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15.小さなあなたの薬恋歌



 ガーゼに遮られていない瞼にふわりとした感触が落ちる。それが彼の唇だと気づいて、くすぐったいやら恥ずかしいやら。何とも言えず居心地が悪いのに、彼の腕の中は温かくて優しいので居心地がいい。

 いいのか悪いのか、結局はどっちなんだ? と考えていると、かくんと落下した間隔に小さく悲鳴を上げる。同時に膜が破れたように意識が浮上した。

 冷たい風は夜風で、落下は馬車から降りた衝撃だ。自分を抱き上げる腕は細いのに硬く、しっかりして揺るがないのに優しい。


「…………え?」


 呆然と声を上げれば、美しい金紫が至近距離におりてきて思わず仰け反る。


「え」

「帰るぞ」

「え?」

「お前が帰らないと、サキが、うるさい」

「サキをご存じで」

「俺の親友だそうだ」

「何がどうなっていつの間にそんなことに」


 これは夢じゃなかった? 夢じゃなかったのなら、自分は今、何を言った……?

 頭から冷水をかぶったみたいに全身が冷えていく。青褪める音すら聞こえる。


「やり直しで!」

「却下」

「そこをなんとか!」


 言いたくて、けれど言ってはならぬと戒めた言葉を、まさか夢と間違えてぺろりと暴露する羽目になるとは。しかも遠慮なく泣いてしまった。泣き落としは反則だ。まあ、枯れ枝の泣き落とし如きに揺らぐ彼ではないだろうが。


「駄目よ、残る」

「駄目だ」

「自分で決めたの!」

「俺もだ」


 ぐぅの音も出ない。貴方は自由よと言い続けてきたのは自分なのだ。


「大体貴方、どうやってここに!?」


 自分という存在を連れてくる前から、この地の警備は厳重だった。人間に気付かれぬよう、獣の気配すら乱さぬよう気を使って、巧妙に巧妙に隠されてきたのだ。

 ライラは問いながら気が付いた。いつもは静まり返っているはずの周囲が騒がしい。


 なんとか腕から逃れようともがく身体を深く抱き直し、レイルは何でもなさそうに言った。


「お前の仲間が持っていた分もかき集め、例の土人形を砕いて周囲に撒いてきた。俺もろくに鼻が利かない上に、見も知らないハマオウの気配に意識が奪われる。なんの説明もなくこの臭いに襲われた奴らは堪ったものじゃないはずだ。泡を喰ったように警戒心露わに飛び出していった」


 道理で周りに人がいない。

 大々的に火を焚くことができないここはいつでも暗いけれど、妖人達に不便はないらしく、ライラからすれば暗闇としか見えない場所を初めて訪れたはずのレイルまで平然と歩いていく。慌てて身を捩ったから、抱えられている掌の場所が変わった。酷く打ち付けた背から激痛が走り、思わず噛み殺した悲鳴はしっかり聞きとられたらしい。

 恐る恐る顔をあげて、後悔した。恐ろしいまでに無表情だ。何かしらの表情があったほうがまだよかった。


「ご、ごめ」

「自分の責でもないものを謝る意味が分からない」


 一刀両断された。


「お前の決意書は無効だそうだ。状況から鑑みるに受理できないというのが、あのチビの決定だ。当然お前の身柄は回収。お前がここで騒いで奴らに気付かれれば全面戦争も辞さないそうだ」

「ぐ、ぐぅ」


 畳み掛けられた。今度はぐぅの音は出たけれど、ぐぅの音しか出ない。

 ここにいるのは、自分で決めた、自分の意思だ。けれど、国外での全権を託されたサルダートが無効と決定づけたのなら覆されはしない。覆すにもここにいてはできない。このままでは薬術師略奪として妖人達が責を負うことになる。最悪全面戦争となり、妖人は種の存続も危うい。世界連合に刃を向けるとはそういうことだ。



