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いちごの国のお姫様はただのバイトですが、若き次期大統領に溺愛されています  作者: 日室千種


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いちご姫をつかまえて

基本ミルヒ視点です。ややシリアス寄り。

主役の生身はラストにしか出演しません。。。

 少年時代から、政治家なんてごめんだと思っていた。いつかは、商売を始めたくて、そのためには世の中の仕組みを知っておくか、と、父親の秘書を引き受けていた。大学を卒業しても数年は、と、正式に官僚となり、大統領補佐官となった。

 やるからには、本気で取り組む。それは、当然だ。

 だが、力の入れようにムラができるのは、仕方が無い。と、言い訳したい。

 元々、人間というものに興味が薄い。空の都の外交戦略として、人材育成に力を入れるのは理解できる。だが、他都市を引き離すために、一癖二癖どころか、犯罪者までも教員として組み込み、常に寝首をかかれる心配をしながら、ぎりぎりの力比べをしていくのは、正直面白そうだとは思えない。

 それよりは、医薬品として遺伝子組み込みいちごを徹底的に独占していく方が、利益の見込みが立てやすく、はるかに健全だと思う。そのためであれば、苦手な大学教員との共同開発も、研究馬鹿との折衝も、目先の金しか見えない大学事務方との交渉も、苦ではなかった。

 まあ、売り出しイベントでは人材売り出しも共催するよう圧力がかかったりはするが、その辺も妥協する。

 そうして学生たちを積極的に採用していた中に、アキヒ・アラニアがいた。

 見事な紅髪、白い肌。顔立ちは整っているが幼さが抜けず、頬と唇の赤みが愛らしい。まさに、いちごのイメージそのもの。企画スタッフは、通常の裏方バイトに応募してきたアキヒを見逃さず、バイト代を引き上げて誘惑し、いちご姫役に抜擢したそうだ。

 アキヒは最初から、こちらの気を惹いた。

 生まれつきの容姿と、意図しての笑顔と立ち居振る舞いから、自分の事を嫌う女性は少ない。うぬぼれてのことではなく、戦略上も考慮すべき、事実だ。

 だがアキヒは、挨拶を交わしたときは普通だった。目を輝かせる事も無く、無意味な高い声を出してみたりもしない。至って、真っ当な、穏やかな態度。それこそが、若い女性においては珍しかった。

 やや好意的になって、気持ち積極的に話を振ってみれば、顔をしかめられた。なぜ、と思う。気分を害するどころか、面白すぎて、癖になった。

 翌年からは、請われて自らもイベントに出席する事にする。これでも忙しい身だ。アキヒが相方でなければ、到底引き受けなかっただろう。

 面白い動物を観察するようなつもりが、会話をするたびにアキヒ本人への興味に変わって行く。



 連動するように、マスコミも二人の組み合わせを面白がって使いたがるが、学生保護が優先ゆえに、過剰なアイドル扱いは避けられた。それでも、面白くなく思う輩もいたようで、これまた保護の名目で身辺を警戒かつ調査させれば、アキヒのウンザリ顔が思い浮かんで、ますます楽しかった。

 アキヒの専攻は、数理だ。理系女子、というわけだ。空気を読めない、という風評がはびこっているカテゴリーだが、なかなかどうして、アキヒのスルー技能はかなり高い。政治的に身を守ることが、自然とできるのは、貴重だ。

 学部二回生から、専攻を選び、研究室を選ぶまで、見守った。

 卒業を控えた年明けのイベントでは、短い会話の中で、大学院に進む事を報告してもらえるほどには、近くなった。すでに知ってはいたことだったが。

 大学生活を、謳歌している様子が微笑ましい。

 自分の時は、すでに秘書見習いとして思い切りこき使われていたのに、学業の手を抜くわけにはいかず、ひたすら、忙しかった思い出だけだ。今は、すでに大学の裏事情まで知ってしまっている。大学は、自分に取ってはすでに戦場だ。学び、楽しみ、成長する場では、ない。

 アキヒと知り合って、五年。六回目のイベントを控えた頃になると、大学に忍ばせている子飼の密偵から、指示してもいないのに、アキヒの様子を知らせてくるような状況だった。それでも、かわいい姪を見守っているような、そんなつもりでいた自分に、笑えてくる。





「お前、光源氏してるって本当か?」


 秋の深まった頃、父親に珍しく夕食に誘われ、真面目な顔で尋ねられて、咽せた。


「なんのことです」

「アキヒ・アラニアだ。随分気に入ってるようじゃないか。息子よ、成人していても、学生相手では外聞が悪いぞ」

「どこかの安っぽい報道でも見たんですか? そんなんじゃないですよ」

「そうか? 残念だなあ。そろそろ嫁が欲しい。まあ、だいぶ優秀な子らしい。大学に残るのなら、官僚との結婚は御法度だ。お前もかわいそうになあ」

「かわいそうとか、ほっといて下さい。そんなんじゃないですよ」


 大学に残る、つまり教員として採用される学生など、ほんの一握りだ。教員枠に空きがなければ、採用なしの年だってざらにある。

 何を言ってるんだ、と食後にウイスキーを呷る。

 その時点でようやく、自分が何を腹を立てているのかと疑問に思い、どうやらアキヒにかなり嵌まっていることに、五年越しで気がついた。

 




 気がついてしまうと、どうしても手に入れる手段を考えてしまう。これは、そういう性質だからだ。決して、本気なわけではない。

 無様な言い訳に、近いけれど。

 アキヒが進路をどう考えているのか、いままで特に尋ねた事も調べさせた事もなかったが、もしかするとこの気持ちに気がつくのを無意識に抑えていたのかもしれない。

 たしかに、ごくごく特殊な治外法権である大学という機構に所属する人間と、自分を含めた官僚とは、ある意味敵とも言える。業務上必要なやり取りはともかく、個人的な付き合いは、不文律ながら、法度とされている。結婚など、その最たる関係だ。

 だがもし、アキヒが研究職に就きたいと臨むのであっても、大学以外にも、道はある。

 たとえば、軍だ。軍事開発には、途方も無い費用がつぎ込まれる。実りが期待される研究課題であれば、大学よりも遥かに潤うことになるだろう。

 ただし、空の都の軍部は、当然の事ながら大統領の直轄となっていて、今の一補佐官の立場からみると、大学に残られるのと変わらない敷居の高さだ。あの、父親が、自分の直属の機関に入ったアキヒを放置してくれるとは思えない。必要とあれば、自分から引き離して、研究にのめり込ませ、飼い殺しにするのは容易く予想できる。

 では、赤の都に推薦したらどうだろう。警護を主なスタイルとして売り出し始めている、従兄弟の顔を思い出し、それはなかなかいい案だと思い始めた。

 さらなる奥の手は、ふたつある。

 ひとつは、自分がさっさと補佐官なんか止めてしまうことだ。キャリアを活かしてでも、まるで新しい道でも、自ら立つことはできるだろう。自分を客観的に評価して、事実としてそう予想できる。そうすれば、相手がどこの誰だろうと、自由だ。

 奥の手の、もうひとつは。

 ミルヒは、しばらく、自室のソファで空になったショットグラスを弄びながら、ぼんやりと壁を見ていた。



***



 移動の車中で隣り合わせて、シオンと二人、ようやく少しだけ息を吐く。

 イベント中の襲撃から、36時間あまり。身柄を確保した学生らの事情聴取とその後のケア、呼び出した教授の事情聴取、現場の徹底検証から、無関係の賓客へのフォロー、赤の都の警護陣と空の都の警務省との間の調整、ローゼリア市への連絡など、多種多様な作業の指示を鬼のようにこなし、いまからようやく、身内の関門、大統領と、今後の大学のあり方について、交渉に向かうところだ。

 これも、難敵だ。


「楽しそうだな、ミルヒ」


 従兄弟がそう言って珍しく声を出して笑うので、にやりと笑った。


「そうかな。……いや、そうだね。なんだか、すっきりしてる」

「彼女、うちの軍部に引き抜く案は、どうする?」


 ひたすら楽しそうなのが、憎らしい。だが、そう言ってシオンに持ちかけたのは、数日前の自分だ。


「保留だ。ずっとね」

「それは残念だ。彼女の技術は魅力的なんだが」

「僕には、彼女本人も魅力的だから。諦めて」

「……」

「なに?」


 ワインだと思って飲んだらブドウジュースだった、という顔をしたシオンに、しれっと尋ねると、ひとつ下の偉丈夫は、笑みを少し人の悪いものに変えた。


「いや、俺にも、彼女本人は充分魅力的だが」


 こちらをちらりと流し見る目元に本気を感じ取って、自分の目つきが悪くなるのがわかる。シオンの笑みが、ますます深くなったのが、面白くない。

 ついにシオンが、耐えられないとばかりに破顔した。


「すごいな、アキヒは。ここまでお前が余裕をなくしてるのは、珍しい。……手出しはしない。誓う。だから、どうしてそんなに楽しそうに振り切れるのか、教えてくれ」

「からかうな。……全面降伏して、自分の本当の欲求を知ってしまえば、あとどう動くかは自然と決まってくる。だから、すっきりしてる。それだけだ」

「そうか、決まってるのか」

「概ね、ね。あの狸親父次第なところもあるけど」



 俺は、親子の対話には入らないよ。と言っていたシオンを前室に残し、深い絨毯を踏みしめて、大統領執務室に入って行く。先触れは出してあるので、待ち構えているだろう。

 どんな選択をするにせよ、ここで負けるわけにはいかない。






 深夜にも関わらず、大統領クリストフ・ウィトゲンシュタインは起きていたようだ。部屋着に着替え、眼鏡をプライベート用に変えていても、決済書類を眺める顔付きは、少しの弛みも無い。

