八話
「うわ。お、王子、終わったなら声かけてよ。そんな観察してないで」
慌てて体を起こしたアキヒに、笑いの収まらない王子はまあまあ、と手で伝えて来た。
「いま終わったところだよ。あと、王子じゃないよ、アキヒももういちご姫じゃないでしょう。ミルヒ、ね」
「は、はあ」
去年までは、バイト以外でゆっくり話をする機会もなく、もちろんこんな訂正を受けたのは初めてで、アキヒは少し目を泳がせた。ミルク王子と巷で呼ばれることがあるのは確かだが、本人にそう呼びかける人はいないだろう。つい口から出てしまったが、どうやらいちごの国の肩書きで呼びかけたと解釈してくれたらしい。
ユカワが、まるですぐそこで伺っていたかのようなタイミングで、お茶を持って来て王子にサーブする。
そっとカップを手にして、湯気を透かし見る格好でしばし動きを止めた王子に、違和感を持った。
「やっぱり、疲れてる?」
「ん? ああ、朝からだったからね。アキヒも疲れたよね」
「や、そうじゃなくて」
やっぱりついつい即座に訂正しようとして、ふと言い淀んだ。あのことを、話題にして良いのだろうか、と。
王子はそれにああ、と穏やかに頷いた。
「エイジアのことだね。ご明察。あれはね、かなり体に負担がかかる。普通に食べるだけなら、特に負の影響はないのだけどね」
「そんなんで仕事してたの?」
「どうしても、置いておけないものだけだよ。大丈夫。心配してくれてありがとう」
爽やか王子スマイルが、確かに少し威力が低い。
アキヒはソファでふんぞり返っていた自分が暢気すぎたと、いまさらながらそわそわして来た。
「あの、ごはんとかいいんで、さくっと用事を終わらせてもらって帰るよ。おう……ミルヒも寝た方がいいと思うし」
王子は微笑みのまま、返事をしない。
それは、情報漏洩を警戒してアキヒを戻すつもりがないと示しているのか。それともよけいなお世話だと思っているのか。なんとなく、後者な気がしてアキヒはため息をついた。早く寝なさいと言われた子供のようだと思う。
どことなく弟を見るような目になったアキヒをどうとったか、王子は白金の髪をくしゃっとかきあげた。
「明日は公務が少ないから、もう少し休めるよ。客たちの歓迎パーティだって、最低限の出席で済ませたしね。それに、アキヒの話を聞かないと、警護責任者も調査を進められないそうだ」
「あー、えっと、シオンさん、怒ってたかな?」
「怒る? どうして? それは、心当たりがあるってこと?」
思わずアキヒは鼻を押さえた。チーズ臭!
そんなアキヒを、王子も遠慮なく奇妙なものを見るように眺める。
「なんだかその動作、傷付くな」
傷つくと言いながら口元は笑っているので信憑性に欠ける。欠けるが一応、アキヒはこほんと口元に手を当てて咳をして、ごまかした。
そこに、シオンの来訪が告げられた。
シオンのいでたちは、会場で見たままだった。パーティに参加していたはずなのにパーティ仕様ではないのは、あくまで今回は警護側としての参加ということだろう。さすがに崩れなくきっちりと着こなした軍礼服が、やや疲れた美しい面立ちと合わさると、なんだかいけないものを見ている気分になると、初めて知った。
シオンはお茶を断り、食事に行こうと腰かける間もなく促した。
「腹が減った」
まるでそこらの学部生のようにぼやくくせに、慌ててブーツを履いたアキヒに手を差し伸べてきて、エスコートしたりする。
「準備はできたそうだから、部屋を移ろうか」
王子の言い方からすると、食事はどうやら都政宮内でとるらしい。
この三人で外出しないで済むことに、アキヒは安堵の息をついた。どんなにセキュリティのよい、政府御用達の店だって、店内に入るまでに誰かに映像を取られて、即公開されそうだ。恐ろしすぎる。
案内されたのは二重ドアで守られた小部屋で、丸テーブルには出来たての湯気をあげる大皿料理と酒、デザートがすでに用意されていた。
アキヒの椅子はシオンが引き、給仕は入れずに、重い音を立てて王子がドアを閉めた。
「まあ、話は少しお腹を満たしてからにしようか」
王子がニコリとして、美しい泡を乗せたビールジョッキを手に、お疲れ様、と音頭を取った。
そのあとは、しばし無言で食事に熱中した。
美味しい。暖かい。満腹。心地よい酔い。普段なら柔らかな睡魔に負けて包まれるところだが、今日は体が快くリラックスすれば、それだけ頭が冴え渡るようだった。
緊張してるんだ、とアキヒは自分で分析する。研究発表を翌日に控えている時など、どんなに学会の懇親会で興奮して酒を過ごしても、騒いで夜を寝ないで明かしても、脳だけは平常の二割増しで活動している、そんな時によく似ていた。
回転が良くなった脳は、思考の枠外に置いてあった事柄をも引きずり出して再吟味し始める。それが、思いがけない発想を与えてくれたりもするのだが。
今回、脳裏にひらめいたのは、どろりと重たい暗い赤だった。