 何か言わなければと思うのに、もう頭が回らない。熱を持った傷口が熱い。熱い、痛い。

 悲しい。


『嘘つき!』

『偽善者!』

『お前は誰も救えない!』


 幼い少年の声が響く。


『お前なんかが誰かを救えると思うな!』


 遠い過去、そうやってライラを断じた少年の声は、未だ霞むことなく鮮明だ。

 分かっている。自分は小さな小さな人間で、誰かを本当の意味で助けるなど出来ない。傷や病を癒すことは出来ても、人間としての価値などない。誰かの心を癒したり、慰めたり出来ない。その場限りで有効な言葉しか出てこない安っぽい人間なのだ。彼らが本当の意味で立ち直るのは、もっと優しく素敵な人がくれた言動と、彼ら自身の強さだ。



 何かが切れたのが自分でも分かった。なのに止められない。熱い、痛い、悲しい、苦しい。惨めで情けなくて、悔しくて、つらい。

 でも、泣きたくない。自分で決めたのだ。こうなることが分かっていて自分で決めた。理不尽に迫害された彼らを癒すと決めた。憎まれても傷つけられても、癒して死ぬと決めたのだ。


 けれど、本当は分かっている。ライラがどれだけの速さで命を削ろうと、ここにいる妖人全てなど救えやしない。一人だって、本当の意味で救えやしないのだ。薬術師が出来るのは身体を癒す術だけ。薬術師は、傷だけ癒していなくなる。怪我や病の原因となった背景には一切関与しないし、出来ない。してはならないのだ。

 救って。救って。救って。

 たくさんの声は薬術師に縋るのに、ライラは誰も救えない。誰一人、救えやしないのだ。



 どんなに困窮した事態であろうが、誰かの人生を害していいはずがない。たとえ、自分達がどれだけ同じことをされたとしても、それを他者に強要した時点でガイアス達も同罪だ。罪が罪を呼び、倫理を犯し合う。奴隷制度そのものをどうにかしない限り、何一つ現状を打破することは出来ない。


 そしてあの時、もしもレイルと共に逃げられたのなら、ライラはここにいなかった。

 



 どんなに堪えようとしても、自分を裏切った涙が止まらない。憐れまれたいわけじゃない。許しを請いたいわけでも、許されるとも思わない。優しさだって、いらないのに。

 包み込む腕はとても優しい。その気になれば岩だって砕けるのに、固く温かい腕でライラを抱きしめ、身体全部を使って抱きしめてくれる。まるで彼が世界のように錯覚する。夜風など当たらない。全て彼の身体が防いでしまう。

 遠い昔こうして守られたことがあった。何も知らなかった頃、まだ、何一つとして背負わず、知らず、世界が自分のものだったあの頃、優しい両親の手は確かにライラを包んでいた。


「はは……お前、子どもみたいだ」


 指摘された言葉に、血の気の失せた青い頬に朱が昇る。どうしたらいいか分からなくなって泣きだすなんて幼子と同じだ。羞恥のまま暴れて腕から逃れようにも、何が楽しいのかくすくす笑ったまま、更に深く抱きこまれた。


「も、もう、なに、だって、私っ――……なんなの!?」


 これでは癇癪を起した子どもだ。そうと分かっていても語彙力は回復の兆しを見せないし、しゃくりあげて泣きじゃくっていては回復したとしてもまともな会話は望めない。


「ライラ」


 酷く優しい声が降る。こんな顔を見られたくなくて、必死になって涙を拭っていると、濡れたガーゼ越しに優しい口づけも落とされる。ずるい。

 袖で顔を半分以上隠しながら視線を上げて、すぐにそんなことも忘れてしまった。

 何て顔をしているのだ。

 幸せな夢を見ていた子どものような、何かを慈しむような、そんな自分を恥じるような少し困った柔らかい瞳が、まっすぐにライラを見ている。


「お前、子どもみたいだ」

「あ、貴方こそ、なんて、顔して……」

「俺より、お前のほうが子どもだろ。年下だしな」

「ぐっ!」


 ぐぅの音でやり込められたライラに再び苦笑が降り、額に口づけが降る。


「帰ろう、ライラ。お前の国に」

「え……?」


 これはやはり夢だろうか。自分に都合のいい、優しいだけの。


「穏やかなお前の故郷に、俺を連れて行ってくれるんだろう?」


 夢だ。だってこんな、自分にだけ優しい選択があるはずがない。夢だ。だって、そうじゃなければ、許されない。でも、ああ、でも。この手を取りたい。柔らかく笑うこの人を選びたい。レイルと一緒にいたい。





