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2.鼻血で繋がる薬恋歌



 夜風が心地いい。開け放された窓から入る風は、熱に浮かされた身体には寒さを齎したが、今は清々しい。

 レイルはひどく機嫌が良かった。面白い夜だ。

 代わり映えのしない膿む毎日の中で、憎悪と怒りは既に満杯まで蓄積されている。チャンスは逃さない。一瞬で立場を逆転させ、己に関わった人間全てを殺す。絶対的上位に立っている余裕からか、元来の達なのか、残酷に他者の尊厳を踏み躙る人間達に復讐を。

 いつもの憎悪が渦を巻く胸中で、青色の小瓶が音を立てた。掌に取り出すと、ちりちりと微かに震える音は、夜風と同じで心地よい。澄んだものは嫌いじゃない。深い森の中に似ている。


 薬術師は初めて見たが、彼らは皆やせっぽっちだと聞く。彼らが扱う癒術は、それだけのエネルギーを使う。キオスを離れた薬術師の寿命は数年を切るらしい。それだけのエネルギーを惜しげもなく使ったやせっぽっちの少女は、細い指で瓶を押し付けた。


「喜べ、ライラ。名を教えた人間はあんたが初めてだ」


 二度と会うことのないだろう少女と、しかしもう一度会ってしまった時。誤って殺してしまわないよう名を渡した。薬草臭い少女が残した香りが、今も部屋に残る。ああ、面白い奴がいた。うるさく、薬草臭く、やっぱりうるさい。けれど不快ではなかった自分が少し愉快で、レイルはくすりと笑った。





 月が大分位置を変えた頃、煩わしい女が戻ってきた。

 身体中をこれでもかと装飾した王女だという女は、無闇に明るい色の金髪を、美しいだろうと自慢するようにかき上げるのが癖だ。色に罪はなくとも、たっぷりとした金髪が放つ色が煩わしい。それに比べて今日会った少女の髪色は好ましい。月明かりでも妖人の瞳は夜目が利く。頑固にストレートの黒髪は、艶がはっきり出て美しかった。まっすぐの髪が月明かりを放って目を奪う。


「ねえ、わたくし今日が誕生日なの。皆が盛大に祝ってくれたわ。あなたも祝って」


 レイルは視線を向けず月を見上げている。マリアンヌは、かっと青筋を走らせた。母親の王妃も、白い額に青筋が走り、悋気が強い女だった。


「命令よ! 口付けて、祝辞を述べなさい!」


 首筋にぶら下がっている、華美すぎる装飾を施された白い宝玉は、レイルの命だ。命令を受ければ逆らえない。どれだけ怨んでも、唇を噛み千切っても、命すら絶てない。レイルは魂石を通した命令以外は決して聞かない。ささやかな反抗だ。いずれ、全員の首を刎ねるまでの。


「おめでとうございます、マリアンヌ様」


 白い手袋を嵌めた手を取り、優雅に口づける。マリアンヌが満足気に微笑んだ光景は美しかった。けれど、口付けはどこまでも冷たいことに、手袋越しの彼女は気付かない。

 王女はいつも通り今日あったことを話し始める。奴隷相手に何を言ってもいいと思っている人間は多い。だからレイルは自由のないまま事情通だ。どこの女が不倫をして、どこの男が金を懐に入れて、どの侍女が目の前の女の陰口を叩き、どの衛兵が部下を拳で叩いたなど、どうでもいいこと情報ばかりが膿んでいく。




「アコディー伯爵からの贈り物は大したことなかったわ。正直がっかり。もっと大きな宝石にしてくれると思ったのに。オン大臣からは素晴らしかったわ。見て、この髪飾り。こんなにダイヤを使っているの」


 贈り物についての評価は、レイルにとってどうでもいいことの筆頭だった。どうせその日の気分で評価が変わるのだ。それは彼女が語る物事の全てにおいていえることだったが。


「でも、全体的には最悪だったわ。お母さまはお父様が新しく迎えた側室の事で不機嫌だし、お父様は側室への贈り物をわたくしへの贈り物を見て思いつくし、皆が連れてきてた子息は不細工ばかり。ぱっとしないわ。何より腹立たしいのはあの薬術師達よ!」


