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16.誰が為の薬恋歌





 残された腕を凶器と変えたジェイの手がライラの胸を貫くのと、身を翻したレイルがジェイを抑え込んだのはほぼ同時だった。


「ライラさんっ!」


 頽れた身体を金切声を上げて掻き抱いたサキは、躊躇いもなくライラの胸元を剥いで息を呑む。経験を積んだ薬術師でなくとも分かる大穴は、明らかに心の臓を傷つけていた。

 溢れだす血を止める術は幾通りにも浮かぶのに、命を留める術がない。時間が足りない。薬術師が足りない。血を止めきる前にライラの命が尽きてしまう。


「ライラ、さん」


 それが誰より分かる、分かってしまうサキは、血塗れの両手で自分の顔をぐしゃりと覆った。






 怒りのままに牙を剥き出し、今にもジェイの首筋に喰らいつこうとしたレイルを、ガイアスがしがみつくように制止する。


「待て! 殺すな、頼む!」

「離せっ……!」

「頼む! すまん! すまん、頼むっ……!」


 戦闘も厭わない意思が篭った制止に、ここでやりあう時間も惜しいと舌打ちをし、少年の身体を地面に叩きつけてライラの傍に膝をつく。

 口端から血泡を吹き、見る見る命を流していく少女の身体は既に事切れようとしていた。





「ジェイ、お前何でっ!」


 乱暴に掴みあげた肩は薄く、熱い。鉄の臭いを体中に纏わせ、熱に浮かされ虚ろとなった目に宿るのは、最早憎悪ですらなかった。


「嫌だ」

「ジェイ!」


 失われた腕で空を示し、その腕から膿を撒き散らす。蛆が湧き、いつまでも癒えない傷口に恨み全てを籠めて世界を呪う。


「おれは、人間を、許したくなんて、ない」


 憎悪しか知らない子どもは、憎むことしか分からない世界で生まれ、そうして生きた。今更世界が裏返ることをどうして許せよう。誰一人として子どもに許すことを教えなかった世で、子どもに許しなどどうして請えよう。

 その先にあるのが妖人の未来だとしても、今のジェイには早すぎたのだとガイアスは痛感した。ジェイのガイアスに対する慕いさえ、憎悪の上に成り立っている。愛情より先に憎悪を刻まれた子どもの基盤は、全てが憎悪なのだ。

 思わず抱きしめた腕の中で、子どもは譫言のように虚ろな声で怨嗟を撒き散らす。


「嫌だ。許したくない。嫌だ。殺す。人間は殺す。人間など滅びてしまえ。世界中の不幸をその身に纏い、苦しんで苦しんで、生まれてきたことを絶望しながら死んでいけ。数多の妖人を、そうして殺したように! 贖え! 罪を贖え! 贖われず終わるなんて許さない!」


 その為には罪を犯すことも厭わない。否、これが罪であることすら認識できない。

 その憎悪が焼くのが己が身だとしても、子どもは憎悪しか知らないのだ。


 子どもの身体を掻き抱いたガイアスは、己の唇を噛みきる。

 最初から、ガイアスの進む道に正しさなどなかった。罪のない少女を犠牲にする行為は正しさなどではありえない。しかし、数多の他者が正しいと示す道は、妖人にとっての正しさを含まないのだ。

 万に一つ、奇跡のように全てが順当にいったとする。正当な手続きを取り、正当に薬術師の派遣が認められたとしよう。

 しかしそれは、今死んでいく妖人にとっての正しさを含まない。

 妖人が選べる道に、万人の正しさが入る余地は最早残されていなかった。結局、誰を基準にした正しさを選ぶか、それだけだ。

 だが、ガイアスはその先に懸けた。妖人を纏める自分が選べる道は妖人にとっての正しさしか残されておらず、この選択は人間にとっての悪だと分かっていながら、今を選んだ。ガイアスがこの道以外を選べば、暁は崩壊していただろう。

 世界にとっての正しさを選び、今死にゆく妖人を見殺しにするか。世界にとっての悪と断じられながら、かろうじてでも今を生き延び、『パオイラの正しさ』ではなく『世界の正しさ』で妖人が生き延びる道を祈るか。

