14.独りよがりの薬恋歌
あっと思ったときには地面に膝をついていた。身体だけでなく、臓器の機能まで重い。呼吸すら煩わしい。他者を廻って癒す術は、術者には負担でしかない。
トオンに差し出された手に礼を言ったとき、くんっと背を引かれた。
「おねえちゃん、にんげんなんでしょ?」
幼い子どもらしく髪を揃えた少女が服を引いていた。少し、驚いた。少女の眼には疑問だけが浮かび、見慣れた憎悪は見つけられない。
「どうしてにんげんなのにいたいことしないの? どうしてこわくないの? にんげんは、こわくて、いたいんじゃないの? おねえちゃん、そういったよ。おねえちゃんは、なんでもしっててすごいの。エミリはね、おねえちゃんがここにいなさいっていうから、ずぅっとこやのなかにいたのよ。ずぅっと、ずぅっとよ。おねえちゃんがでちゃだめっていうから」
警戒心など欠片もなく、てこてこと歩いてくる。妖人は『愛玩用』以外は痩せている。少女も同じで、幼子らしいぷくりとした様子はない。
「おねえちゃんいってた。ぜったいににんげんにみつかっちゃだめよって。こわいよ、いたいよって。あかいおじさんがくるまで、ずぅっとよ」
かさついた掌が嬉しそうにライラの裾を握った。
「おようふく、きれいね」
「ありがとう。貴女も可愛いね」
しゃがんでお礼を言うと、少女はきょとりとして、嬉しそうに笑った。こんな無邪気な笑顔を見たのはいつぶりだろうか。なんて、尊い。
思わず緩んだ涙腺は、子どもの金切り声で何とか留まった。
「エミリに何してるんだ! 離れろ人間!」
駆け込んできた数人の子ども達に無理矢理引っぱられ、エミリは痛いと悲鳴を上げた。
「人間には近づくなって何度言えば分かるんだよ! 人間は残忍で醜悪なだけなんだぞ! お前の姉ちゃんだって、酷い目にあったじゃないか!」
「だって」
「お前のために言ってるんだぞ! お前、何も知らないから! ジェイ兄ちゃんの手を切ったのも人間なんだからな!」
エミリは不満そうに頬を膨らませていた。少年が凄い剣幕で怒鳴りつけているうちに、きょとりと首を傾げる。
「おねえちゃんがおにいちゃんのてをきったの?」
「ちがうけど、同じ人間が!」
「おねえちゃんはなにしたの?」
きょとり、きょとり。大きな瞳が子ども達に問いかける。
困らせるつもりでも怒りでもなく、純粋な問いだ。
「エミリのおねえちゃんね、おねえちゃんがおててでいたくないようにしてくれたのよ。あっちのおじさんも、おばさんも、いたくないっていうのよ。なのに、どうしてみんなおこるの? おねえちゃん、なにしたの?」
一番年上の少年が、歯軋りに近い音を立てて呻いた。
「人間だからだっ……!」
「おねえちゃん、いいことしてるんじゃないの?」
「人間が父さんを殺したんだ! 火で、生きたまま、あいつら笑ってた!」
「おねえちゃんがしたの?」
「人間だ!」
「おねえちゃんはなにしたの?」
不思議そうに傾げられた一番年下の問いに、少年達は少しずつ口ごもった。
「おねえちゃんはなんにもわるいことしてないのに、どうしてみんなおこるの?」
「それは、人間、だから」
「にんげんだったら、こわいことされるの?」
「人間が今までしてきた罰だ!」
納得出来ないエミリは難しい顔で考えた。そして、自分の中で納得いく答えを見つけ、ぱっと笑う。
「じゃあ、おねえちゃんはようじんに、ようじんだからこわいことしていいのね!」
少年は慌ててエミリの肩を掴んだ。
「そんなことしていいわけないだろ!」
「どおして? だって、おねえちゃんがにんげんだからいたいことしていいなら、おねえちゃんだってそうでしょ? えっと、いままでしてきたばつだなんでしょ?」
殴られたように顔を歪めた子ども達の中で、エミリだけは首を傾げている。
どうして、どうして?