 デスク前で待つことしばし、クリストフはようやく顔を上げ、手に持っていた書類を、否決の箱に放り込んだ。

 ミルヒは、きっちりと、一礼をする。


「で? モンゴルドは何と言っていた」

「モンゴルド氏は入院中ですので、直接のご連絡は避けました。奥様に連絡をして、メトセラ・モンゴルドの処遇を相談しました。同席させる弁護士もこちらに委任のうえ、2日間の取り調べを受けてもらう事に同意を得ました。明後日、プライベートジェットを迎えに寄越すそうです。メトセラ・モンゴルドのローゼリア市長退任は明後日、彼女の帰国とともに報道され、その理由は父親の看病に専念するためとするとのことです。もちろん、彼女の犯した罪は公にはしない事が引き換え条件です。証拠物品は、彼女の退任後にコピーも含めてすべてお渡しする仮約束をいたしましたので、ここに、承認お願いいたします」

「奥方か、まあ、大丈夫だろう。しかし、証拠物品は、すんなり渡すのか? モンゴルドがごねたときのために、こっちで取っておいた方がよかったんじゃないか?」

「公開しない証拠なら、もともと不要かと。まして、今は他のことに注力をお願いしたいので」

「他のこと? ……そういえば、かなり物騒だったそうじゃないか。母さんに話せないようなことは、しないべきだと思うがね」


 そこでクリストフは、重要な話は終わりだと区切ったようだった。

 椅子に深く座り直し、手振りでミルヒにボトルと酒を持ってくるように促した。

 ミルヒは素直に棚に向かい、明るい赤地に切り子模様のグラスに手を伸ばし、思い直してシンプルな楕円形の透明なグラスを選んだ。酒は、癖の強いウイスキーだ。薬のような独特の匂いがあるが、飲み慣れれば、病み付きになる。

 ストレートが、好みだと知っている。飲み過ぎると喉と食道が焼けるようになるので、母親にいい顔をされず、グラス一杯だけと決めているのも。

 注いで渡せば、虎が鼻の頭に皺を寄せるような顔をして、目を細めた。これが、彼の笑顔だ。


「……で?」

「都立大学の学生が都政および都民を明らかに害する行為に及んだ場合、学生IDの6ヶ月取り上げ。また指導教官には、指導者セミナーへの出席義務と週三回の講義担当を上乗せ。これを、学務規定に盛り込ませて下さい。都の法律で保護されていても、大学内で取り締まれば、むしろ効果的でしょう」


 促されて、ずばりと本題に入った。グラス一杯を空ければ、休息の時間と決めているクリストフだ。それまでの猶予しか無いと、宣告されているも同然。さらに、事件のあらましなど、すでに耳に入っているのは、ミルヒも知っているのだ。


「お前の殺害未遂は、都政を著しく害する行為か。ま、そうだな」

「暗殺、するつもりだったかどうか、わかりませんが」


 自分が撃たれたことをこともなげに流す息子に、父親は顔色も変えずに面白そうにグラスを傾けた。


「というと?」

「エイジアの効能を確認しようとした可能性も考えています。暗殺学部の学生たちと、その仲介役とした動いた一般学生と別に、以前からいちごに絡んで警戒すべき動きがありました。今回のあぶり出しでは、そちらは釣れなかったのかと思っていましたが。

 エイジア開発に携わった若い研究者の配偶者が、数回に渡り、暗殺学部のゾイマフラー教授と会っていました。証拠も押さえました。『狂った都市』の領事代理とも、会っています。会った証拠はあっても、会話はわかりませんので、領事代理はどうしようもありませんが、研究者とその配偶者は、すでに身柄を拘束してあります。

 ゾイマフラーは、学務規定により、大統領には黙秘ができません。仔細は、聞き出していただければわかることでしょう。おそらく、エイジアの蘇生能力を売り込みたい人間が、売り込み先と共謀してかどうか、効果を手っ取り早く宣伝する手段として、暗殺学部と学生特権をうまく利用したのだと、推測されます」


 数枚の写真を受け取って眺めると、クリストフはふと目線を上に向けて、ふうと息を吐いた。


「その悪巧みも、すべて大学内で起こったことだ、とそういうわけか」

「そうです。研究者の配偶者も、分野は違いますが、女性研究者です。一般学部の、ですが。ただ、正規雇用はされておらず、講座でプールした研究費で雇われたパートタイマーであり、学務規定には縛られません。ただ、学生特権は知っていたのは、知人とのメールやり取りでも確認済みです。

 さらに、なんにでも首を突っ込むおかしな学生が、あらゆる線をつないだ結果、彼女が本来知るはずの無かった暗殺学部を知り、また領事代理の息子が学生として所属していることも知り、さらに学生の保護者として、他都市の領事代理が身分を隠して大学内に立ち入ることを可能であったために、すべては部外者が立ち入ることが難しい大学の中で行われ、これまで調べてもなかなか尻尾をつかめなかったようです」

「ほう、なかなかたいした演出家のようじゃないか、そのおかしな学生は。そいつが、諸悪の根源にも聞こえるが」

「……面白い若者を育てるのが面白い、というのはわかりますが、やたらに興味を持つのは止めて下さい。大統領の興味は、そのまま保護になり得ます。一部がいわれなく保護を受ければ、それは彼らとっての特権になるのですから。……それに、この若者に関しては、事態をかき回す業を持って生まれてきたというだけの男です。たまたま気が向いて天才的にあちこちに首を突っ込んでいただけのようで、事態の全体像を把握している様子もありませんでした。使えるようなものではありません」

「わかったわかった」


 さて、と黙考し、最後の酒をあおったクリストフは、酷く悪戯げな顔をして、ミルヒを見やった。

「この学務規定の変更を、どう大学側に認めさせる? お前は結局傷ひとつなく、エイジアの盗難も機密流出も阻止された。学内での密談は音声記録に欠ける」

「都市外への流出は避けられましたが、現に一学生が生細胞を窃盗しており、エイジアの効能を直接目にした人間も確実にいます。それを引き合いに、大統領権限で命令をして下さい。大学は、大統領には、逆らえません」


 ダン、と強く酒杯を机に置き、クリストフは一喝した。


「大統領の権限を安易に弄するか!?」


 厳つい顔が憤怒の色に染まり、炯々とした眼が目の前の若者を弾劾している。

 ミルヒは、動かない。静かに大統領の視線を受け止め、やがて頭を垂れた。


「出過ぎたことを進言しました。申し訳ありません。ただ」


 頭を起こして、目を合わせても、何も恐れることは無かった。


「大統領の権限を簡単に考えている訳ではありません。……大学と都政とのバランスはその時々で揺れて結構ですが、今の大学には、危険人物が過去にないほどに多い。元は殺人、窃盗、詐欺、様々な犯罪に関わった者たちです。学生を使って制約をかいくぐる方策を見つけたならば、都政や都民の安全など、優先はしないでしょう。

 ただ、彼らも、この空の都の資本ではあります。ですので、ほんの少し、バランスを傾けるだけです。大統領の権限は、このために使っていただきたい」


 牙を剥いた虎のような顔をしていたクリストフが、言葉を聞き終わり、やがて深く、息を吸って、吐いた。暗赤色だった顔の色が、すっと引いていく。

 激怒が嘘だったかのように、けろりとして酒をまた呷ると、珍しく二杯目を要求した。


「まあ、いい。使える者は使うべきだ。……ただ、何もかもお前の言う通り、というのも面白くないな」


 ミルヒが、子供ですか、と突っ込んだのは、聞こえないふりだ。

 お前も飲め、と強制してくるのを流していると、いよいよ機嫌が妖しく上向いた。


「いや、だが、今回の事件を契機として、大統領権限で学務規定改訂の要求をすれば、事件の日に遡って、いつ終わるともわからん期間にわたり、大学の運営すべてがストップしかねん。

 これはまた、とんだ恨まれ役だろう」

「……」

「そこは多少妥協点を提案してやらんとな。私としても、これまで築いてきた関係というものがある。

 ——妥協点だ。通常と異なり、改訂部分が極めて限局されている。関連した事柄に付いては、改訂後に日付を遡って適用することとし、ほかについては現行の学務規定に則って、通常運転でよしというのは、どうだ?」

