13.たった一人の薬恋歌
大きなトランクの蓋を閉めて立ち上がる。袖を下ろす必要はない。この先も患者は続く。
「とっとと出て行け! 人間が!」
渡したばかりの薬が顔面にかけられた。
「人間が出した物なんて飲むわけないだろ!」
いっそ理不尽だと思えたらよかったのだろうか。
若い男の顔は憎悪で醜く歪み、右足は腐り落ちていた。この憎悪は妥当だ。
閉じたばかりのトランクを開き、片づけたばかりの薬草を浮かべる。淡い光を凝縮させて出来上がった薬を、投げつけられたコップに移す。
「飲んでくださったらすぐに出て行きます。飲んでくださらなければ、ずっといます」
再び浴びせられた薬を滴らせてもライラの表情は変わらない。薬を作り手渡す。苦りきった顔で飲み干し、空のコップを投げつけられるまで、背筋を正したまま微動だにしない。
割れた硝子で目の上が切れても、変わらず微笑んだ。
「また後日参ります。お大事にお過ごしください」
男は既に薄いシーツの中に戻っていたが、深々と礼をしてテントを出た。
「トオンさん、お待たせしました」
長い白髪を一つに纏めた青年が無言で横に並んだ。名はトオン。周りがそう呼んでいるので知った。自分も呼んでいいかと確認したら、特に拒否もなかったのでいいのだと思う。
彼は見張りの名を借りた護衛だ。人間を憎みきった妖人の中に一人でいたら、恐らく初日で殺されていただろう。膿んだ傷口が治らなくても、人間に触れられるくらいならその方がいいと考えている妖人は多い。
背の高いトオンの白髪に、陽光が作り出した陰が多数揺れる。ライラは空を見上げた。見えたのは眩しい太陽でも、青い空でもない。周りを崖が囲み、周囲と幾段か低くなった頭上を木々が覆っていた。
よくこんな場所が出来た物だと自然の神秘に感心する。広い窪地の上には、下ろせなかった馬車が五十台以上ある。目隠しをされて連れてこられた場所に、ライラは絶句した。妖人の数は百や二百では効かない。優に千は越えるだろう。テントに、地面に直接敷かれた敷布に。荷に背を凭せかけ、怪我人と病人が一緒くたに呻いていた。はしゃぐ子どもはほとんどいない。痩せ細り、顔を真っ赤にして魘され、腫れた傷口を押さえて痛い痛いと泣いている。
戦場のほうがマシかもしれない。ライラは初めてそう思った。一年は、無理だろうとも悟った。保たないであろう我が身を嘆く時間すら、そうはなかった。
濡れた顔を拭き、眼の上にガーゼを当てて簡単に処置を終える。どうせこの先も同じだ。命に関ればトオンが止めてくれる。それ以外は、特に関ってはこない。
ライラは薬術師の装束に着替えていた。どうせすぐに汚されてしまうのだが、一目で薬術師と分かる方がいいと判断した。毎日丁寧に洗えば替えの数枚で何とかなる。
治療は思った以上に難航している。手が回らないので、ガイアス達に重傷者を選んでもらわねばならず、実際は順番が変動する事も多々あった。何より患者が治療を拒むと、もうどうしようもない。自らを害した人間が癒すなど信じられない。当たり前だ。敵意を剥き出しに殺しに来る事も少なくない。子どもはライラを見ては脅えて泣き叫ぶ。
「今日は良い天気ですね」
話しかけても返事はない。トオンは無視しているわけではない。見上げれば頷いているのが分かる。彼は、喉を潰されて話せないのだ。他と同じように人間を恨んでいるのかといえばそれだけではないようで、転びそうになった身体を支えてくれさえした。
奇異の視線には慣れている。けれど、剥き出しの憎悪にはどうしても慣れない。ライラは思った以上に自分が弱っていることを気づいていた。食事は吐かないよう両手で抑えて無理に飲み込んでいる。腕が更にみっともなく細まったのは、気のせいではないだろう。
「死ね、人間!」
飛んできた石に両手で頭を庇う。トオンが静かな動作で受け止めた。
投げたのは親を殺された子どもだ。彼自身も顔面に酷い火傷を負っている。
「死ねだなんて、簡単に言うもんじゃない。ガイアスさんが苦心して連れてきてくれたんだから」
初老の女性が子どもの頭を撫でる。若い頃は美しかった面影があるも、窶れ、疲れきっていった。患者の中でも群を抜いて年上だ。この年になるまで生き残れる妖人は少ない。女性は子どもに寝物語を聞かせるような優しい声音で続ける。