「ライラ、どっか、いっちゃうの?」


 抱きしめる腕が瞬時に強張ったのが分かった。弾かれるように振り向いたレイルの肩越しに小さな影が二つ見える。手を繋いで現れたのは最近よく遊びに来る二人だ。

 殺気のない相手とはいえ、子ども相手にこんな距離まで接近に気付かなかったのは、レイルの鼻も効かないからだ。


「ヒース……エミリ……」


 二人の名を呼んでも反応がない。侵入者の存在に声を荒げると思われたヒースまでも、呆然と突っ立っていた。

 立ち尽くす二人に幼子の声が響く。


「あのね、あのね。みんなたいへんって、おねんねしてるひと、みんなおきてって。いつでもにげれるようにって。でもね、みんな、ライラにいじわるするから、おきてっておしえてくれないかもしれないっておもったの。でもねでもね、ひとりだとあぶないって、ひとりでどっかいっちゃいけないって。だから、いっしょにきてくれたの」


 一所懸命手を引かれても、ヒースは動かない。エミリはヒースからの説明を諦め、きょとんと大きく丸い目を向けた。


「ライラ、ねえ、ライラ。どこいくの? エミリをおいていっちゃうの?」


 小さな掌がいっぱいに開いて伸ばされる。ぐしゃりと顔が歪み、満月のような瞳からぽろぽろと大粒の雫が零れ落ちた。


「おいてかないで。どっかいっちゃ、やだぁ」


 勝算も打算すらない、ただただ純粋な願望はライラを貫いた。

 この手を置いていけるのか? この手を尊いと心の底から思った私が?

 短い間でも、出来ることがあるならと決めたのは自分だ。役立たずでも、何もできずとも、痛くとも苦しくとも、悲しくとも恋しくとも。

 笑っていると、決めたのだ。


 双方から伸ばされた少女達の手を、二つの手が握りしめた。




 ライラの手をレイルが、エミリの手をヒースが、遮るように握りしめる。少年はそのまま、ぽかんとしている小さな身体を抱き上げて背を向けた。


「…………行けよ」


 肩越しに小さな両手が必死に伸ばされている。世界で一番純粋な願いがライラを責めるが、少年はさっきのレイルのように、その身体で少女を隠してしまった。胸を刺す悲痛な泣き声だけが届く。


「駄目だ、エミリ……あいつと俺達は違う。俺達は妖人で、あいつは、人間だ」

「やだぁ! ライラ、いっちゃやだぁ! おいてかないで! ライラがいないと、ライラはエミリとおはなししてくれない! ライラがいないと、ライラがあたまなでてくれない! ライラがいないと、おねえちゃんのおてて、またいたくなる! ライラがいないと、ライラがだっこしてくれない! ライラがいないと、エミリはやだ! さみしいの、もうやだぁ! やだ、ライラ! ライラぁ!」

「駄目だ!」


 少女が痛みに呻くほど、少年は彼女を強く抱きしめて膝をついた。


「駄目なんだ……」

「やだぁ!」

「ここにいたらライラは死ぬ。妖人が……俺達が殺すんだ。でも、駄目だ。それをしちゃ、駄目なんだ。何でか分かんないけどっ……! ずっと、ずっと、人間を殺すって思ってて、俺は、今も、そう思ってる! 間違いなく人間は憎悪の対象なんだ! けどっ、それをしたら駄目だって思うんだよ! 俺達が人間になっちゃうような、そんな気がするんだ。なんか……もう、止まれない気がする。それが何か、俺には分かんないけど、ライラを殺しちゃ駄目なんだ。ライラは、俺達の所為で、死んじゃいけない」