「……」


 ぴくり、とミルヒの眉間が動いたのを、父親として見落とさなかったようだ。

 クリストフは、手を打って笑い出した。


「はっは。ミルヒ、そんなに焦ると、手に入るはずの獲物だって取り逃がすぞ」

「……父さん」

「こと、空の都市うちの大学に関わることで、一石二鳥を狙うなんて小狡いことを考えるな。彼女は、あの教室の有望株だ。熱心な学生であり、そのデータ解析能力は教授でも理解しきれない、魔法とも言われている。他の人間が真似できない才能は、突出しすぎて、軍でも研究畑でも、使えない? そんな大嘘があるか。彼女には、大学にせよ、軍にせよ、手元にいて欲しいね。

 たとえ、息子の恋路を邪魔しようとも」


 執務室の空気が、鋭い刺を含んだものになったので、クリストフは明らかな笑い声を、ぐぶっと手のひらで押さえ込んだ。


「やはり、父さんですか。彼女の助教内定について、情報セキュリティレベルを通常より跳ね上げたのは」

「いやー、私じゃない。私は、彼女の教授に、彼女に対するお前のご執心をほんのすこし仄めかしただけだ。内示のセキュリティレベルは、教授の申請があれば自由に変更されるからなあ。

 まあ、もちろん、私は知ってはいたが。だがお前が、もし早く知っていたとしても、どう阻止できるものでもない。研究大好き人間なら、喉から手が出るほど欲しいポジションだ」


 冷酷に事実を告げてくるくせ、ふと、気遣わしげな顔をした。


「言い訳するなら、お前の執心が、実は恋心だったとは、お前と同じく先日まで気がつかなかったよ」


 くそ親父。

 言い捨てて、ミルヒはあくまで静かに退室した。






 待っていたシオンは、やや眉根を寄せた。

 それはそうだろう。酷い顔色をしている自覚はあるし、執務室の扉が閉まるまでに、耐えきれなかったのだろう爆笑が聞こえてきたのだから。


「うまくいかなかったのか?」

「いや。大統領権限で学務規定改訂を要求することは認めてもらった。——思っていたより、くそ親父だったというだけだよ」

「……アキヒの件か?」


 察しの良い従兄弟を促して、移動する。

 少し迷って、自宅に向かうことにする。従兄弟にも、泊まってもらえばいい。普段から、警備は万全に敷かれているし、まだ、相談したいこともある、かもしれない。

 大学へ要求する実際の作業について手配しなくてはならないが、それが終われば。


 きっと、酒が飲みたくなる。そして、誰かにいてほしい。


 ミルヒは、とりあえず、胸に渦巻く重苦しく、甘ったるい何かを、意識から締め出した。




***




 結果的に、妥協案は提案されたが、採用されなかった。

 大学側の事情で、結局遡って適用することになるのであれば、この就職活動シーズン、就職が決まった後の学生ID取り上げなど、かえって事務手続きが煩雑になる、という理由だ。

 大学の事務方が、妥協案を採用した場合に必要になると予測される書類一式と添付資料の膨大なリスト、各方面において想定される問題点などの列挙に、恐れ戦いた、とも言う。もちろん、そうなるように、ミルヒが用意したものだ。

 大学は、一時的にそのほぼ全機能をストップさせた。アキヒの助教内示も凍結となった。

 ただ、年度の変わり目も近く、学生たちの便宜と大学の威信のため、大学側も必死に改訂案を固め、審議を通してくると予想された。最終的な大統領承認にも、時間はかからない見通しだ。

 アキヒが、大統領の懐に取り込まれるもの、時間の問題。




 ミルヒは、しかし忙殺されていた。

 本来は担当する謂れはないにも関わらず、今回の事件解決に、シオンとともに特別顧問官としてあたるよう、大統領から直接任命されたためだ。

 事件は、ミルヒ襲撃およびエイジア窃盗未遂、ではなく、エイジアの情報漏洩、暗殺学部に利用された警備システムの問題と赤の都警備との連携、イベントを引き延ばして足止めをした各都市代表の一部の不満、そして、解決の糸口となった蜂デバイスによるビッグデータについて、と、多岐にわたるすべてをまるまる投げ渡された。

 エイジアの情報漏洩問題だけでも、国家プロジェクトになる重要事項だ。腹が立ったので、若手の有能どころを、ここぞとばかり、臨時の超権力を持って引き抜き、それこそ国家プロジェクト並みに動かした。

 自分は、実働はしない。だが、指揮を執るだけで、時間はみるみる過ぎて行く。まして、超権力をもってしても動かし難い、大学の警備担当者や、自分の担当都市を優先しすぎる外交官やらが、呆れるほど時間を吸い取って行く。

 唯一、アキヒをデータ解析への協力を名目に呼び出して、都政宮で、時折顔を見て話をできる。それだけが救いという状態になっていた。




 シオンの元に、アキヒを送り出そうか。

 仮眠を取るために都政宮内の自室で横になるも、眠りは訪れない。天井をただ眺めて、とにかくも身体だけ休ませていると、自然と、そう取り留めもなく考えてしまう。

 シオンの元にあれば、少なくとも大統領の支配下からは脱することができる。

 だが、そうなれば彼女は赤の都の住人だ。

 補佐官を辞め、商売を始めて軌道に乗せて、迎えに行けるのは、何年後だろうか。

 ふと自分の考えていることに気がついて、苦笑した。

 気が早すぎる。まだ、ほんの少し、こちらを見るようになってくれただけなのだ。

 だが、つくづく、不思議だ。

 つい数週間前まで、アキヒのことは折にふれ思い出すくらいだったのに、今は、気がつけば、想っている。

 こちらのあまりに積極的な攻勢に、警戒して逃げてもおかしくないのに、いつもびくびくしているのは最初だけで、すぐに無防備になるところ。かといって意識していない訳ではないらしい。軽く触れるだけでも、固まって目元だけを紅くするところ。つい、抑えきれずに意地悪にしたときに、熱いものをかけられたかのように、全身茹だって呆然とするところ。

 思い出して、頬が緩む。

 少し、眠れそうな気がしてきた。




 翌日、ミルヒの元を訪れたのは、意外な人物だった。

 アズマ・オキタ。アキヒの所属する研究室の教授である、壮年の男性だ。


「突然押し掛けまして、大変申し訳ない」

「いえ、それはお気になさらず。ただ、時間はわずかしか取れません。どういったご用件でしょう」

 たまたま居合わせたシオンには軽い会釈をしても気に留めた様子はなく、はあ、と困り顔で、オキタは頭をかいた。


「私は機械相手にほとんど毎日を過ごしているもので、こういうことには疎いんですが、こうして私があなたに会いに来るのも、あまり良くはないのかもしれません」

「そうかもしれませんね」


 しれっと答える。

 大学は、今それこそ蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。学務規定は、大学の法だ。改訂など、そうそう行われることはないl。

 この機に権利の拡張を狙う者、大統領に擦り寄りたい者、伝統を貫きたい者、多様な欲がぶつかり合って、大混乱となっているはずだ。それを厭うその他の教職員たちは、この迷惑な改訂命令自体を嫌って、都政宮を一層恨みがましく睨みつけていることだろう。

 そんな中、いわばのこのこと都政宮のミルヒを訪れてくれば、風当たりも強くなるのは、簡単に予想されることだ。

 だが、オキタはきょとりとすると、また困ったように頭をかいた。


「そうですね、もう成人しているのだからと家内にも言われたんですが、ちょっとやはり、親代わりとしては見てみぬふりもしにくくて」


 今度は、ミルヒがおや、と首を傾げた。

 すぐに悟る。アキヒのことだ。あからさまにはしなかったものの、背筋が伸びた。


「アキヒ・アラニアの父とは親交がありまして、彼女がほんの小さな頃から知っています。彼女がアカデミックな道に進んだのも、私が勧めたからだと言い切れるくらい、関わってきました。彼女が私の研究室に来たのは偶然ですがね。

 最近、あなたが彼女に解析を依頼していると聞いています。都政宮からの依頼ですから、受けるのはもちろんですが、その、先のことも、もし考えておられるなら、一度お話をしておきたいと、そう思ったのです」

「先のこと、ですか」

「ええ、彼女のあの際立った能力を知ったのであれば、どなただって、欲しいと思うでしょうから」


 違う、と強く返しそうになって、口を引き結んだ。

 アキヒの、あの魔法のような解析力は、確かに圧倒的であり、リアルタイムであの膨大なデータの解析が可能となれば、利用方法は溢れるほど思いつく。それが、事実だ。心惹かれた理由ではなくとも、彼女の付加価値が、簡単な否定を許さない。

 落ち着け、と自分に言い聞かせ、ふと、オキタがひどく冷静な眼をしていることに気がついた。慎重に、こちらの様子をうかがっているのだ。

 我が子のような存在が、政治的に利用されることを危惧している、ということだろう。

 そこには、娘についた悪い虫への牽制などは見て取れない。となると、助教内示のセキュリティレベルを上げたのも、アキヒの能力にむやみに注目が集まらないように配慮した、ということなのかもしれない。

