六話
三話同時更新です。二話目
「おおっ、震えてんの? まあ、しょうがないよな。じゃ、いちご姫さま、そこの赤の坊ちゃんの武器を全部持ってこいよ。全部だよ、坊ちゃん。銃はもちろん、ナイフもだ。あんたにつける傷は高いからな。今回は見逃してやんよ」
男のしゃべりは軽いのに、きっと油断はないのだろう。シオンは逆らわず、静かにアキヒを立たせると、鈍色の銃と大振りのナイフを握らせた。
シオンはそれらから手を離し、だがアキヒからは離れずに、渋って見せた。
「彼女をお前に近づけるわけにはいかない。善良な一般民だ。いちご姫に何かあれば、これはテロ行為と見なされる。都市間協定に基づき、追求は苛烈なものになるぞ。武器は、彼女に投げさせろ」
「はーい、ご忠告どーもってか。ほれ、姫さん、はやく持って来いよ。あ、景気付けがいる? これか?」
ひょい、と男は足を動かした。
王子の腕が跳ねて、ぐうっと唸り声をあげて王子が身じろいだ。男が王子の投げ出された手を蹴り飛ばしたのだ。
「次は頭だ。いや、そりゃさすがにすぐ死ぬかな。じゃ、耳でも撃っとくか」
「やめ、やめて」
「ほーらはやくしろよ」
アキヒは一歩、踏み出した。
前に踏み出したのか、横によろめいたのか、わからないくらい視界が回った。青い空と、いちごと、自分の紅い髪と、ふわりと風にふくらむドレスの裾と、倒れた王子が、ぐるぐると回る。
もう一歩。
シオンもさすがに止めない。
手に持った銃とナイフが、酷く重い。
このままでは、重さに負けて、王子のところまで辿り着けない。
アキヒはぐっと唇を噛むと、根性を総動員して顔を上げ、目出し帽の奥の目を睨んだ。薄い、色素の感じられない眼だ。何の感慨も無く、淡々と自分を見ている。人を傷つけて、自分も逃げ場がないのに、なんの痛痒も焦燥も恐怖も感じていない。——いや、鍛え上げた精神力で、感情の揺れを押さえ込んでいるのだ。王子を蹴った直後は、男の心拍数も上がっていたのに、数呼吸で元に戻った。
この男だって、機械ではない。
機械ではないからこそ——怖い。
「よこせ」
一歩一歩近づいた距離は、ほんの三メートルほどだ。
強張った腕から男は銃とナイフをもぎ取ると、銃を懐にしまい、ナイフを鞘から抜き放ってアキヒを抱え込んだ。
くるりと体を返され、背中で腕を拘束される。
反転した視界に、苦い顔のシオンが立ち尽くしていた。驚いている様子はない。予想していたことなのだろう。
「さて。王子サマがこんなんだから、いまやここで一番偉いのは姫さんで、人質としても姫さんが一番ってことだ。——通用路を開けろ。人ひとり路に残すな。空っぽにしろ。出口は全部解錠しとけ。その準備が済んだら、俺の使えない手下どもをここに寄越せ。ひとりずつ、アーチを登らせろ。ひとりずつだ。俺たちが無事に通用路を抜けられたら、姫さんは返してやるよ。
……早くした方がいいんじゃね? ウィトゲンシュタインの治療は、早い方がいいと思うよ?」
アキヒは、自分の息がどんどん早く浅くなっていくのがわかった。
男が要求を追加するたび、心臓が縮んだ。
王子は、視界の下のほうで、ぴくりともしない。血の広がりは、すでに止まっているようだ。だとしたら、出血が多すぎるのだ。早く手当をしなければ。そう焦るのに、男の要求でどんどんそのチャンスが遠くなる。目の前で、王子の命が弱まっていく。
「ま、待つ間、姫さんに遊んでもらうってものいいかも?」
ナイフの柄で、アキヒの髪をぐいっとかきあげ、耳にがぶりと噛み付いてきた。甘噛みだ。だが、耳の軟骨に触れる規則正しく並んだ固い歯の感触がおぞましく、アキヒはナイフのことなど忘れて、悲鳴を上げた。
「おいおい、切れちゃうよー。もう逃げ道は出来そうだからさ、今は静かにしろよ。お客にばれたら、格好わるいよー?」
「やめろ。手配はする。彼女には触るな」
「美味しそうないちごじゃんか。食べないなんてもったいないだろー、俺、いちごは好きなんだよ」
耳の裏から、首までを舐められた。
冷たいナイフが顎のすぐ下に添えられて、今度はただ、震えるしかできなかった。
アキヒの仮想視界が、じじ、とぶれた。
警護員たちに密かな指示が飛ぶ。客を案内するガイドはアーチ門の入り口で留められ、物々しい男たちが緊張する様に、会場ではスタッフが落ち着きをなくし始め、客たちに不審がるものが出てきていた。シオンはさすがに動揺を見せない。呼吸数も体温も、心拍数も正常だ。
