……こ、恋人と、揉めることもあるって聞いたことがあるんだけど…………レイルも、気にする?」


 薬術師と分かって付き合ってくれているのだから、みんな基本的に理解はある。あるのだけれど、全く気にならないよとなるわけでもないのだという。それはそれで当たり前の感情なので、そんなの間違っている、理解がないと怒る薬術師はいない。だけど、だからといって治療を躊躇う薬術師はいないのも事実だ。


 レイルは、その辺りをどう感じる人なのだろう。こういった関係を人と結ぶこと自体が初めてのライラには全く見当もつかない。

 恐る恐るレイルを見上げると、横になったことで頬にかかっていたライラの黒髪を、指先で肌をなぞるように後ろに流していきながら僅かに首を傾げた。


「さあな」

「……それは、どう判断すればいいの?」

「俺は他者に執着心を持ったことがないから、判断がつかない」

「……私も実は、独占欲の類を持ったことがなくて、よく分かりません」


 命への執着はあれど、土地や人に執着はしなかった。してはならないし、している暇もなかった。ただただ駆け抜けるような人生だったのだと、ライラは改めて実感する。

 正直に告白したライラに、レイルは小さな溜息を吐き、その身体を深く抱きこんだ。ライラが肌を茹で上がらせている間に、さっさと掛布もかぶってしまう。


「だからこれから考える。お前も考えろ。だが今は寝ろ」

「…………眠れません」

「寝ろ」


 そんなご無体な。

 押しつけられた胸に頬をつけたまま、ライラは恨みがましくレイルを見上げる。すると、何だか面白そうな顔で見下ろされていた。


「お前の中で、俺は患者じゃなくて何よりだ」

「そりゃ、そうだけど…………あの、たぶん私、そういう情緒、ちゃんと育ってない気が、自分でもする、から……その……いろいろ、変で、迷惑かけるかも」

「お前とは別の意味で、俺も同じだ。俺は誰かに好意を抱くこと自体が初めてに近い。だが、それでも俺はお前といると決めた。なら、それ以外のことは些末事だ」

「そう、なのかな? …………私、レイルが特別だよ。でも私は、レイルを優先できない。レイルが特別だから、優先できないの」


 薬術師は、特別な人を優先できない。特別な人でも優先できないのではない。特別な人だから、優先できない。同じ怪我をしていたら、特別ではない人から治療を開始することが、公平なのだ。

 おかしいと言われることもある。だけど、それが事実だった。仮令それが同じ傷であっても、特別な人から治療を開始してしまえば、贔屓の謗りを免れず、薬術師自身もそれを否定することは出来なくなるからだ。



 さっきまでの熱が、急速に強張っていく自分をライラは自覚していた。だけど、これが事実である以上、ライラには伝える責任がある。一緒にいようと言ってくれた人を優先できない自分達は、相手に対して真摯である以上の報い方が出来ないのだ。

 身を強張らせたライラを抱き直し、レイルは小さく笑った。


「お前はそういう生き物で、俺はこういう生き物だ。それを分かっていて、共にいると決めたんだ。それなのに、その部分を否定する気はない」


 何の気負いも迷いもなく、当たり前のように言われた言葉に、ふと身体の力が抜ける。つけた頬から感じる鼓動も、自分とは違う硬さを持つ薄い身体も、森の匂いがする香りも、自分を包む体温も、痛いほど感じる。頬はまた熱くなってしまったし、首も火照っている気がするし、心臓はいつもより早い鼓動を刻み、目尻も熱い。胸の紋様の中心にある魂石まで熱い気がする。

 だけど、ライラは何故か安心した。


 急に身体の力を向いたライラを不思議に思って覗き込むレイルから、顔を隠すようにその胸に擦りつける。


「ライラ?」


 ライラの胸の中で膨れ上がる感情があった。それは、苦しさであったり、悲しさであったり、喜びであったり、恋しさであったり、愛おしさであったり、溢れんばかりの切なさであったり。

 薬術師は、切り捨てて生きる。普通と呼ばれる生活を、普通と呼ばれる生き方を、自らの時間を、関係を、切り捨てなければ進めず、救えず、生きられない。

 だけど同様に、切り捨てられて生きるのだ。分かり合えないと、薬術師は決して自分達を優先してくれることはないと、友から、知人から、切り離される。それは仕方がないことだった。会う約束をしていても、急患が出れば悩むこともなく約束を破棄する。会っていても、話している途中でも、喧嘩をしている途中でも、愛し合っている途中でも、いつだって、薬術師は患者の元へ駆け出していく。


 そんな人間と一緒に生きることは、酷くつらい。薬術師という存在を分かっていても、駆け出していく背中を見続ければ、裏切られたように思うだろう。そうして、愛も好意も信じられなくなっていく。そんな人々を、薬術師に責める権利は無かった。先に切り捨てたのはお前だろうと言われれば、その通りだと答えるしかないのだ。