 急に語尾を荒げたマリアンヌの言葉に、レイルは思わず反応した。


「薬術師?」


 答えたレイルに、マリアンヌは驚いた顔を向けたが、すぐに気紛れかと興味を失い、勝手に喋り始めた。


「二人とも烏みたいに真っ黒い髪で汚いし、一人は先の戦で有名になったとかで、わたくしより囲まれるし、連れてる護衛が子息なんかよりよほど綺麗なのが腹立たしくってよ。あなたみたいに、いいえ、あなたの方がずっと綺麗よ? けれど、そこらの男よりはずっと美しくて、見せびらかすのだから厭らしい。あんな、肌を一切出さない服で、男性を集めるのも卑怯だわ。わたくしのドレスの方がよっぽど素敵なのに。本当に最悪。やせっぽちで化粧の一つもしてなくて、みっともないし、物珍しさだけで囲まれてへらへらしてるし、綺麗だなんて不当な評価よ。皆、物珍しいだけなのに。何が最悪って、このわたくしのパーティを台無しにしたのよ!」


 額に青筋が走る。その様は悋気に猛る母親によく似ていた。


「みっともなく走りながら戻ってきて、イクスティリアにしがみついて泣くのよ。無礼にも程があるわ!  このわたくしが、わざわざ、声をかけてあげたのに、無視したのよ!」


 泣いたか。妖人が奴隷にされていて泣ける人間がどれだけいるだろう。レイルの前でなく、約束通り離れてから。ここで泣けば憐れまれたと怒りも出来た。人間お得意の慈愛に見せかけた自愛なのだと嘲りも出来た。虐げられた人間を前に、慰めを期待して涙を流す人間ほど信用できぬものはない。彼らの流す涙は、奴隷の為に泣く優しい自分への陶酔だ。

 だが、あの薬臭い少女はそうはしなかった。

 今にも泣きだしそうな目元は強張っていたのに、最後まで口角を吊り上げて笑った顔を思い出し、ふっと口元が緩んだ。




 信じられないものを見たと、自慢の顔をぽかんと阿呆面にしたマリアンヌは、頬を薄く染める。十三歳の誕生日に父から贈られて四年、この妖人が笑う姿を初めて見た。


「あなた、笑えたの……?」


 すぐに酷薄な笑みに変わった口元にかっとなって、鞭打ちを呼ぶ為に口を開いた。扉の前で待機させてある付き人は返事をしない。


「何よ! わたくしの声が聞こえないというの!」


 苛立ちは増すばかりだ。マリアンヌは華奢なヒールで床を打った。


「さあ、どうする」


 珍しく青年から口を開いた。しかし、マリアンヌがそれに驚く暇はなかった。何か騒がしいのだ。

 扉を開き、動きを止めた。べちゃりと汚らしい何かを踏んだ。


「王女様、お下がりください!」


 重厚な作りの扉一枚隔てた先は真っ赤だった。いつもはしんっと静まり返っている廊下に、怒声と剣がぶつかり合う音が響き合う。

 折り重なって床に倒れる見慣れた服は、衛兵のものだ。壁の一部よりも置物らしく思っていたものだったのに、置物が倒れて砕けるものは破片ではなく赤黒い水だった。

 立っている男達がマリアンヌに身体を向け、足を踏み出した。

 足が震える。息が、できない。

 衛兵達が必死になって侵入者を押し返そうとしている。そんなはずない、ここはどこより安全な城の中枢部。何より今日は誕生日。祝われて、誰からも視線を浴びて、幸せでなければならない日。たとえ、父親が新しく迎えた側室と、それに対する母親の悋気にばかり気を取られていても。母親が、新しく迎えられた側室を貶める言葉を必死に組み立て、父親が嫌気がさしたと肩を竦める形相で父親を睨み続けていたとしても。