誰もエミリを納得させられない。人間だから。その一言で誰もが納得してきたのに、その一言だからエミリは分からない。幼いエミリは、一生懸命考えた。
「そうしたらいっしょじゃないの?」
エミリには、どうして皆がそんな顔をするのか、全く分からなかった。
「ありがとう、エミリ。でも、もういいの」
これ以上は子ども達にむごい。ライラはエミリを抱きしめた。痩せて骨が浮き出た温かい身体。ああ、なんて尊い。この命が守れるなら、薬術師として本望だ。
「貴女は凄いね。一括りじゃなくて、個々を見れるんだから。あのね、怖い人いっぱいいるよ。でもね、怖くない人もいるの。痛くする酷い人も、優しくて温かい人もいる。全部同じじゃない。エミリ達だってそうでしょう? 怒りんぼの人も、楽しい人も、おしゃべり苦手な人も、お絵かき上手な人も、かけっこ苦手な人も、皆違うでしょ? 人間も一緒よ。人間は妖人に酷いこといっぱいした。でもね、おねえちゃんは絶対しない」
「どうして? おねえちゃんはにんげんじゃないの?」
薬草の匂いに抱かれたエミリは、森でお昼寝してるみたいに心地よかった。
「人間だけど、怖くない人でいたいと思ってる。貴方達にとって、怖くない人間になれたら嬉しい。仲良くしてね。私はライラ・ラハラテラっていうの」
「らがいっぱいね。おうたみたい。エミリね、おうたすきよ」
「本当ね。お歌みたいね」
額を付けて笑うと、くすぐったそうに微笑む幼子が愛おしい。
子ども達は驚愕と怒りに目を向いた。人間は酷く醜いものだ。そうでなければならない。それしか見てこなかった子ども達には、それが真実だ。
エミリは知らない。だからただただ疑問を口に出せる。思ったことを、遮る感情もなく。
「ライラはさみしくないの?」
「え?」
小さな手が、一所懸命身振り手振りで伝えようとしていた。
「エミリはね、おねえちゃんをまってたとき、ずぅっとさみしかった。なんかいかねんねしたら、おねえちゃんがおいもさんもってきてくれるの。そしたらすごくうれしかった。けど、いなくなっちゃうと、すっごくさみしかった。ライラはだれをまってるの? どうしてひとりだけにんげんなの? どうして」
抱っこから下ろされたエミリはびっくりした。慌てて口調を早くする。
「あのねあのね、エミリね、いっぱいどうしてしちゃうから、おねえちゃんこまるんだって。だからね、あんまりどうしてしないようにしてるの。でも、きょうはちょっとわすれちゃった。ごめんね、ごめんね、ライラ。いっぱいどうしてしたから、ライラこまっちゃったのね」
「おい、エミリ?」
少年は、泣きそうになりながらライラにしがみつくエミリを引き離そうと近寄って、それ以上近付けなくなった。
「困ってなんかないよ。エミリは優しいね」
くしゃりと頭を撫でた手を、幼子は困ったように見上げていた。
「じゃあ、どうしてないてるの?」
ぶたれた痕が絶えない頬には、幾筋もの涙が伝い落ちる。治りかけの傷口が濡れて血が滲む。それを洗い流しても止まらないのに、ライラの瞳は変わらなかった。深い森のように濃い緑は、変わらず柔らかく微笑んでいる。
「どうしてだろうね。もう大きいのに、おかしいね」
笑っていいよと言われたのに、子ども達は戸惑ったまま、結局、誰も、嘲笑することは出来なかった。
自身の悲劇を嘆くのなら、妖人のほうがつらい目にあったと罵ってやれた。けれど彼女の表情はあくまで穏やかだ。止まらない涙だけが感情だった。
「ライラ、さみしいの?」
応えは、なかった。
馬車の中に子どもの声が溢れる。
薬草を弄らない事を約束して、眠る前の時間を子ども達に費やした。
「ライラ、ねえ、これはなぁに?」
薬を煎じながら、エミリが幼い手で示した絵を覗き込む。
「それは海だよ。ちょっと待って、確か海の本が…………」
トランクから引っ張り出されてきたのは写実的に描く事で有名な画集だ。まるで本物が切り取られたように鮮やかな色合いで描かれる本に子ども達はわっと声を上げて群がった。
「ライラのかばん、なんでもはいってるのね」
尊敬の眼差しを向けるエミリを引き離しながら、少年ヒースはむっつりした。
「何でんなもん持ってんだよ」
「ん? ああ、これはねぇ、ここは海が遠いでしょ? だから子ども達に見せてあげようと思って、知り合いの家からかっぱらってきたの。内緒よ?」
腫れて開かない瞳をガーゼで覆ったライラは、残った瞳で器用にウインクしてみせた。
切れた唇でにこにこ笑ってトランクから何冊かの画集を取り出す。眉間に皺を寄せて触るなと怒鳴るヒースの手を握り、全て渡してしまった。
「あげる。皆に見せてあげてね」
びっくりして思わず画集を見下ろす子どもに、またにこりと笑う。
「な、んで、だよ。ば、買収なんかされねぇぞ!」