 薬術師は、切り捨て、切り捨てられる。

 だから、だから。


「…………レイル、好き」


 ライラは他の何も言葉にすることは出来なかった。




 みっともなく震える声に、レイルは何も言わない。ただ、ライラの頭に顎を置き、背中を撫でる。まるで子守唄のような鼓動と体温に、ライラは目蓋を閉じた。すぐにでも眠れるようにも、眠れないまま朝を迎えるように思う、不思議な気分だ。温かいのに、冷たい塊が喉を通って胃の腑に落ちていく。


 友人が去っていった。恋人が去っていった。専属騎士が去っていった。

 家族が、去っていった。


 一晩中泣き腫らした仲間の目を癒したことのない薬術師は、きっといないだろう。

 泣いて泣いて泣いて、それでも患者はやってくる。その彼らの前で、泣き腫らした目など見せられないのだ。


 友人が去っていった。恋人が去っていった。専属騎士が去っていった。家族が去っていった。

 どこにもいかないで。ここにいて。一人にしないで。置いていかないで。


 優先も出来ないのに、そんな言葉が喉から出そうになり、ライラは必死に呑み込む。


 去っていく。皆、去っていくのだ。


 ライラは恋人も専属騎士も初めての存在だ。だから、独占欲は分からない。

 だけど、レイルを失えば、想像を絶する痛みに悶え苦しむことになることは分かる。それでも一緒にいたいのだと思ってしまった。手を伸ばしてしまった。


 ずっと一緒にいたい。そう願う。ずっと、願っている。そう願うことすら卑怯になってしまう自分の在り方は変えられないくせに、随分なことだなと自嘲するしかない。




 出来るだけ静かに洟を啜ったのに、振動か音を拾ったのだろう。レイルはぴくりと動いた。


「俺に黙って泣くなら抱くぞ」

「…………………………どうしてそうなったの?」


 この人は何を言っているのだろう。何をどうすればその結論に達したのか。涙も引っ込むというものだ。

 赤面することすら出来ず、ぽかんと見上げてくるライラに、レイルは口元を吊り上げた。


「薬術師を抱きたければ、こういう移動中しかないそうだ」

「だ、れからそんなことっ……」

「サルダート隊の面子が、聞かなくても教えてくる。正直鬱陶しい」

「鬱陶しいと思っている面子から得た情報を実行に移さないでください!」


 ただライラを抱きこんでいただけの手が、何やら動き始めている。背中を撫で下りていく指に、思わず背が反る。


「ま、待って待って待って!」


 恋人ってすぐにこういう行為をするのだろうか。分からない。ずっと一緒にいたいと思った人だし、別にしたくないというわけでは多分ないのだけれど何分初めてなので分からない。何をどうすればいいのか全く分からない。何が適切なのか分からない。何がどうしてこんな流れになったのかも分からない。何より心の準備が分からない。


「レ、レイル、あの、私」


 一気に混乱して見るからにぐるぐるしているライラの額に、レイルの額が合わせる。小さく笑ったレイルの吐息が唇にかかり、ライラの混乱は頂点を極めた。思わずぎゅっと瞑った瞼の上を、レイルの唇が滑っていく。


「黙って泣かないなら、しない」

「だ、まって、って、なに、が?」


 口の中がからからなのに妙に粘つく。熱いのか寒いのか分からない、いや熱い。思考も視界もぐるぐるしてきたライラに、レイルはくつくつ笑っている。


「薬術師は呑みこむ言葉が多いんだそうだ。それを俺に対して行うな。それをするなら、俺は無理矢理吐かせるぞ」

「だ、れからっ……」

「サキとユーリスが、聞かなくても教えてくる」


 レイルがサキとユーリスに構われているのは知っていた。彼らにはなんとも不思議な縁と事情がある。基本的に鬱陶しがっているレイルだけれど、サキとユーリスはレイルの嫌そうな顔にも無表情にも、時には威嚇でさえも気にしていない。そんな三人を見かけては、仲がいいなと微笑ましく思っていたものだけれど、薬術師あるあるが

 レイルに筒抜けになっている可能性を忘れていた。



「わ、たしは」

「呑み込むな、ライラ。俺はお前の言葉なら、全部聞く。そのために、ここにいるんだ。それをお前が呑み込めば、腹立たしい」


 ごめん、怒らないで。腹立たしいって何。私だって暴かれたくない気持ちの一つや百はある。聞かなくていい。ごめん。怖い。言いたくない。


「どうせ眠れないなら、夜は長いだろう。好きなだけ話せばいい。誰の都合も考えず、お前だけの言葉で、俺に言いたい事は?」


 ぐるぐると思考も感情も回るのに、さっきの混乱とは全く違う。苦しみと痛みが溢れんばかりに荒れ狂うのに、ライラを包むものは温もりだけだ。


「レイル、もうやだ」


 私を泣かせるから、やだ。

 そうぽつりと恨み言を言ったのに、レイルは酷く嬉しそうに笑った。








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― 新着の感想 ―
現代の医療従事者の方々も同じような状況だったりするんだろうな…筆者さまは関係者の方かなと思うくらい、心理描写が克明です。頭が下がります。 知らないことが怖い、できることを探してしまう…私は全く違う業種…
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