 薬術師が浚われれば騒動になる。その結果、薬術師が死ねば妖人は悪だ。妖人の背景を知った上で自分達を只の悪だと断じるのであれば、どう足掻いても妖人が生き残る術はない。現状維持でさえ、妖人は滅ぶしかないのだ。

 もしも、現在妖人が立たされている現状と背景を連合が知り、判断してくれるなら。

 これから生まれる妖人達は、虐げられずに生きていけるかもしれない。

 かもしれない。もしも。そんな不確定要素に縋るしか、妖人が生き延びる術はないのだ。正しさに意味を見出せる段階などとうに過ぎている。ガイアスが出来ることなどたかが知れているのだ。

 このままでは死に絶えるしかない妖人という種族を生き永らえさせる。その為ならば何だってする。騒動の責任を取れというのならば死のう。責任の在り処は此処だ。この首で数多の妖人が救われるなら、生きながら焼かれることも厭わない。

 出国することもできず、声を上げる術すらない妖人には、世界を敵に回すほどの悪が必要だった。悪事を世界への声にするしか術がない。

 それでも、懸けた。この先があればと。

 薬術師は希望に応えた。応えてくれた。卑劣な行いをした妖人に対し、薬術師であることを違えず心を砕いてくれた。これは奇跡だ。

 だが。


「嫌だ、殺す。親父、お願い、お願いだから」


 救われない。救われることすら知らない子どもを置き去りにして、進む道は許されるのか。

 何を選んでも正しくなどない。どの道を選んでも誰かが救われない。何かが零れ落ちる。それが子どもである残酷を、必ず存在する犠牲と許容していいのだろうか。


「人間に、罰を!」


 それでも選ばなければ進めないこの世界で、ガイアスに出来ることは本当にちっぽけだ。

 尽きかける生命の炎で憎悪を燃やす子どもを抱きしめる以外、彼に出来ることは何もなかった。






 幼子の前で、大人達が怖い顔で怖い声を上げている。

 ただ、彼女から見れば大人でも、世界から見ればまだ子どもの『大人』は、縋りつくように真っ赤になったライラにしがみついていた。



「ヒース、ねえ、ヒース」


 エミリは一所懸命その裾を引くのに、彼は成すがまま揺さぶられるだけだ。へたりと座り込み、そこに世界の全てがあるかのように沢山の人間に囲まれたライラを見ている。


「どうして?」


 ぽつりと零れた問いに、反応はない。それにも気づかず、エミリは続けた。


「わるいのはぜんぶにんげんで、ようじんはわるくないってみんないうのに、どうしておにいちゃんはライラにいじわるしたの? ねえ、ライラはいじわるなんにもしてないのに、どうして?」


 泣き叫ぶサキやサルダートの怒声の中で、幼い少女の声はやけに淡々としている。


「どうして? だれがいけないの? だれがごめんなさいしなくちゃいけないの? だれがだれにごめんなさいしたらいいの?」

「エミリ…………」

「どうしたら、おしまいねってできるの?」

「エミリっ!」


 エミリは、それに気づいて動きを止める。不思議そうに首を傾げ、俯いたヒースの頭を抱きしめ、小さな手で頭を撫でる。


「ヒース? どこかいたいの?」

「分からない……」


 抱きしめられても抱き返すことをせず、ヒースの傷だらけの掌は地面に爪を立て、土を抉っていく。


「分からないっ……!」


 絞り出すように感情を吐露し、それきり言葉を発さなくなったヒースを、エミリは困ったまま抱きしめ続けた。おねえちゃんがそうしてくれたように、ライラがそうしてくれたように。エミリが嬉しかったことを、ヒースにしてあげる。


「ねえ、ヒース。かなしいの?」


 抱きしめた胸元が濡れていっても、エミリはずっとそうしていた。





 真っ赤に塗り潰された光景は、サキの思考まで真っ赤に染める。ぐるぐると知識と感情が走り抜けていく。ここに薬術師が二人いればなんとかなったかもしれない。二人とも倒れるくらいの力が必要だが、それでも全員救える。だが、いるのはサキだけだ。誰の手も借りられない。そして、サキ一人の力では限界がある。


 ふらりと伸びた手がライラに触れた瞬間、サキの髪は突風を受けたように舞い上がった。その光景に全員が息を呑む。淡い光と不自然に靡く髪と裾は、どこか現実離れした感覚を彼らに与える。