「だって私にはもう要らないでしょう? 死人が持っていくには勿体ない物だもの。だから、この中で一番年上で、皆を守ってあげてるお兄ちゃんである貴方が預かって。一人占めしようとする子がいたらとめてね。皆で見てね。そうだなぁ、後、トランクに入ってるのは薬草以外だったら何でも持っていっていいよ。あ、でもきっとガイアスとかが没収しちゃうか。死ぬ前に形見分けしとこうかな……」
ガラス細工、ビー玉、飾り箱、木で出来た馬と馬車。玩具は数が少ないけれど、それなりにはあるから、全部あげてしまおう。そうしたら誰もここには来なくなるだろうか。それはそれでいいのかもしれない。
「はい、仲良く遊んでね。エミリにはこれをあげる」
傷と痣だらけの手が取り出したのは、花の刺繍が入った大きめのリボンだ。手招きして呼んだ子どもを抱きかかえ、細い髪を丁寧に梳く。
「私が作ったの。よかったら使ってね。もう一本は、エミリが使ってもいいし、エミリがいいならお姉ちゃんにあげて」
「ほんと? これエミリの?」
「うん、エミリのよ」
「やったあ!」
飛び上がって喜ぶ子どもの体重で馬車が揺れ、慌ててヒースが抱きかかえた。薬草の瓶が派手な音をたてたが、なんとか倒れずに済んだようだ。
きゃっきゃと喜ぶ少女の声は心地いい。しかし、ヒースの心は晴れない。
見たことのない本を貰った。おもちゃだって、物心ついた頃はあれだけ憧れていたのに、それを手にした自分の中は何かが渦巻いて息苦しい。
「でも、ぜーんぶあげちゃったら、ライラどうするの? ライラこまるよ?」
無邪気な子どもの声に、ヒースや他の子ども達は自然と黙り込んだ。じっと自分に集まる視線に気づかないはずもないのに、ライラはにこにこ笑っている。
ライラは指先で引き寄せた深い紫色の服に指を這わせ、眩しそうに目を細めた。
「全部じゃないからいいの」
ヒース達はライラの現状を理解している。傷だけでなく、日に日に危険なほどやつれていく事も。見るからに男物の服を誰かに贈れる自由がある訳ではないことも。
そこに憐みはない。全て人間が自ら齎した業だ。妖人が受けた悲惨さの一欠けらも担ってなどいない。もっとだ。もっと苦しみ、痛み、穢れ堕ちて、その生に何の意味もなさずに死ね。ただただ妖人への贖罪として贄になれ。
今まで散々思い描いた人間への復讐が形になってここにある。けれど。
ざまあみろ。
その一言を、彼はどうしても言えずにいた。
ガイアスがジェイを連れてくると言って数日が経った。あの膿具合では早くしないと手遅れになる。そう判断はしていても、自ら癒術を行使しに行く自由がライラにはなかった。
また始まった夜、気絶するように眠りについていたライラは、外の騒がしさを意識の端で聞いた。
力で薬を作る体力が尽きてきている。ライラは自らの手で薬を煎じ始めた。手間と時間がかかることで睡眠時間を削り、体力が回復することはない。それでも薬を切らすわけにはいかないのだ。
聞こえる音は何重にもなった膜を通したかのようにくぐもり、疲労しきった身体は貪欲に睡眠を欲していた。何かあったら誰かが呼びに来るだろう。必要あれば何人にだって施術する。出来る出来ないではない。するのだ。
だって私は、薬術師だから。
何かが頬に触れた。
起こしに来たのはトオンだろうか。だって、彼とガイアス以外の妖人が、こんなに優しく触れてくるはずがない。ああ、起きなければ。待って、いま起きるから。起きて、癒すから。すぐに癒すから。死なないで、もう少しだけ待って。
貪欲に睡眠を欲する意地汚い瞼を押し開き、ライラは苦笑した。どうやら夢を見ているらしい。
「いい、夢…………」
綺麗な人がそこにいた。漏れ出る月光を背景に、じっとこっちを見下ろしている。
なんて都合のいい、自分にだけ優しい夢。
「そうだな……これはお前の為の夢だ。だから、好きに喋ればいい」
優しい声で紡がれる、優しい夢。
「言いたい事はないか? 誰の都合も考えず、お前だけの言葉で、俺に言いたい事は?」
これは神様からのご褒美だろうか。だったら少しくらい甘えていいだろうか。
張りつめていた何かが勝手に緩んでいく。動かしづらい腕を伸ばせば、優しい夢はその手を繋いでくれた。
「痛い」
「ああ」
「怖い」
「ああ」
「寂しい」
「ああ」
優しいだけの都合のいい夢。なんて優しいご褒美。
これで最後まで頑張れる。最期まで踏ん張れる。
「もっと一緒に、いたかったっ……」
自分でも分かるくらい顔がぐしゃりと歪む。幼い子どものように涙が止まらない。大声で泣く体力もないのに、涙だけが次から次へと溢れ出る。
貴方の自由を願ったのに、本当は、自由になってもここにいてほしかった。
大嫌いな人間の自分となんて我儘にも程がある。言えるはずもない。自由に生きるという彼を引き留める権利なんてどこにもない。だから言わなかった。
けれど、本当は。
「…………俺もだよ」
彼にも、そう思ってほしかった。
誰に定められたわけでなく、強制されたわけでもなく、彼自身にそう思ってほしかったのだ。




