七話
三話同時更新です。三話目
ふらついた体を、またもシオンに支えてもらうことになった。はっと我に返ったアキヒの視界を、シオンが失礼、と手で塞いだ。
衣擦れと水の音が聞こえて、いつのまにか王子の着替えが用意されていたのだと悟る。ミツバチから得る知覚に映像は含まれない。しばらく、シオンの硬い手のひらを感じたまま、じっと自分の呼吸だけを意識した。
「やれやれ、ここまで汚れると、脱ぐのも苦労するね」
いつも通りの声が聞こえて、そっと顔から温もりが去った。
代わって、アキヒの目元をそっと拭ったのは、冷たくて、すこし柔らかな指先だった。同時に、一度離れた手が、絞った布で素早く、丁寧に、耳を拭ってくれた。
「男のために安心して泣くなんて、惚れられても文句言えないよ?」
いつも通りの発言に、アキヒは大きく息をついて、その息が震えているのに思わず笑ってしまった。
「自分でもびっくりしてるとこ。思ったより、なんというか、いろいろショックだったみたい」
「うん、ごめんね。巻き込んだね。あとでゆっくり話すけど、ひとつだけ秘密はね、エイジアは、食後一時間ほどの間に負った怪我に対して、高い治癒効果を示すんだ。だから、保険で僕もアキヒも、シオンも食べたでしょう?」
「ち、ゆ……? いや、あれはもう、蘇生のレベルじゃ……」
思わず問い質しかけたアキヒは、王子の鉄壁の笑顔に抑えられた。
「残りの話は、後でね。まだお客が待ってるよ、いちご姫。……そろそろ、こちらにアキヒを渡そうよ、シオン」
「……アキヒは休まなくていいのか?」
「シオーン、それって、僕にはないわけ?」
掛け合いのようなやり取りにぽかんとしていると、支えられていた二の腕を優しく揺すられた。背中には温かな人の体がある。気がつくと、触れられているところが発火したように熱くなって、アキヒはシオンから飛び退いた。
「わわ、ごめんなさい。いつまでも」
結果、今度は王子に肩を捕まえられて、くるりと華麗に向きを変え、アーチ門へとエスコートされた。
「ここではもう、おもてなしはできないからね。踊り場まで降りるよ。シオン、残り時間もよろしく。……そんな物欲しそうな顔するなよ」
「鏡を見た方がいいな、ミルヒ」
背後で何か言っている。
でも、もうアキヒにはそれを聞きとがめる気力もなかった。
その後は淡々と王子への籠渡しという脇役に徹して、閉会のスピーチも台本どおり。とにかくバイトの責任だけは果たして、ようやく通用路に王子とともに引っ込んだ、その後、なんだか記憶が怪しい。
気がつけば、高い天井を見上げていた。
自室ではもちろんなく、見慣れた研究室の仮眠部屋でもない。あれっ、と我ながら暢気に呟いて状況把握につとめる。
アキヒは、座り心地のいいソファに浅く腰掛けて手足を伸ばし、背もたれ部分に後ろ首を預けて、最高にリラックスした状態だった。
髪は片側で簡単に結んだだけ。服装もチュニックにジーンズで、いつものカジュアルスタイルだ。ダウンジャケットとブーツは脱いで、傍らに置いてある。靴下だけの足先は、柔らかな絨毯がそっと受け止めてくれている。
顔の感じからして、化粧もバイト用ではなくて、いつも通り最低限になっているようだ。
きっと、バイトが終わって、控え室で着替えて化粧を落とし、自前の服とメイクに戻ったのだ。それから、だ。それから、どうしたんだか、いまいちわからない。
わからないが、たぶん、とアキヒは見当をつけて、そっと体を起こした。
天井は濃い茶色だったが、壁は淡く、絨毯は臙脂色。部屋の調度品はすべて落ち着いたマホガニーで、柔らかな明かりにしっとりと照らされている。
大きな窓の外はもう日は暮れていて、濃い藍色。そこに都市の灯が見えないのは、この部屋がかなりの高層階に位置するからだろう。
部屋の主役は、アキヒが座るソファを含めた応接セットではなく、その奥に鎮座する、大きなデスクだ。普通に並べば四五人は仕事ができるだろう巨大なデスクで、いつもはかけていない眼鏡にモニター光を移しこんで、やっぱりな王子が作業をしていた。ということは、ここは都政宮の上層階、補佐官執務室というところか。
起き出したのを把握していたのだろう、こちらにちらりと視線を投げて、作業を続けながら、ちょっと待ってね、と軽く声をかけて来る。
「もうすぐシオンもこちらに来るし、僕も一段落つく。お腹空いてるよね。食事も一緒に手配してるから、今は軽くつまんでて」
王子が言い終わると、かすかな音がして、振り返ると誰かが出て行った後の部屋の扉が閉まるところだった。
まったく気づかなかったが、ほかにも人がいたらしい。爆睡の様を見られていたのかと焦って、口元を拭った。
「面白いね、驚いて。いちごの国の千里眼はうつし世では失われるってことかな」
ふふっと爽やかに笑うのに、目はモニターから離れない。ものすごい早さで書類を読み進めているのが目の動きでわかる。軽い会話がなければ、あの王子と同一人物だと言われても疑ったかもしれない。
程なくノックがあり、なぜか苦笑した王子が許可すると、柔らかな物腰の男性が、アキヒの前に小ぶりのサンドイッチと紅茶をサーブしてくれた。
思わずこちらの背筋が伸びるような見事な所作で、どうぞと勧められて、思わず立ち上がって ありがとうございますと腰を折った。
「職員はもう残っておりませんから、どうぞお気を楽に。私も席を外しますが……ミルヒ、ドアは少し開けておくからね」
