二話
会場設営のスタッフはいつの間にか姿を消し、天を覆うガラスの偏向が調節されて、薄暗くなった。丘のふもとには靄が立ち込め、どこかで鳥の鳴き交わす声がし始める。
やがて客たちが、それぞれ手元に小さなライトを持って入場し、指定ベンチへとガイドに導かれる。
すべての客が入ったところで、会場のライトが切り替わり、空にさっと曙光が差した。靄が照らされて、あたりは紺と緋色の不可思議な模様に染まり、水面のようにたゆたうーー。
コンセプトは、いちごの国の夜明け、ということだ。
あのマルハナバチがどこまで関わっているのかとちょっと気になったが、今回の設定が特にロマンチストな訳ではなく、毎度こんなノリだ。なので、ここで出て行くのが学生バイトとバリバリの政治家という二人でいいのか、とよく思う。客は世界各地の要人たちなので、素人臭いほうがかえって興をかき立てるのだと、以前説明を受けた。納得はできない。田舎に旅行して雛の祭りを楽しむのならともかく、ここは仮にも天下の三大都市の一、空の都市の一等地だ。
主役のいちごも設備も最高。なぜイベントの主役が最高でないのか、やっぱり納得はいかない。
それでも、ライティングの効果か、アキヒと王子が丘の頂きで手を取り合って姿を見せれば、ざわめきと拍手とため息が溢れたので、喜んでもらえてはいるらしい。
「本日は、わたくしどものいちごの国へようこそお越し下さいました」
常より少し高い声を意識して、ゆったりとしゃべる。同じ内容を、五か国語で繰り返す。挨拶だけだ。以降は、自動翻訳付きなのだが、まずは、肉声を印象づけるのだと初回イベントの時に説明された。
挨拶を終えたアキヒが少し腰を屈めて礼をとれば、横の王子が滑らかに口上を引き継いだ。ひとを引きつける声と語り口で、イベントの意義と、開催の喜びと、来場への感謝を述べていく。
「……折しも果実は少女の頬のように赤く染まり、まさに食べごろ。どうぞこの機会に、お気に召しました実を手ずから摘んで、その瑞々しく甘やかな味わいと蕩けるほどの香りをご堪能ください」
いやらしくも聞こえる過剰な文句も、王子が口にすれば甘美な誘惑でしかない。誰が原稿を書いたのか知らないが、そこはかとなく織り込まれていたような悪意は、あっけなく蹴散らされたようだ。
「では、摘み方のいろはをお教えいたします。まずは利き手にハサミ。反対の手に、目星を付けた輝く実をそっと乗せて——」
王子は右手にどこからか鋏を構え、左手でそっとアキヒの顎に触れて来た。
毎度、思う。こういうの、必要?
努めて表情をぼやかして、形ばかり口の端を上げておく。
「まずは実をよくご覧下さい。表ばかり赤い若い実は、固くて甘さが足りない。裏まで艶やかに赤く、発光しているかのように輝いて、匂い立つのがお勧めです」
王子の手が、決められた順序でアキヒの顔を左右に傾けた。赤い髪がその度にふわふわとそよぐ。癖毛のせいでボリュームが出るのに、毛はごく細いために透き通った色になる。曙光をあびた今は、まさにルビーのように煌めいているはず。
そして去年まではなかったのに、王子の指が、いちごの柔肌に触れるかのように繊細な力で、そっと唇をなぞった。
見下ろしてくる銀緑の目が、唇だけに留められている。
通算五回のイベントで、毎度ある似たような絡み。イベント告知のポスター撮りやら、報道の雑誌取材やらでだって、なぜか似たポーズをとらされる。もうだいぶ見慣れた角度、見慣れた顔だ。なのに、その目が見慣れない。あれ、とはてなが浮かぶ。なんでこんなに今年はフェロモンだだ漏れ?
何だか焼けそうな視線を気にしないように努めて、動揺を顔に出さないように踏ん張る。マルハナバチによれば、あちこちからカメラが狙っているらしいので。そも、そのカメラのせいで今年はここまで細かい演技をしているのだろうけど!