 幸せでなければならない日なのだ。


「いやぁ!」


 出たばかりの部屋に駆け込み、薄ら笑いを浮かべている妖人の魂石を握りしめた。


「あいつらを殺してぇ!」


 震える手で檻を開いて、ぎくりとした。自分は何と言った? あいつらと言った。敵と衛兵を区別しなかった。

 扉をけ破って部屋になだれ込んできた男達に、背後から髪を掴まれる。自慢の金髪が無残に千切れていく。


「助けて」


 引き摺られながら手を伸ばしたのに、妖人は口角を吊り上げたまま動かない。精一杯伸ばした掌は何も掴んでいない。彼の命は、彼の足に当たって、止まった。


「俺が、お前の頼みを聞く理由がどこにある? なあ、マリアンヌ様」


 月光を背負ったしなやかな一礼は、目の肥えた王女が見ても、世界で一番美しかった。







 心配したサキは、ライラを自分の部屋に連れ戻った。元はイヅナと二人部屋だ。ベッドを取れないと主張するも、イヅナは平然と「俺はサキと寝る」と言った。「ライラさんと寝ますからね、言っとくけどね、ライラさんと寝ますからね。私もうちっちゃくないし、目を離しても死んだりしないからね」と冷静に返した妹は、きっと慣れているのだろう。

 イヅナは淡々と寂しげに渋々ベッドに入り、数刻後に飛び起きた。手早く装備を取り付け、ここにいろと厳命して部屋を飛び出した。いつの間にかサキも鋭い顔で耳を澄ましている。

 上着を羽織ってドアの隙間から覗けば、薬術師を渡せと何十人もの衛兵が部屋を囲んでいた。


「己が招いた国家不介入が原則の薬術師に対し、これがパオイラの礼儀か」

「我が国の貴人へ、必要な治療を行なわず、故意に病を見過ごしたとの情報がある。依頼で行なわれたとすれば、これは我が国へのテロ行為である。真偽を確かめるべく、薬術師二名は速やかに同行願いたし」


 身体に添った服の上で装備を鳴らし、イヅナは静かに刃を構えた。


「寝言は寝て言え」


 衛兵長は止むなしと首を振った。


「ならばその命、お覚悟召されよ。薬術師は捕縛する!」


 イヅナが一人で兵士を押し止めている。ライラの横で舌打ちが上がった。すんっと鼻を鳴らすと、どこからか焦げ臭い匂いが立ち込めてくる。


「陣頭達と分断されたんだ」


 喧騒が近づいてくる。サキは手早くシーツを繋ぎ合せ始めた。


「ここは六階だけど、二階にバルコニーがありますし、下はパオイラご自慢の庭園です。薔薇の上に飛び降りちゃ駄目ですよ。滅茶苦茶痛いです。とにかく足さえ無事なら走れますから、下まで辿りついたら闇に紛れて逃げてください」


 さらりと言うサキは、まさか飛び降りた経験があるのだろうか。

 普段なら些末事と見過ごせない疑問を口に出す余裕は、今のライラにはなかった。


「サキは!? なんで私が一人になること前提で話を進めてるの!」


 巨大なトランクを縛り付けてよろめく背を支え、既に髪を結んだサキは、寝巻きのまま自分のトランクを持ち上げた。


「ごめんなさい、ライラさん。私はもう兄さんを失えないんです」

「サキ!」

「それに……きっとこうすべきです。下薬三師!」


 鋭い声に思わずライラの背筋が伸びる。


「サキ・イクスティリア中薬二師よりライラ・ラハラテラ下薬三師へ伝令! 只今より本地を放棄、東部にある救施場へ合流。後の指示は救施場纏め役、ハリス・ヴァリーヌ上薬一師に仰ぎなさい。以上、復唱!」

「ライラ・ラハラテラ下薬三師、サキ・イクスティリア中薬二師より伝令を了解!  本地を放棄後、救施場に合流後、ハリス・ヴァリーヌ上薬一師の指示を仰ぎ行動!」


 胸の前で両手を組むのは薬術師独特の礼。反射で復唱後、これまた反射で敬礼してしまって歯噛みする。乗せられた感が否めない。

 悔しげなライラに、サキは乗せられた満足感で満面の笑顔だ。


「幸いこの城は外壁に無駄で無意味な装飾が多いですから、足場ならたくさんあります。シーツを手足に絡めて、え? 何でやり方知ってるか? そりゃよくやったからですよぉ……兄さんには言わないで下さい。至極真面目に淡々と、一年以上は嘆かれます」