「なんだユカワ。何時もはしないノックをしたり。からかうな、後で呼ぶ」
はい、ときっちりしたお辞儀をして、ユカワさんは出て行った。扉は、宣言通り五センチほど開けてある。王子は仕事に集中したようで、無言になった。
アキヒも、さっきからの深読み可能な会話を頭から追い出して、ありがたくサンドイッチにかぶりついた。いちごがランチだったので、お腹はとても空いていたのだ。
紅茶も堪能した。アキヒ好みの、濃い味だ。渋い、にぎりぎり届かないくらいをストレートで飲むのが定番。もしかして、把握されているのかな、とちらりとかすめたが、気にしないことにする。
自然と、柔らかな深い息が洩れた。
ふと時間を確認しようと部屋を見回しても時計がないので、持っていたはずのトートを探したが、見当たらなかった。
「ああ、申し訳ない。アキヒがほとんど意識がなかったので、バッグを丸ごとセキュリティロッカーに預けてある。要り用ならユカワに届けさせるよ」
「そっか……時間を見ようかと思っただけだから、大丈夫。あ、でもそれって中身チェック受けた? 研究用のデータとかあったんだけど」
「中は触っていないし、触らせてない。セキュリティチェックにも、基本的には持ち主の同意を取るからね」
「わかった。あとでいいよ」
というわけで、手ぶらで時間を潰すことになった。再びソファにだらけて座ることにする。部屋を歩き回ったりするよりは、邪魔にならないだろう。
ぼんやりと過ごすのは得意だ。頭を空っぽにしたらヒラメキもやって来るし、好きな音楽を繰り返し聴くように研究データを漫然と思い返していると、複雑だった事象の絡みがふとするすると理解できることもある。
そんないつもの習慣で、昼間の実験のことばかり思い浮かべていた。今回の実験は、基礎研究段階のものとしては空前の規模になった。蜂媒体の用意だけで、どれだけの時間がかかったことか。半分は趣味に走ってしまったが、想定以上の結果が出たので、金食い虫と教授に揶揄されることも減るだろう。
ただ、許可取得の経緯が裏技のようになっているので、万全のレポートと引き換えに、教授に協力要請をしないといけない。今度は面倒くさいと文句をたくさん言われるかもしれない。
(ああ、でも!)
実験中のイレギュラーな事態に関連した数字をどう取り除けばいいだろう。へたに触ると、恣意的な数値になってしまう。そこらは一度プログレスミーティングでディスカッションした方がいいだろう。
それに、蜂たちが、回収指令を出してもいないのに集合して来たことなど、いままで一度もない。解散の仕組みは、通常の初期配置を一気にやったのかと解釈できるだろうが……。
(ううーん、でも、取得データの中の私の数値は『地点ゼロ』として区別化してるから、その数値をリアルタイムで読み取って行動を変化させることも、プログラム的に適応範囲内、なのかな?)
そのあたり、実を言えばアキヒには興味がない。だが、研究室のメンバーは興奮するだろうと思えば、嬉しくなる。あたらしいプロジェクトの萌芽として育ててもらえるなら、それでいい。いまからミーティングが楽しみで、うきうきする。学外の女友達には、理解をしてもらい難い高揚感だ。残念ながら。
(だけどその分、研究室で盛り上がるし!)
ただ一点、刺客騒ぎの秘匿のために実験データを没収されるかもしれないのが気になった。
その部分だけの没収ならいいのに、と祈ってみる。今日は蜂たちの故障もネットワークの問題も起こらず、おそらくはあと何回実験をしても得られないだろう好条件だった。そもそも、繰り返すが、今日の規模の実験は、軍事実験でもない限り、きっともう二度とできない。
そこまで考えて、やっと思い出した。
イベント終了後は、都政府から会場の現状維持を指示され、蜂たちもすべて通常の受粉補助モードに設定したなりで置き去りにしたのだ。貴重ないちごを置いて帰ることに生産者たちは相当難色を示していたが、天下の空中庭園で気候管理も安全管理も都側で保証され、もともと都からの委託で生産している皆様は、泣く泣く手配された一夜の宿へと移動していた。学生バイトも含め、会場スタッフは皆、慰労会のため、同じホテルにまるごと移送されていた。もともと予約されていた居酒屋から、急遽会場変更だ。
客は皆、予定通り接待パーティに参加しているはずだ。会場は、空中庭園の階下、展望ホール。
そしてアキヒは、ぼんやりしているうちに腕を取られて王子と同じエレベーターに乗せられていた。
それはすべて、今回の事件関係者の隔離目的に他ならない。
気づくのが今になったのは、それだけアキヒも疲弊していたということだろう。なぜ他のバイトと別扱いなのかといえば、現場をもろに目撃し、いらない情報をいろいろ知っているからに違いない。
王子の近くにいるとは、こういうことだ。
早くすっきり終わりにしてしまいたい。バイトも卒業して、研究に専念しようと思っているのに、この騒ぎで主催側にもその意志をまだ伝えられていない。
(厳重だし、データ没収は免れないかな。でももったいないよね! 泣き落としだってするよ! 効くならね……。王子には無理かな。泣き落としより、土下座か? 伝わる??)
頭を抱えて悩みだした。
それを、ぶぶっと笑われて、眼鏡を外した王子が向かいのソファに腰掛けていることにようやく気づいた。