 一言一言、言葉を探すように、確かめるように紡ぎながら、俯いて震えた少年は一度ぐっと唇を噛んで顔を上げた。


「行け。あんたはここにいちゃいけない。あんたは死ぬし、俺達は戻れなくなる。どっちにとっても、駄目だって、思うから」

「ヒース……でも、貴方だって熱が」

「俺は!」


 続けようとした言葉は飲んだ息の奥に消えた。まっすぐな瞳は恐ろしいほど美しく、強い。なのに、ああ、泣きだしそうだ。


「人間が嫌いだし、憎い! 人間など苦しみぬいて死ねばいいと思ってる! 人間なんて滅びてしまえばいい!」

「ヒース……」


 小さな身体を憎悪に膨らませる子どもに、かけられる言葉がない。ましてライラは加害者側だ。世界中に奴隷がいると知っていて、何もせずに生きる『人間』の一人だ。

 しかし、憎悪は急激に萎んでいく。身の内には確かに燻る炎が見えるのに、子どもは今にも泣きだしそうな顔をする。


「けど、俺は、あんたが妖人じゃなくてよかったって、思うから」


 だから踏みとどまれる。これから先も、踏み込んではならない何かを踏み抜き、堕ちていかずにいられる。

 ヒースにとってそれはきっと、とても大事なことだった。






 泣きじゃくるエミリを抱いたまま駆け出そうとした足がぴたりと止まった。それより少し前に気付いていたレイルは、ライラを下ろして庇うように位置を変える。

 暗闇から炎が現れる。己さえ焦がす炎を身に纏い、燃えるような赤は毛を逆立てた手負いの獣を彷彿とさせた。


「…………やってくれたな、白狼。何を引き連れてきたかと思えば、そこいらのチンピラかと思ったよ」

「キオスのガキをかどわかしやがったてめぇらに言われたかねぇよ」


 苦笑交じりに頬についた泥を拭ったガイアスの左方から現れたのは、見慣れた面々だ。一際小柄な影が暗闇から躍り出て、間合いなど物ともせずに目の前に降り立った。


「サキ!? イヅナさんも…………サ、ルダート陣頭、お、お久しぶりでふ……」


 小柄な割に大きな手で頬を掴まれて、ライラの顔は珍妙になった。


「おい、ガキ。家出するなら先に一言いっとけって、言っといたよな? 俺は言ったよな? ああ? 言ったよな?」

「言いまひた…………」

「ああ!?」

「仰いました!」

「後で説教覚悟しとけクソガキ!」

「ぎゃあああああああああ!」


 嘗てない恐怖に襲われたのは仕方がない。サルダートに睨まれれば、野生の熊さえ腹を見せて降伏するといわれるのだ。ハマオウは流石に降伏はしなかったが、素手で殴り合いはしたらしい。どうしてそんな状況になったかは深く考えたくない。


「彼女を連れて行かれると非常に困る。君達は、俺達の状況を不憫と思ってはくれないのか?」

「あ? 不憫対決なら薬術師だって負けはしねぇよ。そういう理屈で、散々っぱらあてにされ続ける人生なんざ、てめぇらには理解できねぇだろうよ。俺だってできねぇし、したくもねぇ。大事なのはそこじゃねぇ。いいか? 俺の仕事はそいつらクソガキを無事にキオスに連れ帰ることだ。てめぇらの事情なんざ知ったこっちゃねぇ。だがな」


 すらりと背から抜かれたのは、小さな身体には不釣り合いな大刀だ。重く響く重低音を響かせ、石ごと貫き地面に突きたてられる。その重さに振り回されることもなく片手で扱う様こそ、彼が鬼と呼ばれる由縁だ。それだけではないのも確かではある。


「うちのクソガキを誑かそうってんなら話は別だ。分かってんのか? 俺はキオスの軍人だ。キオスは断じて薬術師への害悪を許さない。てめぇも大人なら、禿げてもガキ共にクソハゲって言われねぇような大人になっときたいもんだろ」