「こいつはあたし達に尽くして、尽くして、ゴミ屑になっても償わなけりゃあいけないんだから。あたし達を癒させて、目をくり出し、爪を剥いで、ああ、奴隷印を忘れちゃあ駄目だよ。皆が焼かれた場所、全部に押してやればいい」
女の目はぎょろりと回り、それは楽しそうにくつくつと笑う。子どもは自身の怒りを忘れ、ぎょっと後ずさった。
「あんた、まさか食事を貰ってるんじゃあないだろうねぇ。ちゃあんと餌を貰ってるよねぇ。這い蹲って、ご主人様の足を舐めて、地べたの生ごみを漁ってるよねぇ。ああ、服なんていらないじゃあないか。子を孕んだらお言いよ。楽しみに待ってるから。売り払おうか、暖炉にくべようか、獣に食わせてもいいねぇ。あたしの子の後を全部辿ってもらうからね。知ってるかい、お嬢ちゃん。乳飲み子を失ったらねぇ、お乳がぱんぱんに腫れるんだよ。吸わせる子がいないから腫れて腫れて、服を着てないから垂れ流しでねぇ、汚いって蹴られて、お乳とおんなじくらい身体が腫れるんだよ。目が見えないくらい顔が腫れて、犯されて、また孕むんだよ。さあ、お嬢ちゃん、あんたの子どもはまだかい?」
子どもが脅えた目で走り去っても女は止まらない。子を受け取るように両手を掲げた。
ライラは、表情を変えずに一礼する。
「それまで私は生きてはいないでしょう。急ぎますので失礼致します」
振り向かず歩き出した後も、女の笑い声は纏わりついていた。
愛しい人を返せと叫ばれ、人間であることを蔑まれる。憎まれ、拒絶なんて生易しい言葉では現せない排除の中、ライラは一人でひたすらに癒して回った。
簡素ながらも食事だけはまともな物が出ることを感謝するべきだろう。風呂は近場の川だ。流石にトオンがつかず、入れ替わりの女性が見張りとなる。
髪を掴まれて川に沈められ、殺されるなと何度か思ったが、しぶといもので生きている。手加減をされているのだろう。
「あたしの時は、氷が張った池だった」
ライラより年下の少女は、感情を表さない顔で瞳だけが苛烈に光った。鋭い爪が突き刺さり、堪えた呻き声を嘲笑われる。
「あたしの時は、焼けた火掻き棒だった」
がぼりと水を飲んで視界が霞むと引き上げられる。抵抗は無駄だと分かっていながら反射的に身体が暴れる。女同士でも妖人のほうが圧倒的に力が強い。押さえつけられて水に戻された。
寝床は馬車の中だ。薬草が大量に放り込まれた中に、申し訳程度に広がった薄いシーツの上に倒れこむ。木の感触が直接伝わってやっと、一人になれたと安堵した。
重い身体を引き摺って今日診た患者のカルテを作る。名前は誰も教えてくれないから、特徴で覚えるしかない。全員分の薬を調合して整え、薬草のチェックをする。足りない分をまた補充してもらわなければならない。簡単にメモを取り、今度こそ倒れこんだ。どうせ馬車の前の見張りに頼んでも無駄だ。トオンのように、ガイアスの側近的な位置にいる妖人でないと、薮蛇で痛い目を見る。
薄いシーツ一枚で眠る事は構わない。ここにいる人は皆そんなものだ。寧ろ一人で一台使えているのだから、優遇されていると考えてもいいくらいだ。
瞳が窓を探して苦笑した。あったとしても、そこに腰掛ける人はいないのだ。もう二度と会わないと言っていたではないか。
「レイル……」
それでも、まだ少しは一緒にいられると思っていた。せめて救施場につくまでは、まだ。
綺麗な人だった。外見だけでなく、瞳だけでなく、声だけでなく。存在が美しかった。あれは命そのものだ。憎悪を湛えて笑う姿は恐ろしくも凄絶に美しかった。
なのに、ライラを助け、責めず、無様に泣いた自分を抱きしめてくれた腕はとても優しく、子どものように眠る姿は純粋に愛しかった。
滑って転ぶと、くっと軽く笑って差し出してくれた手を思い出して胸が痛い。締め付けられるように痛むのに、彼の姿を消すことがどうしても出来ないでいる。
いつの間にか寝入ったライラの馬車が揺れた。飛び込んできたのはガイアスで、酷く血の匂いがする。
「悪い、嬢ちゃん。急患だ」
重たい身体を無視して馬車を飛び出した。
またどこからか「救出」されてきた妖人は、年齢が分からなかった。身体中が腫れあがり、生きながら蛆が沸いている。鼻につく異臭は腐った肉からだ。
無言で横に座り、手を翳した。髪と衣服がふわりと揺れて淡く光る。
「……どうだ?」
ライラは静かに首を振った。皆、分かっていたのだろう。痛ましそうに顔を背ける。
「いたい……いたい、いたい」