 先走るところだったと、ミルヒは自分を取り戻した。


「確かに、彼女のあの能力には、驚きました。希有な才能だとも思います。正直なところ、彼女の能力を悪用されるのは怖いですし、そういう意味で保護が必要だとも思います。……ですが、今のところ、個人の特殊能力に過度に依存したシステムを積極的に採用する方針はありません。

 彼女に今回協力いただいているのは、彼女のやり方での解析ではなく、万人がその解析手順に納得し、その解析結果を信じる、膨大な計算を伴う一般的な解析への、アドバイスをもらうことです。

 もちろん、そのアドバイスは彼女の能力があってのもの。大変な時間の短縮が可能となり、事件の全容をはっきりと証明する日も近いようです。ただ、彼女がいなくても、時間は倍かかったとしても、解析は同じようにできるでしょう」

「それは、つまり、先はない、ということでしょうか」

「先、というのが、彼女の能力を政治的に今後も活用する、ということであれば、ありません」


 オキタが、少し、肩の力を抜いたのがわかった。穏やかそうな眉の先が下がり、はは、とまた頭をかいた。


「よかったと思いますが、あの能力の価値があまりないと言われているようで、それはそれで複雑ですね。——あれは、本当に、魔法です」

「ええ、私も、魔法を見ているようでした。データを追う視線は遠くに向かっていて、確かにそこにいるはずなのに、存在はどこか別次元に消えかけているようにも見えました。彼女が見ている世界を、見てみたい気もしましたが……帰ってきてくれるまでは、とても不安でした」


 はっと顔を上げたオキタは、ひどく驚いたようだった。それが気にはなったが、時間が迫っていた。

 ミルヒはすっと立ち上がり、柔らかく微笑みながら握手を求めた。


「彼女は、研究かデータか、とにかく今は夢中なことがあるのです。そのまま、追い求めさせてあげたいですね。どこかで、面白くもないビッグデータをひたすら解析させるよりは」

「ミスター・ウィトゲンシュタイン、あなたは……」


 オキタは何かを言いかけたが、言葉の出ないまま、立ち上がってミルヒの手を握った。

 冷静だった目に、ちらちらと焦りが見える。悪い虫に、気がついたのだろうか。

 気がついてもらって、上等だった。むしろ、売り込む機会だ。

 ミルヒは、アキヒが見ていたら鳥肌を立てそうな、特上の笑顔を浮かべた。


「申し遅れましたが、私はアキヒさんに交際を申し込みたいと思っています。学生のうちは本分を優先してもらいたくて、遠慮していましたが、今回の事件が片付いたなら。

 大事な女性です。あの聡明さと裏表の無い気質を愛しく思いますし、研究に打ち込む姿は尊敬します。——彼女を危険な目には、遭わせはしません」

「そ、そうですか」


 ぐっと交わした握手が離れ、どこか呆然としながらも、扉へ向かうオキタを、ミルヒは礼儀正しく送り出した。


「今日は慌ただしくて大変申し訳ありませんでした。また別の機会に、改めてごあいさつにうかがいます」

「あの」

「なんでしょう」


 扉の前で、オキタは逡巡を振り切って、ミルヒを振り返った。

 聞きにくい、を、知りたい、が上回ったのだろう。その様子はアキヒを彷彿とさせた。


「申し込んで、それで、アキヒはどうお返事するでしょう」


 これには、部屋の隅で静かに控えていたシオンが、面白そうな顔をした。

 ミルヒは、揺らがない。

 ほんの少し、困った顔をして見せ、まだ何とも、と答えた。


「なんとも、ですか。わからないと? あなたが(・・・・)申し込むのに?」

「アキヒさんに答えをいただくまでは、もちろんわかりません。それまでは、誠意を持って好意を伝えるだけ、ですね。——ああ、もし交際を断られたとしても、必ず身の上はお守りしますので、ご安心下さい」

「はあ」


 オキタは扉に手をかけて、それでもまだ、ミルヒから目を反らせないようだった。

 やがて、眉間に皺を寄せ、納得し難い顔をして、口を開き。結局、そのまま口を閉じて、一礼ののち退出した。

 廊下でひとり、彼がこう呟いたことは、誰も知らない。


「アキヒは、あの魔法の解析をしている様子を、人に見せたがらないのに。研究室の学生たちだって、見たことがあるのは一人か二人のOBだけだというのに。……あまり知りたくはなかったけど、ミルヒ・ウィトゲンシュタインのことは、きっと特別ということか……」


 そして彼は、寂しそうに肩を竦めて、大学へと帰って行った。

 




 その後は、またも食事の時間すら惜しむ激務に戻る。

 モニターに向かって切り替えようとしているミルヒに、シオンが、随分雰囲気が違ったな、と声をかけた。


「それはそうだろう、口説こうとしている女性の親代わりと言われたら」

「お前ではなくて、オキタ教授だ。大学の教員は曲者ぞろいだから、新鮮だった」 

「ああ……。そうだな、マトモそうな人だった。けど、学生にとっては鬼教授だと聞くよ。怠け者だの金食い虫だの言い放って一日20時間くらいは研究をしている、ワーカホリックらしい。特許の申請どころも抑えていて、獲得研究費も多く、研究気質だけれどバランスがとれていて、なんというか……隙がない、と、学内政治にはまるで興味がないのに、教員たちにも一目置かれているようだね」

「彼は彼で、ただ者ではない、というわけか」


 二人で笑って、仕事に戻る。

 ちらりと、疑問がわく。では、ほかの教員たちは? どんな人間がいて、どう関係を築いている?

 大学の教員人口は、およそ500人。事務方は、およそ200人。学部学生が2000人、院生が600人。大統領直轄であり、官僚にとっては秘境ともいうべき機関だ。

 ゆえに接点も少なく、いちご開発やアキヒ関連など特殊な数人を除き、大学は大学として、一括りで見ていたために。

 大学内にも、いろいろな人間がいる、という当たり前のことに、今、はじめて思いを至らせた。

 ——光明が、見えた気がした。




***




 データ解析結果が出揃い、事件の立証に必要なほかの証拠も集まった。ことを起こす前に見つけ出されて取り押さえられた学生らは、不起訴となる。メトセラとその侍女についても、すべての証拠、証言記録とともに、ローゼリアへ送還済みだ。イアンとセルゲイ、そしてセルゲイから繋がる、エイジア開発担当者とその配偶者への追求が、法廷で始まった。

 スピード判決の結果は、イアンの傷害罪、セルゲイの幇助罪、そしてエイジア開発担当者とその配偶者は高度機密漏洩の罪が認められ、それぞれ懲役が確定した。はずだった。


「どういうことですか」


 乱れなく大統領の前に立ち、ファイルから三枚の書面を出して示す。

 だがクリストフは、厳めしい顔をさらに不機嫌そうに歪めて、見たらわかるようになってるだろう、と言い放った。


「セルゲイと、エイジア開発担当者の配偶者の罪を、大学での一定期間の無料勤労と引き換えに、放免とする、とありますね」

「なら、そういうことだ」

「こんな特例、一時に二人に使う価値がありますか? 機密漏洩に関わるのに、いちごの担当官としても、なにも聞いておりませんでしたが」

「価値があるかないかは、後にならないとわからないもんだ。大学は、面白いやつらがいてこそだし、こういう自分の目的のためにあらゆる手段をとれるってのは面白いと思う。それだけで、大統領(わたし)にとって価値がある。

 それに、担当者自身は、きっちり刑に服すわけだし、開発チームからはお払い箱になってるだろう? いちいち断らないといけないはずがない。」

「そんなわけはないでしょう。配偶者は専門は異なっても細胞生物学の講師です。彼女の頭の中にはエイジアの極秘情報が詰まっている可能性は、否定できない。大学が人と知を商材とするならば、なおさら、彼女は自由にされては困ります。報告は、あるべきでした。そして、認められるはずがない。——まして、担当者自身は、まだ開発チームに所属していますよ。賠償金代わりに給与は差し止めていますが。刑期は初犯故に3年。出てきたら、すぐに軟禁の上、開発業務に戻ってもらいます」


「鬼だな」

「大学の無償勤労だって同じようなものでしょう。勤労場所が違うだけです。とにかく、配偶者の身柄については、こちらに融通して下さい」


 わかったわかった、と大統領は鷹揚に頷いたが、ミルヒは、自分の顔が険しくなるのを止められなかった。


「そして、なぜセルゲイを? 意図せず最悪の事態を生み出すような、一番タチの悪い子供ですよ」

「だが、一般学生の身の上で、裏の学部とのつながりを持ち、事件の核となるような人間と、どこかで必ず接点を持っているというのは、普通じゃあない。そういうのを伸ばすところだろう、大学ってのは」