「アキヒ?」
ぴたりと動作を止め、みるみる顔を白くさせたアキヒに、王子が声をかけ、シオンが見つめてくる。
アキヒは、そのどちらに謝れば良いのか、どちらにもかと困惑して、酒ではまったく変わらなかった顔色を、次は真っ赤にした。
「あの、警護の邪魔をして、ミルヒを撃たせてしまって、ごめんなさい」
結局、潔く二人共に謝った。治ったとはいえ王子は死にかけたし、警護の不備があればシオンだけではなく赤の都の大ダメージにもなるだろう。
ところが。
「え、いまさら?」
「お前、それは謝罪しておけと言ったぞ。何をしてたんだ」
王子は心底驚いたように目を丸くしたし、なぜかシオンは王子に苦言を呈した。
「いや、そうだけど、アキヒはいつも通りだったし、その話題には触れないけど十分リラックスできてたみたいだから、もう消化したのかと。……ごめん、アキヒ。謝らないで」
どうやら本当に焦っているらしい。そんな王子は初めて見た。
「アキヒが責任を感じる必要はないんだ。元はと言えば、僕のからかいが度をすぎたのが原因だ。それに、半分は予定通りだったんだよ」
「セクハラもいいところだったな」
「他愛ないじゃれ合いのつもりだったけど、ちょっと調子に乗っちゃったなあ」
「いやあの、セクハラのことは置いといて、ください。なんだか過剰に反応しちゃった気がするし……。それより、予定通りって? ……まさか、撃たれることが?」
心がけて冷静に指摘すると、二人の男は同時に黙って、やがてシオンが一言、そうだ、と答えた。
「それは正確じゃないな、シオン」
「どこがだ。自分を囮に使うと言いだしたのはお前だろう。たとえ撃たれるつもりがなかったにせよ、最悪の場合を想定すればそのくらい覚悟していたことだろうに」
「マゾじゃない。安全確保に手を尽くしているつもりで、最後の最後にいちごの誘惑に負けてちょっとね。自業自得」
「お前がその性質でいつか身を滅ぼすだろうことは否定しない。だが、こちらも囮について最終的に了承したのだから、怪我についてはこちらの責任だ。まさか、最後のひとりがあそこまで肉薄しているとは……そういう意味では、結果的には救われた。我々は、君に礼を言うべきだ。
助かった。ありがとう」
「ありがとう、アキヒ。緊張の場面で、悪戯してごめん」
世界的な有力者でもある若者たちが、つむじを見せて頭を下げてくる。
アキヒは喉が詰まったように、返答ができなかった。王子の軽卒と言って良い囮作戦への呆れとか、自分の咎を二人がまるで気に止めていないことへの安堵とか、それで本当に良いのかというもやっとした疑問……。分類ができない澱のような感情が渦巻いて、さっきまでクリアだと思っていた頭の中が大混乱だ。
それでも二人はアキヒが何か言うまでは動かない、とばかりに頭を下げたままなので、アキヒはとりあえず、目の前にあった丸いグラスをぐいっと呷った。
オーク調の天井を背景に灯りが透けて、自分の髪の色のような深い緋色の液体が煌めいた。一瞬後、火を飲み込んだように口と喉が焼けて、噎せ返るほどの芳醇な香りが舌と口腔内を官能的に蹂躙して、甘く鼻から抜けていった。
「美味しい!」
感嘆の声に二人が訝しげに顔を上げて、あ、とシオンがグラスを見つけた。
「ブランデーだ。注いだばかりだったはずだが……一気に飲んだのか? 大丈夫か」
「大好き。大丈夫。でも、特に美味しい!」
シオンが席を立って、壁際のワゴンから氷水を注いで渡してくれたのを受け取って、かわりにお代わりを頼むと、渋い顔をされた。
「今度は味わって飲むから、ストレートで! ぜひ!」
拝んで、注いでもらう。
なんだか、もう幸せな気分だった。
「シオーン、確信犯? 飲ませてどうしようっていうの」
「俺は食い終わったから、自分で楽しもうとしていただけだ。人聞きの悪い」
「そう? まあ、面白いからいいけど」
雑音が聞こえるけど気にならない。
いや、王子のほくそ笑んだような声を聞いて、チーズが食べたくなった。いやでも、コーヒーチョコかな。いやいや、ここまで美味しいブランデー、やっぱり単体でじっくり飲みたい。
食事は完全に放棄して、両手でグラスを温めながら酒を舐めるアキヒに、男二人は物憂げなため息をついた。
「とろとろな顔してるね」
「無防備だな。もう少し警戒したほうがいい」
「警戒されてない状況もそそるよ」
「お前、だいぶやられてるな」
「そう見える?」
ボソボソと、なんだろう。聞こえない、とアキヒは首をかしげた。
ああ、そういえば、何か謝られて、お礼を言われてたっけ。
「えーっと、私が悪いのは絶対に確かだと思うから、お礼を言ってもらうのもは申し訳ないけど、でも、ドウイタシマシテ?」
なんで疑問系? と突っ込まれた気がするが、瑣末なことなので以降はお酒の香りに集中する。
すると、しばらくの沈黙のあと、王子がはっきりと呆れました、という顔でアキヒを呼んだ。