 恐る恐る、十五年生きてやった事も無い難題に踏み出す。手摺を跨いだだけで心許ない気分になる。下は見ない。絶対、極力、努力目標として、下は見ない。しばらくは全神経を集中させて、無駄な装飾に手を足をかけて慎重におりていく。

 随分離れてしまってから、そろりと窓を見上げる。そこでようやくサキは動きを見せた。


「戻ってこられないとこまで見送らないと、ライラさん戻ってきそうですもん。根性で」

「それだけが取り柄ですってぎゃあああ!」


 叫んだ拍子に、渾身の力で握りしめていた手が滑って一気に下がった。頑張れーと呑気な声を最後に、サキの姿は見えなくなっていた。




 城中で上がる喧噪の中、死が直接見えないことが救いだった。汗で滑る手を更に絡めて、慎重に下っていく。トランクが重くて勝手に滑り落ちてを繰り返し、やっとの思いで下階のバルコニーに飛び乗った時は、熱さとは別の嫌な汗と、息の荒さを越えて聞こえる心臓の音で吐きそうだった。


「……怖くて吐きそうだ」


 今更ながら申し上げます、中薬二師。下薬三師は高所が恐怖症です。

 薔薇の方がマシだ! 妙な方向に向かった勇気を胸に、寝巻きの裾を持ち上げて手摺を乗り越えた。目を閉じて飛び降り、閉じているが為に気づかなかった突起に思う存分引っかかる。足を置き去りに空中でつんのめり、勢いつけてバルコニーの側面に顔面をぶつけた。無駄に装飾が多い!

 空とは別の星を回しつつ、背の低い木でワンクッション置いて、地面とキスをした。熱烈すぎる。

 打ち付けた顔面を押さえつつ、痛みに身もだえする。地面にうつぶせのまま足首を回し、捻っていないことに安堵した。




「……ライラ?」


 名前を呼ばれて顔だけ上げると、ぱたりと鼻血が落ちた。凄く嫌そうな顔をした綺麗な人は、歪めても綺麗なままだ。歪められた事実がショックではある。


「…………もしかしなくとも、その血は、鼻血か?」


 べしゃりと伸ばした右手の下に美しい装飾品があった。真珠のように白いひし形の宝玉を、煌びやかな宝石と銀細工が彩っている。湾曲な側面を赤が伝い落ちていく様を見て、ライラは焦った。


「あ……やだ、汚しちゃった!? ごめん、レイル! 大事な物だった!?」


 慌てて寝巻きの裾で拭き取ろうとして、もう一つ指紋がついた血の跡に気づいた。よく見るとレイルは血塗れだ。酷い怪我をしているのか。鼻血で血の匂いに鈍感になって痛い自分を罵り、ライラは慌てて手を伸ばした。


「レイル! 治療、治療するからしゃがんで! こんなに血が!」


 蒼白になって伸ばした手を、ひどく複雑な表情でレイルが掴んで、しゃがんだ。


「……鼻血で妖人を支配した奴は初めてだぞ」

「………………ん?」

「いい、ほとんど返り血だ」


 ライラの細い腕を引っぱって立たせた美しい妖人は、肩を震わせて俯いた。


「……何がそんなに楽しいの?」


 背後で何かが崩れる音がした。燃え尽きた柱が崩れたのかもしれない。ああ、私とサキさんの親友が愛した柱が。そんな軽口を受け止めてくれる人はいない。見えもしないのに、柱が燃え崩れる様子がやけにゆっくり脳内で浮かぶ。

 レイルは顔を上げた。吊り上げた口角は、あの時のように柔らかく緩んではいなかった。



「四年ぶりに檻から出た。楽しくないわけがないだろう?」



 嬉しいとは、言わないのね。

 くつくつと笑う声を聞きながら見上げた夜空は、憎たらしいくらい星が綺麗だった。けれど地上から舞い上がった煙で、やがてその姿は隠れてしまった。







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