「そういうお前は、ガキの時分には堂々と罵ってたタイプじゃないのか?」

「あ? ガキの頃に身近にいた奴なんざ、クソハゲかクソデブの二択だな」

「…………いつか自分に返ってくると分かっているんだか」


 にたり。

 肩を竦められての言葉に、サルダートはそう表現するのが適切な笑みを浮かべた。


「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」


 ガイアスは顔面から表情を消し、己の刃をすらりと抜いた。

 剣士は、相手が獲物を抜いた一目で互いの間合いを測るという。しかし、ここには剣士など存在しない。例えるならば獣の喰らい合いに近い。

 緊迫した雰囲気の中、イヅナは自然な動作でサキを前に押し出した。過保護も裸足で逃げだすほどサキを守る彼が、緊張感漂う場で己より前に彼女を押し出すなどあり得ない行動の理由は簡単だ。サキ達より後方で、鈍色に光る刃を構えた集団が見える。妖人達がこの場を囲んでいるのだ。背側の多勢の敵勢に曝すより、前方が安全だとイヅナは判断した。


 地面に擦り合わせたガイアスの足が一歩間合いを詰める中、サルダートは鼻を鳴らした。怪訝な顔を見せたのも束の間、ガイアスは目を見開いた。相手の反応で気づいたと察したのだろう。再びにたりと笑ったサルダートと、動揺した妖人の声は同時だった。

 周囲を取り囲む妖人達の背後で、大仰なほど枝が折れる音が響く。ここにいるぞと誇示する気配は十や百ではない。


「キオスは薬術師を決して見捨てない。たとえ最後の一人になろうが、そこに薬術師がいる限り追い続ける。その結果、お前達を滅ぼそうとだ。てめぇはキオスを舐めてんのか? 世界中が黄金より欲した薬術師を護り続けるってのがどういうことか、本当に考えなかったってか、くそが。キオスは、世界のために命を削り続ける薬術師を道具にさせないためにできた国だぞ。その国民であり軍人である俺らが、薬術師の人生を諦めるわけねぇだろうが!」


 一斉にその姿を現したキオス軍が剣を構える音と、弓を引き絞るきりりとした音が響く。




「ライラさん!」


 一触即発の空気を切り裂いたのは、悲痛なサキの声だった。

 斜面を落ちるように滑るサキの腰を抱き、軽々飛び降りたイヅナが目の前に降り立つのを呆然と見つめる。転がる勢いのまま手を伸ばしてきたサキは、忙しなくライラの身体に触れ、寸の間目を閉じる。

 ふわりと不自然な風が髪と裾を押し上げ、淡い光を纏った二人の少女の行動は対照的だった。みるみる吊り上りきつく睨み付ける瞳と、ふいーっと余所を向いた瞳。


「後でお説教です、ライラさん!」

「お説教二人目予約入りましたぁ!」

「だったら! 怪我、しないで下さいよぉ……」


 ぽつりと悲しげに落ちた言葉に、申し訳ないと返すしかライラにはできなかった。

 ぐしゅりと鼻を鳴らしたサキは、恨みがましげにライラを一睨みし、話は後ですと自分の頬をばちんと叩いて顔を上げる。瞳は、きりりと弓を引き絞る音に似た視線でガイアスを射抜いた。


「サキ・イクスティリアと申します。貴方が妖人を纏めていらっしゃる、という認識で宜しいでしょうか」

「ああ」

「時間がありませんので端的に申し上げます。今から二十分以内に治療を要する全ての妖人を馬車に乗せてください。救施場にお連れします」


 ざわついた妖人を代表してガイアスが口を開こうとしたのを遮り、サキは続ける。


「信じないのでしたら結構。私達はライラさんを救出に来ただけです。ライラさんの身柄を確保した今、そのまま救施場に取って返します。キオス兵三百はその為の護衛ですが、基本的に他国は薬術師の護衛兵に攻撃をする権利がありません。キオスは他国の事情に関わりません。ここに私、サキ・イクスティリア中薬二師、ライラ・ラハラテラ下薬三師、ハリス・ヴァリーヌ上薬一師、合計三枚の薬術師の旗が揃っています。ご存じでいらっしゃるかは存じませんが、薬術師の旗を三枚掲げた集団を止める権利を有するのは、その国の王しかありえない。そして私は新王から自由にとの許可を頂いています。これらを踏まえた上でどうなさるのか、どうぞご決断を」


 薬術師の少女は背筋を伸ばし、淡々と言葉を連ねた。そこに感情は見られない。殺気が渦巻く中心にいながら脅えはなく、傍目にも慕っていると分かる少女を害したガイアス達への怒りすら。


「二十分。それ以上は待てません」


 少女はまっすぐにガイアスを見ている。

 迂闊に相手を刺激できずに黙り込む同胞達の目が語っていた。

 罠だ。人間など信用できない。人間風情が。人間の語る言葉など。

 憎い。人間が憎い。人間など殺してやる。人間のくせに。

 死ね!