呻きながら上げられた膿んだ手を、ライラはそっと繋いだ。
「もう大丈夫ですよ。ご安心ください」
「いたい……たすけて、いたい、いたい、おかあさん」
「大丈夫です。もう大丈夫ですから」
片手で薬を作り、繋いだ手から流しいれる。妖人は微笑んだように見えた。
「ああ……ほんとう、だ。いたくない、もういたくない」
「ね? 痛くないでしょう? 少し、眠りましょう。明日にはもっと良くなりますから」
「うれしい、いたくない、いたくない……うれしい…………」
すぅっと何かが消えていく。灯が、尽きたのだ。
動かなくなった身体を、三人がかりでどこかに運んでいった。毎日誰かが死んでいく。今日はこれで六人だ。その度に恨まれるのはライラだった。
「最後のは痛み止めか? すぐに死ぬならいらなかったか……」
「それくらいしか、出来ませんから」
せめて最後くらい、微笑んで死なせてやりたかった。一瞬でも痛みのない状態で微笑めたなら、僅かにでも救われてくれないだろうか。
これは偽善だろう。自分が救われたいだけだと分かっている。それでも何か一つでもできることがここにあるのなら、それを躊躇う理由はない。だってライラは薬術師なのだ。
「人間は惨いな。どうしてあそこまで痛めつける事が出来るんだ」
ガイアスの目は怒りに満ちていたが、ライラに向けた時にそれは消えていた。
「お前には感謝してる。拉致した俺が言うのも何だがな。俺が憎いか?」
ええと即答したいところだが、少し違うなと考え直しす。
『あの時』、ガイアスがライラの耳元で囁いたのは一つの名前だった。その名が何なのか、ライラにはなんとなく予想がついている。
「ラジ」
ぴくりとガイアスの眉が動く。そうして、苦笑したように肩を竦めた。
「これは貴方の本名ですね」
「そうだな」
「何故、私に?」
「渡せるものが他にないからな」
本名は妖人にとって魂石の次に大切なものだ。それをライラに渡した。レイルのように。
「貴方は私が憎いですか?」
「質問に質問で返すのはあまりいい習慣じゃないな」
「無礼は承知ですが、如何せん未熟な若輩者ですので」
男はきょとんとした後、豪快に笑ってライラの頭をぐしゃりと掻き回した。
「それです」
「あ?」
重たい手が乗ったまま、ライラはまっすぐに男を見上げる。
怪訝な顔をしているが、そこには憎悪も嫌悪もない。
「貴方は人間の所業に憤り、同胞を愛し、救いの奔走を厭わない。けれど、他の方々と違い、闇雲に人間を憎んでいるようには見えません。貴方の目には悲哀がある」
ガイアスは面食らって動きを止め、すぐに笑い出した。腹を抱えて笑っても止まらず、目尻に涙まで浮かんでいる。
「あ――、笑った」
ぴたりと笑いは止まり、口元で噛み殺された。
「誰にも言うなよ? ここは、人間への憎悪という感情で成り立ってる。統制の執れてない集団ほど、危険で、面倒な物はない。……お前は妖人の髪が染まる理由を知ってるか?」
「いいえ」
染料で髪を染める事は可能だ。しかし、妖人は妖人であることに誇りがある。人間ではないことに、安堵がある。どれほど虐げられようと、彼らは妖人であることを恥じたり、憎んだりしない。
妖人の特徴である真白い髪を染める理由が、ライラには見つからない。
ガイアスは己の髪を一房つまみ、目を細める。
「これはな、人間に魂石を渡した奴だけだ。妖人の魂石が人間と交わえば、髪はその人間と同じ色に染まる。ただ魂石を握られたのとは訳が違う。命と生を委ねられる相手にだけ渡すんだ。命令なんてなくても、願いを聴いてやりたい奴にな」
夏が近いとはいえ、山の夜風は冷える。風が揺らした松明に照らされて、ただでさえ赤い髪が燃えるように煌々としていた。
「俺が名乗ってる名もあいつがつけた物だ。名前なんざ誰が教えるかって突っぱねた俺に、その日見てきた戯曲の役名と、自分の苗字をつけた。初めて会ったときからおかしな奴だったよ。買って早々に俺に魂石を返し、その上で留まらないかと言ってきた。女の一人暮らしは何かと物騒だとか言ってたわりに、出て行くなら仕方ないとあっさりしたもんだった」
「女の方だったんですか」
「ああ、そういやお前に少し似てるな。がりがりなとこが」
ライラは自分の身体を見下ろした。浮き出た鎖骨だけではなく胸の間にまで骨が見え始めている。大人になれば少しは太れるかと思っていたが、大人になれないのなら、まあ、諦めよう。