すましていたつもりなのに、王子がふと小さく笑ったので、瞬間的に悟った。
隠したつもりの怯えに、気づかれた。
アキヒは咄嗟に王子の胸に両手を添えて、外から見えないように、親指の関節でぐりぐりと肋骨の間を捻ってやった。意外に固い筋肉のせいで、効果のほどは期待できなかったが。
「さて、品定めが終わったなら——もちろん、いちご姫に対して品定めなど有り得ません——、へたの上、1センチほどの所を切り落とします」
王子の手は、ようやくアキヒの顎から離れて、頭上のティアラに絡んだいちごをひとつ、摘まみ上げた。デモンストレーション用のいちごだ。
ぱちり、と固いものを切る音。
切り取ったいちごに、王子は恭しく口付けた。
「あとは、美味しく、いただくだけです」
伏せた目線は、あくまでアキヒから外さない。
垂れ流し過ぎだろ、と半目になりながらも、アキヒの台詞だ。
「いちごはすべて、無農薬、無垢そのもの。雨にも晒されず、水と土、空気の管理も徹底しております。またここいちごの国には害虫はおりませんので、どうぞそのまま、お召し上がりください。
——なお、わたくしの眷属である蜂たちが、皆様を歓迎して飛び回っております。彼らの働きは、いちごの実りには欠かせません。決して皆様に危害は加えませんので、どうぞご安心くださいませ」
ちょうどアキヒの頭上に寄って来たミツバチが三匹、そっと片手を伸ばせば挨拶をするように円を描いて飛ぶ。
曙光はそこで、ようやく明るさを得て、徐々にいちごの国は朝を迎えるのだ。
ここまでで、ギャランティの半分は働いたことになると思う。
銘々にいちごに向かって動き出した客たちを眼下に、アキヒは少しだけふう、と息をついた。
と、目の前に紅いとんがりが差し出された。
「はい、どうぞ。へたは取ったよ」
差し出す王子の手は、わずかに薄紅色の液体で汚れている。反対の手には、ナイフ。ハサミは、傍らのワゴンに戻してある。
傷から溢れ出る、いちごの芳醇な香りに、くらくらする。
「いや、でも私」
「果物苦手なんだよね。知ってる。でも、これも報酬に含めるとあったはずだけど。せっかくだから、薬だと思って、ね」
「うう、それはなに?」
「エイジア」
「え!! それ私の頭にあったデモ用のいちご? 違うよね、違ってて! ……太っ腹、というか。怖い!」
大げさではなく、身震いがしてアキヒは後ずさった。
世界の要人が、おままごとでいちご狩りをしているわけではないのだ。ここは、外交の場であり、商取引の場所。もてなすばかりではなく、空の都市クーロンは常に売り込みをかけている。
たとえば、これだけ広大な空間を清浄に保つ技術を。
たとえば、イベント企画からガイドや会場設営まで、都立大学の学生が実務担当することで、人材と教育を。
そしてなにより、何度も言うが、メインはいちごなのだ。
食物の遺伝子操作が当たり前になって十数年、天然遺伝子の組み換え、改良に続き行われたのは、人工遺伝子を植物や動物に組み込むことだ。予測がつかない未来を警戒した数多くの規制をクリアして発見されたのは、組み込み遺伝子と相性がいいのは、果物であること。期待する付与効果の顕現には、酸味物質と甘味物質の質と量が重要で、かつ栽培期間を考慮に入れると、最適実験植物はいちご、と結論づけられた。
いちごを実験植物としての確立するまでの基礎研究から、以降の実用化まで、学問の中心と自負する空の都市がすべてを独占し、希少な遺伝子組み込みいちごは空の都市クーロンの強力な外交カードとして次々に産み出されている。
エイジア。それは奇跡的な若返りのいちごだ。医療栽培種として認可も間近と噂され、今もっとも世間の関心を集めている。超極秘情報なので奇跡の科学的仕組みはアキヒも知らないが、一粒食べるだけで肌は瑞々しく、髪は豊かに、感覚も研ぎ澄まされ、筋肉も柔らかくなるとか。その効果は、半永久的だとか。
美容に関わる人間たちの興奮具合と言ったら。
だけど効果は眉唾だ、とアキヒは思う。まるっきり嘘だとは思わないが、いまだ認可申請中で、医学的な効能についての臨床実験結果は極秘だし、認可前でもエイジアは市場にでることはなく、幻のイチゴとなっている。なっている、というか、政策的にそうしている、というか。そのために、エイジアの効能については長大な尾鰭がついているのではないか。
ただ、噂と、まるで噂を煽るように断片的に公開される情報をひたすら信じて、エイジアを食べられるならいくら金を積んでも構わない、という人間がたくさんいるらしい。
「いったい一粒いくらになるのか……いや、値段なんかつかないよね! というか、いちご狙いで首ごと摘まれちゃったりするよね!」
はは、と王子は愉快そうに笑って、否定もせずにさらりと流し、大粒のいちごを開いたままのアキヒの口に突っ込んだ。
むぶぶっと抗議しても、まあ噛んじゃったし食べちゃいなよ、と取り合わない。
いちごは、味はそのままいちごだった。酸味は少なめ、甘みは強く、独特の種のつぶつぶ感。不本意ながらも飲み込むと、なんだか動悸がしたのは気のせいか。
「一応、そこの株から摘みたてだから、首には危険は無いよ」
「そ、そっか……ご、ちそうさま」
「いえ、こちらこそ」
こちらこそ? と首をひねりながらも、これ以上絡まれないようにそそくさと王子から距離を取り、ハサミと籠を手に、手近な紅い実に手を伸ばした。
なにしろ、残りのギャランティ分の仕事が残っているのだ。
パチリ、パチリ。
ラベルは「沙羅理」、血管内コレステロール値を下げる効果がある。
隣のラベルは「ワンダフルワールド」、抗鬱作用があり、副作用がない。
その隣は「ツネハナトオル」、花粉症に覿面の効果ありだ。
とんがり山の上層部には、客は自由に立ち入れない。そこには輸出規制のかかっている、高機能、高品質、超希少ないちごがまとめて植えられている。まさに、宝の山。
それを、品種ごとに分けて摘み取るのがアキヒの仕事。それをどんな基準でか取り分けてセットを作り、上層と下層を結ぶ緑のアーチ門から訪れる客たちに渡すのが、王子の仕事だ。
おそらくはそこで、互いの力関係とか親密度とか今後の取引の展望とかを、暗喩して駆け引きしているのだろうけど。
政治的なやり取りに興味を持つつもりは、アキヒにはまったくない。