 ぎらぎらと唸る視線を一身に受けたガイアスは、静かに目を閉じた。


『ガイアス』


 耳の奥に蘇る声に苦笑する。もう二度と聞くことのできない声は、いつだって彼の背を押すのだ。

 瞳を開き、乾いた唇を気づかせないよう大きく頭を下げた。


「感謝する――……」


 同胞達が絶望に似た呻きを上げたが、それは一瞬の事だ。

 彼らだって己の矛盾に気づいている。そもそも自分達が此処にいるのは、薬術師を頼って救施場を目指しての事なのだから。そして、薬術師が人間であると痛いほど分かっている。薬術師が人間であるからこそ、妖人はライラを害したのだ。


 ぐるりと見回しても、どの感情を浮かべればいいのか自分達でも御しきれない同胞達がそこにはいる。背負うのは、決断する自分だ。


「そもそもが賭けだった。ほんの僅かな奇跡に賭けて俺らはここにいるんだろ。てめぇら、腹括れ! てめぇらは俺に命を預けた。だったら、俺と一緒に腹括れ!」




 鶴の一声だ。

 サキはそう思った。

 殺意と憎悪と憤怒と戸惑いと逡巡。それらがぐるぐる渦巻く空気を、この男は一声で纏めてしまった。妖人達は全てを飲み込み走り出した。それだけの信を得ている男はサキの言葉を信じた。

 いや、違う。男が信じたのはライラだ。決して揺るがず一人で傷つき続けたライラを信じたのだ。憎悪も確執も蟠る自信の感情さえ押しのけて、妖人を率いる男はライラを信じた。それは凄いなんて言葉では表せない。

 その当人は、一連の状況に緊迫しきった息を吐き切り、はたと己の現状に気付いて騒いでいる。


「下ろして!?」

「却下」

「却下!?」

「却下」

「なんで!?」

「逆に聞くが、どうして却下されないと思った?」

「逆の逆に聞くけど、どうして却下されないと思うと思ったの!?」


 ライラが子どものようにきゃんきゃん騒ぐ。それを耳元で受けながら子どものように笑うレイル。

 サキは目を細めて二人を見ていた。周りでは天地がひっくり返ったような大騒動で人々が行きかっているというのに、彼女の意識には入らない。


「サキ、隊長が呼んでいる」

「うん」

「嬉しそうだな」

「うん」


 あのね兄さん。喧噪の中、特別張り上げた訳でもない妹の声をイヅナはあっさりと拾い上げた。


「私ね、ライラさんとレイルが一緒にいるのを見るの、凄く好きなの」

「そうか」

「うん」


 よかったなと頭を撫でる兄の手に目を閉じる。

 今が夢のようだった。夢のように全てが帰ってきたから、幸せが恐ろしい。恐ろしくても幸せで堪らない。此処にあるから失うのだ。手放す事を受け入れることができなかった結果、再び失う恐怖を得た。

 しかし、サキはそれを望み、選んだ。


 開いた視線の中で、ようやく腕の中から解放されたライラが地面にへたり込んでいる。不思議そうに覗き込んだ小さな少女と、立ち位置を気にして困ったように周囲を見回している少年と顔を合わせ、へらりと笑う。

 ガイアスがレイルを呼び、彼が身体の向きを変えた。




 ぽたり


 小さな小さな音だったのに、誰の耳にもそれは届いた。

 ぽたり、ぽたりと、指先から赤い液体が落ちていく。


「ライラ……?」


 小さな小さなエミリの声に、ライラは確かに微笑んだ。

 エミリはほっとした。いつもと変わらぬ笑顔に安堵したと同時にライラの身体は頽れる。



 薄い身体を背中から貫き、胸から生えたジェイの腕を、エミリは不思議そうに見つめた。






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