 しかし、純粋に驚いた妖人と違い、キオスの面子は息を詰めた。


「サキ!」


 イヅナは、普段からすれば信じられないほど乱暴な口調でサキを呼んだ。術中でさえなければ、乱暴であろうが無理やり腕を引き、二人を引き離しただろう。術を扱っている最中の薬術師に触れてはならない。他者と交わって癒しを行使する薬術師に第三者が介入すれば、最悪の場合術者が発狂する。

 俯いたサキの表情は窺えない。


「待て、待ってくれ……」

「ごめん、兄さん」


 緩慢な動作でサキは頭を上げる。そこにあったのは、ただまっすぐな瞳だ。揺るぎなど知らないようにまっすぐで強い。その瞳をレイルは知っていた。そして、後に続く言葉も。


「私は、薬術師だから」


 爆発的な光が膨れ上がる。ただの治癒術にしては規模がおかしい。溢れだす力は、サキの生命そのものだ。

 死者は蘇らない。そこから先は神の領域である。

 だが、命が潰えていないのなら、そこはまだ薬術師の領分だ。


 命を尊び、癒術を行使する薬術師が、瀕死の相手を前にしても使用を制限された術がある。使えるのは一度きりの秘術だ。どんな癒術も薬も間に合わない瀕死の相手を癒せる最後の手段。

 懸ける対価は術者の命だ。

 癒す術を躊躇わないのが薬術師だが、この秘術だけは使われないことが前提とされていた。

 使うのはたった一度。薬術師の、生涯ただ一度きりの我儘だ。これから先、癒せるはずだった数多の人を切り捨てて、死なせたくない誰かの為に我儘に、我が侭に生きる、たった一度きりの秘術。

 薬術師の死は尊ばれる。けれど、この秘術で死んだ薬術師はキオス以外の人間からは蔑まれた。救いを待つ数多の人間より、個人的な私情で一人しか救わなかった薬術師として。

 しかし、キオスの誰一人としてそれを責める人間はいない。世界の為に、人の為に、命の為に、その生涯を捧げた薬術師のただ一度の我儘を、どうして責められよう。


「ごめん、ごめんね兄さん。でも、私がライラさんから貰ったものは、この秘術でさえ返しきれない…………私はいま、薬術師でよかったと、心から思うの。この人を救う術を持っている自分を、とても、誇らしく思う」


 既に決断を終えている妹に、イヅナは大きく深呼吸した。そして、ふわりと笑う。優しく、甘く、世界中の何よりも愛おしいと彼女に伝える、いつもの兄の笑顔にサキは安堵した。


「…………分かった」

「ありがとう、兄さん」

「だが」


 サキとライラに触れないよう、すぐ傍に腰を下ろしたイヅナは、すらりとその剣を抜く。


「お前が死ねば、俺も死ぬ」

「兄さん!」


 術者の怒りに呼応するように光に赤が混じる。憎悪に近い怒りを爆発させたサキは、叩きつけるような怒りを兄に向けた。


「薬術師の前で命を投げ棄てるつもり!? よりにもよって私の兄さんが、命を粗末に扱うの!?」


 イヅナは静かに首を振る。


「違う、サキ。投げ棄てるつもりは毛頭ない」

「だったら!」


 優しい笑顔に、サキはぐっと言葉を飲んだ。幼い頃からこの笑顔を見てきた。どんな時でも、見上げればこの笑顔がサキを見ていた。あの日、失うまでは。

 優しい笑顔は変わらない。サキが我儘を言って困らせても、悪戯をして困らせても、危ないことをして怒らせても、最後には必ずこうやって笑ってくれた。

 今はこの笑顔が悲しくつらい。


「お前を抱いて夜の森を走った時から……いや、孤児院でお前と出会った時から、俺はお前を生きる意味にした。お前の傍で生きることが俺の生まれた意味だと…………サキ、ごめん。俺はお前がいない世界に、意味を見いだせない」