王子の脈拍は出血で血圧がさがっているのか増え続け、今や毎分百二十回を超えようとしている。呼吸数は二十四回/分。体温は……。
血が、赤い。
じ、じじじ……。
不穏な気配を漂わせ始めた広大な空中庭園を、何万ものパラメータで感知していた知覚が、端から暗転していった。いちごの森が暗闇に沈み、アーチ門の下で戸惑うスタッフたちも消え、頂上に向かって知覚範囲の輪が縮まる。それにつれ、耳鳴りのような音が響き始めた。
急激な収束に、意識が遠のきそうになる。いや、すでにまともな意識は残っていないのかもしれない。もうきっと、自分は壊れかけている。
(たすけて)
耳の穴に舌をねじ込んでいた男が、異様な音に訝しげに顔を上げた。
「おいおい、妙なことはして……」
そして、絶句した。
ぶぶぶ、という振動音が、山の麓から駆け上ってきた、と思ったときには、目の前に暗闇が凝っていた。
空中庭園中のいちごの受粉を請け負っていた二万匹のミツバチが、ぶつかり合いながら巨大な団子のように固まって、男に向かって猛突進をしたのだ。
男は思わずといったていで、アキヒを脅かしていたナイフで応戦したが、バチチッと何匹か跳ね飛んだだけで効果はなかった。天敵を避ける魚群のように、ナイフをうねりながら回避すると、瞬く間に元に戻る。
蜂たちは男の頭にフルフェイスのヘルメットのように取り付き、幾重にも包囲を固めてしがみつき、ぶるぶると抗議するかのように翅を鳴らした。
鼻から耳から、叫ばんとした口にも、蜂が押し入っていく。
男はさすがに自制を失ったらしい。
ナイフを投げ捨て、蜂を払い落とそうとがむしゃらに頭を掻きむしった。
放り出されたアキヒは、目の前のやけにシンプルな視界の喜劇に、呆然とした。
この蜂たちには、殺傷力はない。尻の先の針もない。穴に深く潜り込む性質もないから、息は苦しいかもしれないが致命的なことにはならない、はずだ。
しかし、そうわかっているはずのアキヒにとっても、正視に耐えない光景だった。
そこに、さっと影が動き、もがく男の首筋を蜂に構いもせずに打ち付けて、男を昏倒せしめた。
シオンだ。
男が昏倒すると、ミツバチは一斉に男から離れた。
だが、どこへ帰ればいいのかわからないのか、ウオンウオンと羽音を響かせて、ひとの顔より少し高いあたりで円を描いている。
男を拘束し終えたシオンは、怪訝な顔をしながらもその中を平然とくぐり抜け、アキヒを抱き起こした。
「怪我は?」
「ない、ないです。私より、おう、ミルヒを……」
今の状況で、シオンがまずアキヒのところに来るのは、嫌な予想をさせる。
もしかして、間に合わなかったのか、と。
アキヒの切実な疑問に答えるように、蜂が数匹、倒れたままの王子の体をスキャンした。
体温、心拍数がやや高い。が、正常の範囲内。汗の量、正常。
筋肉の緊張度、正常。
呼吸量、回数、ともに正常……。
(あ、れ?)
虚をつかれて、頭がリセットされたらしい。長く失念していた何かを思い出した時のように意識がクリアになった。パチリパチリと、パズルのピースのごとく、しかるべき組み合わせでミツバチのもたらす知覚がつながり、再び広がっていく。
同時に役割を思い出したミツバチたちは、一斉に飛び立ち、花火のように四方八方に分かれて会場に散らばって行った。
膨大なデータが脳に直接押し寄せ始め、知覚が環状に拡張する。
客たちにざわめきは残っているものの、会場スタッフはその間を忙しく立ち回ってフォローに励んでいる。
群蜂の集結と解散は、イベント中のデモンストレーションと説明されているようだ。
いちごの国は昼を迎え、さらに賑々しく、香り高く、華やいでいる。
どこにも、救護車のサイレンは聞こえない。
たとえ手遅れとわかっても、必ず手配するはずのものがない。
知覚を必死で探っていたアキヒの、意識の別階層で認識しているリアルな眼前の視界の中で、血塗れの王子が立ち上がった。
痺れを取るようにすこし辛そうに手足をほぐし、肩を回し、口の端を流れた血の跡を親指で拭って、そしてアキヒに気づいて、柔らかに微笑んだ。
「ごめんね、心配かけて」
お腹から膝あたりまでべっとりと血糊がついた姿で微笑まれて、アキヒはもう一度気が遠のくのを感じた。