「せめて、学務規定が改訂されるまでは、刑に服させるべきでしょう。これでは、彼は何の痛痒も感じない」

「学務規定なら、改訂作業が終了したらしいぞ」

「!」


 大統領宛の可決申請書として、改訂内容がまとめられた書類を、投げて寄越された。五枚ほどの厚み。さっと目を通して、ミルヒは眉宇を開いた。


「これに、サインなさるのですか?」

「何か問題か?」


 都立大学の学生が都政および都民を明らかに害する行為に及んだ場合、学生IDの6ヶ月取り上げ。

 指導教官には、指導者セミナーへの出席義務と週三回の講義担当を上乗せ。

 ミルヒが提示したのは、この二点のはずだ。

 大学の意思決定がすべて会議制であるということを考えても、この二点の是非を問うだけで、まるひと月、大学業務と凍結させる必要があるのか、と正直思う。

 だが、事態は予想のさらに上を行ったらしい。

 改訂により、こうなるとある。


『都立大学の学生が都政および都民を明らかに害する行為に及んだ場合、学生IDを最低1ヶ月、最長一年の間取り上げる。また、学内において同期間の奉仕を義務づける。

 該当の学生の担当指導教官には、指導者セミナーへの出席義務と週三回の講義担当を上乗せ、あるいは教員IDチップの常時装着を義務づける。その期間は、学生のID取り上げ期間に準ずる』


 学生代表は学務規定改訂には携われない。だが、学内での奉仕は、監視に加え、救済措置も兼ねるのだろう。IDがなくなれば、日常生活すら送れない学生もいる。無償奉仕とは書いていないのだから、必要に応じてそこで謝礼を渡す目的があるのだと推測できる。

 教員についての罰則には、失笑してしまう。講義を担当するのは、よほど嫌らしい。教員IDの常時装着とは、皮下埋め込みを指す。自分で気軽に着脱はできない。限定された期間とはいえ、その選択肢をわざわざ盛り込むに至った、会議の侃々諤々が想像されて、生温い目をしてしまう。

 IDの皮下埋め込みは、個々の教員の動向を確実に把握するための効果絶大なシステムだ。だが、大学の自由の保持、人権の問題、そしてプライバシー保護などの観点から、大統領直轄である大学とはいえ、なかなか強硬には押し進められないでいる。

 彼らが進んで盛り込んでくれたのだ。せっかくだから、多いに利用すべきだ。


「いいえ、問題はありません。せっかくなので、インプラント教員IDへの優遇措置を拡大しましょう。これをきっかけに、便利さに注目してもらえれば、進んで装着する教員も出てくるでしょう」


 そして、教員たちへの支配も、強まっていく。ただし、それは大学と都政との結びつきが深まるのではなく。


「大統領と大学の結びつきが深くなりすぎると、愚痴でも言うかと思ったがな」

「確かに強まりますが、それによって都政も守られるなら問題ないかと。そちらは、個別の付き合いで解消して行くしか無いでしょう。ごり押しで仲良くしろと脅しても、急には両方とも意識が切り替わらないのは、明らかです。

 施行日は、遡ってイベント当日。今回この規定に沿って罰されるのは、セルゲイと、彼の指導教官、そしてイアンの指導教官のゾイマフラー教授。イアンについては刑事裁判で確定した懲役に従うため、今回は適用外となるわけですね。セルゲイの指導教官は、今回認知していなかったようなので気の毒ではありますが。

 わかりました。確認させていただき、ありがとうございます」


 淡々と述べて書類を返したミルヒに、クリストフはつまらなそうに椅子に深く寄りかかった。


「なんだ、ずいぶん淡白だなあ。凍結されていた内示も、その日に遡って有効になるから、お前のいちご姫も、晴れて助教内示を確定させることになるぞ」

「……まあ、それも結構」

「ん? もう失恋か?」

「失礼ですよ、父さん。違います」

「お前、そう言い切るのも嫌みだな」


 渋い顔で自分に似ない息子を見つめるクリストフに、別件だけど、と冊子を渡す。


「なんだ」

「興味あるかと。母さんが、オーロラの見えるところに住みたいって言ってましたからね」

「オーロラ……? 寒いところは苦手だ」

「知ってます。だから、いいかな、と思ったんですよ。……最新式のコネクション住居で、家から専用の地下道を通って、ショッピングセンターなどの生活施設まで外を歩くことなくアクセスできます。天体観測の部屋があって、ヒーター付きの天窓もついてます。住居用開拓は珍しい地域で、開拓開始当初から予約でいっぱいの物件なのですが、たまたま、知り合いが譲ってもいいと言ってくれまして。

 隠居したときに、しばらく住むのには、とてもいい物件ですよ」


 ぎょろり、とクリストフの眼光が色を帯びた。


「隠居……?」

「そう。母さんは、喜ぶでしょうね」


 クリストフが、冊子を放り投げて、立ち上がった。

 上背は、息子の方が高くなった。だが、質量と気迫は、及ぶものではない。


「私を隠居させて、その後どうするつもりだ? 都市運営で外すことのできない大学機関を不得手にしてるくせに、まさかお前がすぐさま跡を継ぐとは、言わんだろうな」

「いずれ継ぐなら、早い方がいい。そう判断したまでですよ、大統領閣下」


 ふん、とクリストフは鼻で笑い、ぐぐっと身を乗り出して、息子を睨め付けた。

 信頼していた部下に裏切られた時、力を入れていたプロジェクトでぽかミスをやられて破綻したとき。悔しさと、おそらくは自分自身への怒りと、そして極めて冷静な計算で、相手を叩きのめす時の、物を見るような目だ。


「調子に乗って失敗できるのは、十代までだ。こんなにも重用していたのに、自分の力量の見極めもできないとは。——お前が、いま大統領位を継いだとしても、うまく回らん。大学以上に面倒で手強い議員連中がわんさかいるんだ。少しずつ、面識を深めて行かせようと思っていたが、こうくるとは、な。

 ……そう、か。大統領になれば、大学教員との個人的付き合いが御法度にならない。

 抜け道を見つけた気分で、喜んで勇み足、と言うわけか。女にトチ狂う気持ちもわからんではないが、やり過ぎだ。自分の政治生命を縮めたな。すぐに、どこか田舎に引っ込んで、田舎娘の尻でも追いかけておけばいい」


 失せろ。

 父親に抑揚なく宣告され、ミルヒは項垂れた。

 つくづく、血は争えない。


「失礼しました。では、母に挨拶をしてから、田舎に下がりましょう。そういえば、アルトフォン学長からいろいろと母に言付かっているのでした。忘れるところでした」


 では失礼します。

 顔を伏せがちに退出しようとしたミルヒに、大統領が訝しげに待ったをかけた。


「アルトフォン学長とお前に、なんのつながりがあるんだ。というか、何を言付かったんだ」

「つながりは口止めされていますので。この間お話しして、初めて知りましたよ。父さんと恋敵だったそうですね。母さん似だったのが幸いして、いろいろお話を伺いました。お立場にしては、政治ばかり考えるわけではなく、気さくな方ですね」


 すでにミルヒは顔を上げ、にこやかに笑みまで浮かべていた。

 クリストフの方が、言葉に詰まった。


「何の話か知らんが」

「とても面白い話でしたよ。大統領が、息子の跡を継ぐ意志が弱いことを嘆いていたとか。わざわざゾイマフラー教授らがいる場で、息子の治世で大学との関係がどうなるか心配してみせ、ちょっと大学の怖さを思い知らせてやってくれよ、とわりと真剣に話していたとか。

 ……それをまともに受け取る側にも当然問題はありますが。なにを、息子を遠隔操作で暗殺しようとしてるんですか。

 アルトフォン学長からは、そういうわけで少し心配していたが、無事で結構。そろそろ父さんも引退の時期だから、オーロラの見える屋敷を譲ってもいいよ、とのことです。母さんには、お勧めの観光案内を直接して下さるそうですよ」

「と、取り持ったのか!? 母さんに?」

「息子としても、暗殺されそうな父親はちょっと……」

「アルトフォンだって、生半可なやつじゃないぞ! 学長になんか、普通の人間がなれるわけがないだろう!」


 騙されている、と騒ぐクリストフに、ミルヒはごもっとも、と頷いた。


「それはもう、これから長く、家族同然に過ごしながら知っていきますとも」

「ミルヒ!」

「父さん、母さんは、このことを知ったら、怒ると思いますよ」


 何を言う、とクリストフは厳めしく反論したが、視線は斜め上をちらちらと見ている。手を握ったり開いたりしたと思えば、厳めしい顔に似付かわしい艶光りする自分の巨大なデスクの縁取りを、そっと指先でなぞり始めた。