「兄さん、駄目だったら!」

「そうだ、駄目な兄でごめんな、サキ」


 どれだけ叫んでも、兄の笑顔は変わらない。サキでは変えられない。兄はいつだってサキの我儘を聞いてくれたけれど、サキの事になると何も譲らない。


「私に、殺せって言うの!? 私に、薬術師である私に、妹である私に、貴方を殺せって!?」

「違う。俺がお前についていくだけだ。俺は、一人で生きられない情けない兄だから」


 掌の間からライラの命が溢れ落ちる。鼓動は振動にもならないほど弱い。

 逡巡する時間はないと分かっているのに、サキは動けない。選べない。ライラもイヅナも選べない。どちらも失えない、失いたくない。

 薬術師としてならば簡単に判断ができる。一人より二人が生き残る道を選ぶべきだ。けれど。


「……ごめん、サキ。薬術師であるお前を否定しない。だけど、俺にとってのお前は何より愛しい、可愛い妹で……生きていてほしい、家族なんだよ」


 サキには、どちらかなんて選べなかった。







 優しい人間が泣いている。

 誰かを害すためでなく、救うために泣いている。誰かのために泣いている。

 優しい人間が、妖人の所為で泣いている。


 項垂れるサキの隣に、レイルは膝をついた。

 夜の闇のように広がっていく黒は、ライラの命だ。濃厚な血の匂いに吐き気がする。鉄錆びのようなとよく表現されるが、これは血だ。紛れもなく血で、それ以外には成り得ない。

 ライラは呼吸すら侭ならない。ひゅうひゅう掠れた呼気が漏れ出ているだけだ。

 傷は心の臓と肺を傷つけている。どう足掻いても助からないと一目で分かった。だったら楽にしてやるのが、レイルに出来る唯一だ。生からの解放が唯一の救いとなる。

 レイルはそうやって妖人を救ってきた。死を懇願する妖人に止めを刺し、楽にする。礼を言った彼らは、初めて訪れた自由と平穏に嬉しそうに笑って死んでいった。闘技場で、通りすがりで、無意味に続く苦痛に終焉を齎すこと、それだけがレイルがしてやれるただ一つのことだった。


「やめて……レイル、お願い、やめてっ……」


 苦しくて堪らない。そんな声を絞り出すサキだけが、この場でライラの命を背負っている。大人が、屈強な体格をした男が、これだけ雁首揃えているというのに、今にも折れそうな薄い身体の少女だけが命に責任を負う。誰も変わってやれない。彼女が薬術師である限り、命は彼女の領分となる。

 誰にも縋れず、逃げだす先もなく。また、そんな自分を許せない。唇を噛み切り、自らの身体に爪を立て、一人で負い続ける。ライラもそうだったのだろうと、想像に難くない。

 薬術師には、その先がないのだ。だから、薬術師が、この場ではサキがどうにもできなければ終わる。 

 薬術師には次がない。最後の砦であり、命の要となる。薬術師がすくい切れなければ終わる。命が終わる。村の診療所から町の診療所へ、町の診療所から王都の病院へ。医師から薬術師へ。ここが命の最後の砦。

 薬術師が懸命に命を削っても、零れ落ちていく命がある。最後の砦がすくい切れなかった命を、サキもライラも負ってきたのだ。




 人体の急所とも呼べる首に両手をかける。余りの細さにこちらが痛みを感じた。細く、華奢で、熱く、弱い。こんな物、片手どころか指を回しただけで圧し折れる。両手で捩じ切ったことだってある。簡単だ。呼吸をするより簡単に、ライラを楽にしてやれる。

 だが、出来るのか。

 俺に、ライラが絶てるのか。

 掌で包み込んだ場所で、小さな小さな鼓動が溶け合う。レイルの鼓動と、ライラの鼓動が静かに溶け合っていく。


 生きている。


 きっとすぐに死ぬ。助からない。なのに、死んだほうが楽でも、ライラは生きている。小さな小さな鼓動が止まるまで、ライラは生きているのだ。

 合わさった鼓動の上に、ぱたりと雫が落ちる。

 殺せない。

 今迄何の感情もなく淡々としてきたことが、出来ない。

 血塗れの身体を掻き抱く。何もできない。救うことも、終わらせることも。レイルには何もできない。癒してやれないのなら終わらせてやるしかないのに、それすらもしてやれない。

 泣きながら、事切れる間際の身体を抱きしめるしかできない。なんて無力。なんて無意味な力だ。他者を害すしか能のない力を持つ自分より、優しいライラが生き延びるべきだ。なのに、術がない。ライラの為にしてやれることが、レイルには何もない。

 白狼と呼ばれ、恐れられたレイルはいま、何よりも無力だった。






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