「病弱な奴だったけどな、このままこうやって生きるのもいいと本気で思った。人間は屑ばかりじゃないと、初めて知った。思えばあの時が一番、月が綺麗だった」
懐かしむように細められた視界の先に月は見えない。木々に覆われた夜空に、それでも何かが見えたのか、ガイアスは笑っていた。
「……亡くなられたんですか?」
「お、よく分かったな」
憎んだ人間と人生を共にしようと思えるほどの人と出会えた。その彼が一人で妖人を助けて回っているのは、何かおかしい気がしたのだ。
「殺されたよ。元々変人が祟って、村八分みたいになってた奴だったけどな、病気になって、医者が診ちゃあくれなかった。村に一軒しかなかった医者は、村長の意向だとか何とかで、薬すら。あいつは死んだ。魂石はあいつの中にあるまま、消えた。だから俺は永遠に支配されない。支配され虐げられる同胞の為に使うには最適だろう? もう誰も特定は作らない。皆を愛すには丁度良い」
彼が語った話が何年前のことなのか、ライラには分からない。存外穏やかな顔をしているので随分昔なのかもしれない。けれど、きっと、一生抱いていくのだろう。
再度ぐしゃりと髪を乱され、ガイアスはからりと笑った。
「疲れてんのに、おっさんの長話につき合わせて悪かったな。明日こそジェイを説得して連れてくるから、頼むわ」
大きな手は傷だらけだった。指こそ欠けてないものの、肉がこそげたままの箇所もある。
「そうして貴方は、歴史の礎を選ぶのですか」
妖人の解放を成し遂げた者はいない。掲げた者すらいなかった。何かを為す為には代価が必要だ。初めなら余計に代償は大きい。誰からも理解されず、挫折だけの生になるかも知れない。成し遂げられるかも分からぬことのために自らの幸福は置き去りに、同胞の為に全てを懸けることになるだろう。
「他の誰に押し付けたってかわいそうだろ。だが、あんたには付き合ってもらう。人間が犠牲を払わないと誰も納得しない。あんたが死んで初めて、皆の中に何かは芽生える。懺悔なんて高度なもんは無理だろう。けどな、何かは確実に残る。その為に、薬術師で、若い女で、無関係で、優しいあんたの、惨めなまでの無残で残酷な犠牲が必要なんだ。…………恨んでくれて構わんよ」
返事を待たず、ガイアスは背を向ける。
「謝罪はしない。謝罪で許される所業じゃない。……俺は、お前に許される理由なんて欲しくはないからな」
赤髪は振り返らず闇に紛れていく。許される理由を知らせたくないと言いながらも大切な昔話を教えてくれた。あれは多分矛盾なのだろう。憎まれたいならライラに優しくしてはいけない。ライラとまともな会話などしてはいけない。けれどガイアスは話してくれた。人生を変えた大切な出会いを。仲間にも話さず仕舞い込んだ、彼の根本的を彩る過去を。
きっと、ライラが聞いたから。
正しいだけの人などいない。矛盾を抱えない人もいない。矛盾せず生きたいと願っても、実際にそう生きられる人がどれだけいるのだろう。人は理想だけでは生きていけないのだ。
強さだけでも、正しさだけでも駄目なのだ。何も間違わず、何も躊躇わず、何も揺るがず生きていける人なんて、本当にいるのだろうか。
赤髪が闇に溶けるまで見送って、ようやくライラは動き出した。桶で手を洗い、馬車によじ登る。
どっと押し寄せる疲労に吐き気を堪えた。身体が重く、熱っぽい。薬が効いていない。元々薬術師は薬が効きづらいのだ。あれだけ薬草を取り込んで調合しているのだから当然といえば当然だ。
思考はどろりと回るのに、睡魔は訪れない。ライラは寝転んだままトランクを引き寄せ、奥から濃紫の布を取り出した。以前の服は別の人にあげるはずだったから、今度は彼の為だけに作りたかった。
受け取り手を無くした服に丁寧に刺繍を施す。刺繍は飾りで、祈りだ。怪我をしませんように、病を得ませんように。幸福あれ幸福あれ。君に幸降れ。一針に祈りを込め、一針に願いを紡ぐ。
「……健やかにじゃなくて、元気でねって、言えばよかった」
最後の言葉が薬術師としてみたいだった事が、ずっと蟠りになってつらい。何かもっと言いたいことがあったのに、言葉を組み立て切れない内に別れは訪れてしまった。
嗚咽が漏れそうになって、服を押し付けて誤魔化した。自分で決めたことだ。なのに未練ばかりが募って窒息しそうだ。
もっと貴方と。
自分の感情だけ叫んだって何にもならないのに。