 ミルヒは、黙って立っている。

 クリストフは、咳払いをして、ネクタイを整え、後ろの窓の向こうの空を見て、そしてようやく、ミルヒに向き直った。


「母さんには、言うな」

「父さん……母さんのカードに弱すぎです」

「お前が言うな! そも、お前のどっちつかずな態度が悪いんだ。親心がわかっていない」


 偉そうにふんぞり返るが、あわや息子が暗殺されるかと言う局面を作った父親だ。冷めた目でしか見られない。


「僕が大統領の座にさして興味がないのは事実ですけど、だからといって、ね。まあ、母さんには言わないでおいてあげます。でもアルトフォン学長には、約束なので、母さんとのランチでも取り持ちますよ。いまだ恋の熱覚めやらずって感じだったので、彼から母さんに、何がどう伝わるか、までは、知りません」

「お前……」

「ご心配をおかけしていたようですが、大学以上に面倒な議員連中の親玉おふたりとは、都政に勤めている息子や甥同席で会食をしましたが、もう孫やひ孫の相手に忙しいようで、そろそろ引退が近そうです。父さんが引退するなら、合わせてのんびり過ごすことにしようかと、好々爺でしたよ」


 クリストフは、目を剥いた。

 息子といえど、自分の諜報から洩れるはずがない。だが、いつの間に会食などしたのか。


「今回、特別顧問官としてかなりの権限をいただきましたから。コンタクトしたいところにはし放題、人事もほぼノーチェックで動かし放題、さらには諜報官とも接触を持てました。優秀な人間を周りに集めたら、あとは、情報は入ってくるだけです。情報の操作だって、容易い。若手だけあって、常に現場に近いですから、隠蔽だってうまいものです。この一週間、僕の行動報告は定型文でしたよ?」

「……」


 ついにクリストフはむっつりと不機嫌に黙り込み、どさりと椅子に座り込んだ。


「いったいどんな手を使った。アルトフォンに、議員たちに、私の諜報官に……今週やたらに、急ぎではない会見が入っていたのは、秘書たちもか? どいつも、生半可なことじゃ、動かないはずだ」

「秘密です、が、いちごを少々、あとは他の都市との融通やコネクションを繋いだり。それに、別にクーデターを起こそうという訳ではないんですから。お互いに近しくなれば、ちょっとした意趣返しに協力をしてもらうのは、そう難しいことではないですよ」

「く、いとも簡単に言うが、それが難しいものなんだ」

「あとは、僕が次期大統領に確実になれると、信じてもらえたんでしょう」


 ミルヒは涼しい顔で父親の唸り声をいなすと、歩み寄って机上から冊子を取り上げた。


「それで? いい物件だと思いますけど」

「——わかった」


 低く、唸るように、敗北を認める大統領。

 それが、どこかひっかかる。眉をひそめたミルヒから、分厚い手が冊子を奪い取った。


「よし、わかった。考えてみれば、お前がやる気を出したことは、万々歳の結果だからな」

「……父さん」

「だが言っておくが、アルトフォンは政治はできるが、ごくごく善良な人間に過ぎん。人を人とも思わない、人間の枠からはみ出た、そんな奇妙な天才が、わんさといる大学だ。舐めてると、痛い目を見るだけじゃ、済まないぞ。だが!」

「……父さん」

「私は、知らん! やってみるといい! 女一人のためにいきなりやる気を出しただけの若造が、なにをかできるや!」


 明日にでもオーロラの国へ行く、と言い張るのに、ため息が出る。


「子供ですか。そんなに突然、大統領を交代できるはずがないでしょう。最低一年、移行期間を設けてください。ただ、後継者指名はなるべく早く」

「私の名前で勝手にすればいい」


 ふてくされた父親は面倒だが、とりあえず言質を取ったのでよしとする。

 だいたい、すべての元凶がクリストフだと気付いた時の、果てしない疲労感を思えば、これくらい虐めても、たいしたことではない。ただ、父親にいわば殺されかけたのだと知っても、裏切られたという衝撃は覚えなかったので、自分も同類だと実感はしている。つくづく、血は争えない。

 一応、少しだけ手を差し伸べることにした。


「一年後には、その屋敷から繋がる施設内に、水族館ができるそうですよ。特別会員になれば、水槽で潜って魚と遊泳できるとか。イルカ類やシャチも展示するそうですから、少しは楽しみではないですか?」

「……」


 返事はない。だが、ちらりと視線が冊子に落とされた。

 こんな厳めしい風体で、クリストフは海のほ乳類にぞっこんなのだ。

 あとは、自分で浮上するだろう。

 ミルヒは、さっさと部屋を退出した。まだまだ、やるべきことは山積みだ。




 今打てる布石はすべて打ち、あとは何通りもの予想と照らし合わせながら、事態の進行を見守る段階になったのは、それからわずか一週間後。

 自分のことながら、働きすぎておかしくなるかと思った期間だった、と、ミルヒはモニター越しに従兄弟にぼやいた。


「殺気を振りまいていたのも、仕方ないのか? ……で?」

「で、って?」


 ソファに寝そべり、ウイスキーを舐めるミルヒが、不穏な声で尋ね返す。シオンが、さも楽しそうに短く笑った。

 移動中の機内だろう。薄暗い画面に、ぼんやり楕円の窓と、形のいい顎が浮かぶ。

 彼も忙しいのだ。昼間にプライベートラウンジで見かけた後、個人的な警備依頼の打ち合わせをして、すぐにまた赤の都に帰っているらしい。


「そこでふててるんだから、何も手は出さなかったようだな」

「ご明察。仕事しすぎて、ちょっと判断力が鈍ってたんだ。こんなときに、誘うべきじゃなかったね。生殺しだよ」

「殺気は、収まっているようだが」


 まあね、と答えて、また琥珀色の液体を舌にのせる。

 自分を憎からず思ってくれているらしい想い人と、ゆったり酒を味わい、おいしい料理を食べた。その時間は、確かに、気持ちのざらざらしていたところをたっぷりと潤した。

 かわりに、恥ずかしそうにこちらを窺う顔も、楽しくてたまらないと研究を語る顔も、ぼんやり意識を飛ばしかけた顔も、すべてがとんでもない威力で脳を揺さぶってきた。気持ちと身体のどこかに、何かが決定的に足りなくて、焼け付くような乾きが酷くなった。

 ついつい、距離が近くなって、何度ユカワに邪魔されたことか。押し通してもフォローはなんとかできる自信があるだけに、あそこで身を引いた自分は、有り得ないくらいに我慢強かった。そう、初めは自分を褒めていたが、夜も深まり、今は自虐趣味の変態か、と罵りたくなっている。


「いつまでやせ我慢が続くのかな?」


 笑い含みの問いかけに、ミルヒはすぐには答えなかった。

 それこそ、自分が知りたい。


「……引き継ぎ期間は、一年」


 官僚が大学関係者と個人的なつながりを持つことがタブーであり、できればアキヒには研究の道をそのまま歩んでほしいとなれば、解決策は、ミルヒが官僚を辞めるか、あるいは、大統領になってしまう事だ。大統領は、官僚ではない。この都市においては、すべてのくびきから逃れた、至高の存在だ。

 大統領であれば、たとえ大学の教員と結婚しようとも、なんら批判を受けることはない。

 堂々と、アキヒとともに過ごせる日が来る。

 一年は、だが、そう思うと長い。

 やろうと思えば、最低限のことはひと月ほどでできるだろう。父親はあんな様子なので、あっさりと譲位されるはずだ。

 だが、きっかけはアキヒであったとしても、大統領となる覚悟を決めたからには、半端はしたくない。譲位後に脆いところを崩される危険は犯せないし、後継となることを決めて初めて真正面から向き合った、都政宮の若手たち、狸たち、大学機関の人間たち。彼らに、顔向けのできないことは、してはならない。


「ミルヒ。商売をやりたいと言っていたのは、もういいのか」


 幼い頃から気持ちを通じ合わせてきた従兄弟が、ふと尋ねてきたのに、ああ、と蕩けるように破顔した。


「父さんたち、譲位後にはオーロラの見える土地に移るらしいよ。多分、数年で飽きて、次は何か新しいことをするんだろうけど。——そういうのが、いいかな、ってね。アキヒと一緒なら、お互い充分に仕事を楽しでからでも、一緒に何かを立ち上げたりしたら、きっと楽しい」

「……そうか」


 心なしか、シオンの声に憧憬が滲んだようだったが。


「アキヒは、必須条件な訳だな。では、ひとつ情報を」


 モニター越しに、そっと囁かれたその情報に、ミルヒはウイスキーの残ったグラスを置き去りに、疲れきっていたはずの頭を、猛然と回転させたのだった。




***




 プチプチと、かすかな囁きが聞こえる淡い飴色の液体を掲げると、初春の陽光がグラスの縁に煌めく。乾杯、と唱和して、アキヒはそのまま、グラスを見上げ続けた。


「どしたっすか、先輩。や、もう先生っすけど。なんか、シャンパンに入ってます? 金箔入りとかでしたっけ?」


 こんな日でも寝癖のついた頭にジーンズの後輩につつかれて、我に返った。

 幸い、野外の祝賀パーティは賑やかに進行していて、アキヒの奇行は目立たなかったようだ。


「んー、泡をね、見てただけ」


 気乗りしない返事をして、グラスを空ける。

 ふわふわと軽い、お菓子のような飲み物だ。いつもはそんな嗜好から外れた物でも楽しめるのだが、昨日あたりから、何をしていてもどんより気分が重い。

 アキヒは昨日、正式に助教の辞令を受けた。本日付けで、正式に助教となったわけだ。

 といって、今日の祝賀パーティは、そんなしがない新米教員の任命式でも何でもない。アキヒの上司、オキタ教授を含め、大学の6人の教授が、その研究の将来性を評価され、ほかに類を見ない、十年継続の特別研究費を獲得した、お祝いだ。

 彼らは、これからしばらく忙しい。祝賀パーティがあちこちで開かれ、一週間後には、都政のバックアップで、全世界の代表都市を回って、記念講演を行うのだ。

 本人たちに取っては、嬉しさ半分、いまからすでにお疲れ半分、というところかもしれない。


「盛況っすねえ。ま、大学内でも特に穏健で、堅実、実力のある六人が評価された訳なんで、派閥関係なく、誰もお祝いに来やすいんでしょーね」


 一学生とは思えないつぶやきだったが、確かに入れ替わり立ち替わり、教授たちにお祝いの言葉をかける教員たちは、みな笑顔だ。そして、文系から理系、偏りなく立ち寄っているようだ。顔も知らない男性が、オキタ教授と握手を交わして、自分の著作であろう本を手渡している。隣には、あのマルハナバチの研究室の教授も立っている。一時は責任を問われたが、今回、獲得メンバーに入ったために、特別措置としてペナルティーは無しになったと聞いた。

 ぼんやりしていると、後輩は食べ物を探してどこかへ行ってしまった。

 自分も、何か口に入れた方がいいだろうか。

 思うが、食欲もなく、ぼんやり立ち尽くしていると、ぽんと肩を叩かれた。


「どしたのー? またデータのことでも考えてんの?」


 久しぶりに会う、親しい女友達だ。ということは、神話学研究室からも、人が来ているらしい。

「うーん、データ、は考えてなかった」

「じゃ、どしたの? あ、なになに。恋煩いとか? ようやく春が来たかー? そういえば、今日はちゃんとドレスアップしてるじゃない。いいよー、それ」


 ドレスアップといっても、レース素材をあしらった黒のミニ丈ワンピースに、生花のコサージュをつけただけだ。髪だけは、ボリュームに四苦八苦しながら、アップにしているが。

 目と同じ色のピアスをつけた耳元を、つんとつついて、友人は愉快そうだ。


「こーしてると、いちご姫、なんて柄じゃないのにね。どーしてか、あのふわふわひらひらの服、似合っちゃうんだよねー」


 いちご姫、というフレーズで彼を思い出して凹んだのに、友人もまた、同じ連想をしたようだった。


「いちご姫、と言えば、ミルク王子。彼すごいね、今朝駅前で号外配ってたよ。あの若さで、一年後には大統領って? 知ってたの? プライベートでも、時々連絡取ってるって、この前言ってたもんね」

「知ってた、というほどじゃ。号外が出るって、昨夜メールくれてたけど。この一週間はずっと忙しいみたいで電話もメールもなかったし」


 友人の目が、点になった。

 アキヒの目も、つられて点になった。


「ちょ、ちょっと、つっこんでいいよね? あの、この一週間は、ってことは、その前の一週間は?」

「あ」


 突っ込まれて初めて、アキヒが失言に気付く。だが、見逃されるはずがなかった。


「なるほど。ついうっかり、一週間の音沙汰なしを嘆いちゃうほどには、まめな連絡があったのね。どういうこと? しかも、あんなニュースの前夜に連絡を入れてくれたですって? あんたたち、どういう関係になってんの? ——って、なんでそこで泣きそうな茹で蛸みたいな顔するのよ。顔も頭も真っ赤じゃない!」


 あんまりな友人の表現にも、構っていられなかった。恥ずかしい。顔が、火を噴きそうだ。


「だ、だって。私、連絡がないのを寂しいってばっかりで。そんな、忙しいときに連絡を『くれた』ってこと思い至らなくて。どれだけ傲慢だったんだろうって」

「そ、それは……今、空の都で一番忙しい人かもしれないしね……、や、傲慢ってほどではないと思うけど」


 あんたから恋愛相談なんて、まるで予想してなかったわ、と友人はドリンクカウンターからカクテルを取ってきて、とりあえず、辛いことを一度全部言っちゃいな、と促してくれた。


「助教の内示をもらったときに、すぐに話をしなかったのが嫌だったみたいだから、先週仕事内容についての相談メールをしたんだけど。返事なくて。忙しいのかな、って思ってたんだけど、なんだか、メールも、お休みの電話も、お花の届け物も急になくなって、放り出されたみたいで。最初は平気だったんだけど、だんだんちょっと」


 つらい、と音を乗せずに呟く。

 ふと友人を見ると、なにやら険しい顔をしていた。


「ど、どしたの?」

「いや、ちょっと、天罰が必要な男なのかな、と思って。いやでも……。ね、さらに突っ込んで聞くけど。……どの程度のお付き合いなわけ? デートとかしてるの? うーん、まどろっこしい。ぶっちゃけ、寝た?」

「お付き合い? 寝る? え、いや、その。ね、ねて、ない!」


 はっきり答えたのに、ひどく不審そうに覗き込まれてしまう。


「ほんと? 二人きりになるまで行ってないってこと?」

「たまに、都政宮のミルヒの部屋で、お酒飲んだり美味しいご飯ごちそうになったり。で、10日ほど前に、なんだかこう、ちょっとその」

「告られたの?」

「ううん。そんなんじゃないけど」

「押し倒された?」

「ミルヒはそんな無理矢理なことしないよ。……いや、しない、と思う。しそうな時もあるけど。いやいや、じゃなくて。その日は、ミルヒも疲れてたみたいで、酔ったのかな、ちょっとよく耳とか手とか触るなーと思って。そしたらね、急に私わかっちゃって」


 生温い目をした友人が、とりあえず、という感じに先を促してきた。


「嫌じゃないな、って。好きかもって。そしたら、それまで何の気なしに食事を一緒にしてた時間が、まるでデートみたいなのかも、って思って」

「ふむ。で、それでも寝てないの?」

「寝るって、その、そういうことでしょ? ないよ。その日は、なんだか恥ずかしくなっちゃって、ペースつかめなくて、だいぶ私もヨロヨロになっちゃったんだけど、帰りました。それから数日したら、連絡来なくなって」


 いまや、友人は同情の欠片もない表情で、顎に手を当てて思考に沈んでいた。

 アキヒのほうも、データの読み解きと危険な話題のスルーは得意でも、人の気持ちはそうはいかない。おとなしく、友人の沙汰を待った。

 会場には春のやや強い風が吹くものの、麗らかな光に照らされている。そこここで、もはや教授たちとは関係なく、わあっと歓声が上がっている。


「うーん、いやいや、ごちそうさま! 私の脳内では、超腹黒説と、へたれ草食系説と、家族愛的オチ説と、いろいろ妄想が繰り広げられたよ。

 ——あ、まあとにかく、アキヒの気持ちだけは、はっきりしたわけだから。いつものアキヒらしく、まっすぐそのまんまぶつかってみたらいいんじゃない?」


 そのとき、会場の向こうで、いままでとは規模の違う歓声が沸き起こって、ふと、二人で視線を向けた。


「わお。タイムリー。……というか、これはあれだね。超腹黒説の勝利って感じね」

「……」


 アキヒは、人垣を割って現れた、ややフォーマルなスーツ姿のミルヒに、視線も意識も記憶も、すべてを吸い取られた。

 ミルヒもまた、銀緑の目をはっきりとアキヒに向けて、にっと目だけで笑ってみせた。


「うっわ。心臓に悪いわね。あんな悪い顔するんだ。それとも、ばりばり、戦闘態勢?」


 面白がった友人は、アキヒを引っ張って、ミルヒの方に近寄っていった。

 ミルヒと、最近やけに、特に頭部が若々しくなったと評判のアルトフォン学長とが、なぜか連れ立って、教授陣に挨拶をしている。会場はその様子に釘付けのようで、やけにしんと静まり返っていた。

 ミルヒが、オキタ教授に声をかけ、オキタ教授がなにか焦る様子で。

 それでも和気藹々と会話は終わり、ミルヒもアルトフォン学長も、飛び入りの参加だからと、挨拶を遠慮し、せめて記念撮影をとパーティの企画者にせがまれて、教授陣と一緒に撮影用の握手をしていた。

 カメラ目線のはずのミルヒの視線が、アキヒを探し出して、つかまえた。

 ふらり、と一歩踏み出す。


「アキヒ?」


 問いかけた友人は、思い直したのか手を振ってきた。

 アキヒはそのまま、差し出された大きな手に手を重ね、一気に注目の直中に飛び込んだ。





 だれだ、とアキヒの素性を問う声が、いちご姫だ、という声に取って代わる。中にはやっかみの声も、嫉妬の声も、もちろんあったけれど、アキヒには、何の意味も成さなかった。

 ただ、意識にあるのは、目の前の柔らかな、アカシアの色。


「ミルヒ、会いたかった」


 言うと、そのアカシア色の目が見開かれ、ついで獰猛に細められた。

 友人の忠告に従って、素直にぶつかってみたのだが、これは正解なのか、アキヒにはわからない。


「君は、想像のはるか上を行くね。本当は、今日は僕が、君を翻弄して、舞い上がらせて、つかまえようと思ってきたのだけど」

「そ、そうなの?」


 今更及び腰になるアキヒだが、逃がしてはくれなそうだ。しっかり腰に回った手に、怯えつつ、どこか安心してしまう。


「注目の的だけど、平気そうだね」

「だっていちご姫のバイトもそうだし。発表も講義も、こんなものだしね」

「頼もしいね。——じゃあ、」


 ふっと、視界からミルヒが消えた。いや、上を仰いでいた首を、下へと向ければ、こちらを見上げる甘い微笑みがあった。手を取られ、そこで初めて、異常な事態に気がついた。

 跪かれている。


「み、ミルヒ……?」

「私、ミルヒ・ウィトゲンシュタインは、アキヒ・アラニア、あなたに、正式に結婚を申し込みます。どうぞ、人生を共に歩むことを、了承してほしい」


 さすがにこれは、アキヒの度肝を抜いた。

 好きですも、つき合ってくださいも、言われたことはない。

 そこをすっ飛ばして、求婚とは。それとも、大統領になる人は、結婚を前提としないとつき合ったりしてはいけないのだろうか。

 パニックになって、思考は拡散した。

 返事をしなくてはいけないのに、そこから思考は逸れまくり、ありとあらゆることが脳内に溢れてくる。

 この一週間の寂しさとか、号外が出た時の置いていかれるかのような不安、ミルヒの部屋で飲んだいちごのお酒の香り、ミルヒにエスコートされる時の匂い、美味しい料理を一口ずつ交換したときの甘い眼差し、研究の話を聞いてくれる真面目な顔。

 データへのリンクを初めて人に話した時の緊張、それ以来、頭がおかしいと距離を置かれた時の悲しみ、それでもデータへの執着を断ち切れずに大学へ入った時の屈折、院生の間でも自分の能力が特殊だとわかった時の、孤独感。特殊能力は狡い、と批難された時の虚しさ。

 今朝の食事、友人の電話番号、蜂デバイスの起動パスワード、会場の隅で咲いている花、宇宙の星の数、三日前に解析に使用した数式、書きかけの論文の冒頭導入部の数行、ラベルを追加すべきグラフ、蜂デバイス搭載プログラムの全文……。


「アキヒ?」


 柔らかく促されて、アキヒは夢から覚めたように瞬きをした。

 軽い、リンクのような状態だったのだろう。日常生活でこうなるのは初めてだ。近頃は、ますますリンクが容易くなっている気がする。

 だがおかげで、見失ってはいけないものが、はっきりと把握できた。


「私、実験が大好きだし、周りが見えなくなるし、なによりデータを眺めてたら一週間くらい引きこもっていられるくらいだし。

 ……データにリンクするってこと、かなり特殊だって、高校生くらいまで知らなかった。イっちゃってるとか、気持ち悪いとか、頭がおかしいとか、やらせだとか、自分に酔っての妄想だとか、いろいろ言われてた。大学に入っても、もちろん言われたけど、後から計算して証明すれば、信じてくれる仲間もできた。大学の環境がとっても好き。研究馬鹿っていうのだと思う。

 あと、お酒好きだし、甘いもの苦手だし、どうも、結構人の気持ちをぶった切ること言うみたいだし、あまり、いちご姫って感じじゃないんだけど」


 両手でミルヒの手をつかみ返して引っ張ると、すらりとした長身が立ち上がってくれた。再び見上げて、真剣な顔で言い募るアキヒのむき出しの耳は、いちごのように真っ赤だ。

 その魅惑の耳たぶに素知らぬ風に触れながら、ミルヒは王子様の笑顔を浮かべた。


「うん、知ってる。そこがいいんだけど?」

「うん、知ってる。そんな風に、私を全部受け入れてくれるから、だから、データへのリンクも、目の前でできたんだと思う。……もうミルヒがいないと、寂しくてたまらないと思う」


 今度は、ミルヒの目元が、赤くなる番だった。会場の、だれも気がつかない程度ではあったけれど。


「まるで、かなわないな」


 苦笑して、そっとアキヒの頬にキスを落とす。


「またしても、全面降伏。いちご姫をつかまえる気で来たのに、捕まったみたいだ」


 そっと耳元で囁かれて、アキヒはくすぐったくて身をよじった。そして、仕返しとばかり、ミルヒの頬にキスをひとつ。

 とたんに、アキヒの目を覗き込むミルヒから、柔らかな笑顔が剥がれ落ちて、片頬だけ上がる、意地悪げな顔がちらりと覗いた。

 ぞわっと、アキヒの背中が総毛立って、腰から力が抜ける。とたんにミルヒの素の顔は消えて、若き次期大統領はそっと婚約者を抱きしめた。


「あんまり煽らないでね、アキヒ。君が捕まえたのが、狼だって、自覚して」


 囁かれて真っ赤になったアキヒに、友人がパチパチと手を叩いた。

 呆然と見守っていた観衆が、うわあああっと悲鳴のような歓声を上げる。取り残されていたパーティの主役たちも、戸惑いながら拍手をくれた。

 その中には、オキタ教授もいて、手を叩いていいのか、拳を振り上げていいのか、よくわからない顔をしていた。


「そういえば、赤の都に長期出張の打診が来ていたんだって?」


 オキタ教授をちらりと見てから、ミルヒが囁いた。狂気じみた歓声に引いていたアキヒが、はっとミルヒを見上げた。


「そう! そうだった。どうしよう。断らないと」


 言うと、ミルヒの笑みが蕩けるように甘くなった。


「断ってくれるんだ。……あの蜂デバイスの応用を探るための大規模実験場を、赤の都で提供してくれるんだろう? シオンからも聞いたよ」

「そう、オキタ教授がわざわざシオンさんに掛け合ったって。でも、その、こういうことになったし」

「うん、ありがとう。でも、断ることはないよ」


 え、と顔を曇らせたアキヒを、今度はご満悦そうに眺めてから、もったいぶって、ミルヒは否定した。


「——いや、僕たちが離れていい、ということではなくて。今回の特別研究費と合わせて、都政宮として彼らの研究を最大限バックアップすることになってる。大規模実験場の計画は、赤の都との共同計画として、ここ空の都で継続するよ。軍部と大学と都政と、初の協同実験になるだろうね」

「え、なんだそうなの? ——ミルヒ、わざと勘違いさせて! いけずすぎる! でも、すごい!」





 ふたり一緒ならきっと。

 ミルヒの言葉通り、この後三十年を大統領として勤め上げ、後を息子に譲った後、教授職を返上したアキヒとともに、ミルヒは会社を立ち上げることになる。

 環境探査機能に優れた小型生物デバイスによる水源確保や、レスキュー補助業務から、医療用精査眼鏡、フリーズドライいちごなど、現役時代のコネクションと経験を最大限に生かした商売を展開しつつ、ウイスキー蒸留所や麦畑を作ったり、地ビール開発を進めたりと、大いに自由に手を広げていったという。

 住まいは都市から少し離れた田舎の丘の上に作り、巨大な温室を作って、いちご畑にはいつも愛らしいミツバチが飛び交っていたとか。

 もちろんそれは、これからの長い三十年の、そのあとのこと。



*おまけ*


 楽しげに語り合う若い二人を恨めしげに見るオキタ教授に、アルトフォン学長はにやにやと話しかけた。


「おたくの秘蔵っ子の玉の輿で、研究室が潤っていいことですな」

「!! ——ええ、そういう誹謗中傷は免れないでしょうが、構いません。結果を出せば済むことです。学長、あなたも、政治にばかりかまけていないで、せいぜい本分を思い出された方がいいですよ。あなたの研究室からは毛根の再生医療研究では目覚ましい発表が出ないのに、なぜかこのごろ、一日ごとに頭髪が豊かになっているようですので」

「はっはっは。君の気のせいだろう。もしかすると、先日開発した飲み薬を試用したのが効いてきたのかな?」

「はは、あまりそれでごり押ししすぎて、後に引けなくなって、薬の捏造なんてしないで下さいよ。まして、たとえばエイジアなんかのエキスを紛れ込ませたりしたら、偽造やら盗用やら、多重の罪になりますからね。いや、怖い怖い」

「はっはっは。何を面白い冗談を」

「ははは」


 以来二人は顔を突き合わせればトゲトゲ言い合うも、なぜか仲のよいランチ友達になったとか。





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