十五話
三話同時更新です。二話目
苦しい。
じ、じじ、と数字がぶれる。
胸が、痛い。苦しい。
多様な色が、濃淡をつけて広がる世界。一色一色は単なる模様に過ぎないのに、色が重なると、見えてくる。空気の成分濃度、水の濃度、温度の固まり、鼓動、人の、感情——。
苦しい。
視界がぶれる。切り離される。
苦しい。痛い。死んでしまう。
何か、重大なことを忘れているのだ。なにか。とても、基本的なことを。
い、き。いき、息をしなくちゃ。
「っ——っあっ、は、はあ、っはっ」
思い出したとたんに喉が引き攣れ、吐く息と吸う息がせめぎあってどうにもならず、アキヒは声にならないかすれた音で苦悶した。
バネ仕掛けのように飛び起きた体は制御が利かず、そのままベッドから転がり落ちる。柔らかな床にだがしたたかに肩を打ち付け、胸にわだかまっていた気体がどっと押し出されて、拍子に呼吸を取り戻すことができた。
ぜえぜえと、乾いてざらついた音が、しばらく部屋に響いた。そして、音の戻った苦悶の声と、安堵の嗚咽。
なにが起こったのかわからない。
混乱しながら見回すと、部屋は明るいまま、何も変わったところ無く、静かだ。
だが、アキヒは違和感を拭えずに、しばしばと瞬いた。
視界は変わらない。何か、異常を見つけた訳でもない。
ただ、頼りない。視界が、薄っぺらい。確かに見えているのに、まるで目隠しをされているかのような、失明感。
まだ少し荒い息が、体の中を通る音が聞こえる。耳元で太鼓を打ち鳴らすように、自分の鼓動が聞こえる。
こんなにも、うるさいものだっただろうか。
そして、こんなにも寂しいものだっただろうか。
——寂しい。そう、寂しいのだ。
ぼろぼろと涙がこぼれて、また仰天した。頬が暖かい。自分の体を抱きしめて、また首を傾げなくてはならない。柔らかい。
ここに至って、ようやくアキヒは自分がひどいリンク酔いをしていることに気がついた。
ふと、記憶が蘇る。
いちごの緑も赤もない、透明な七色の靄の中のような世界。あの広い空中庭園のすべてが、自分の手や足や、血や肉と同じくらい近くにあって、すべてが自分の意識の下にあった、あの絶対的な安心感。
だが今や、聞こえる鼓動はひとつきり、聞こえる血潮もひとつきり、あらゆる情報を見せてくれた靄はなく、薄っぺらい視覚と、役に立たない嗅覚と、寂しさを際立たせるだけの触覚しか持っていない。
たくさんの感覚を、言ってみれば仮想の目や鼻や耳を、無理矢理もぎ取られたかのような、激しい喪失感に、めまいがする。
吐き気がしてきて、アキヒは床に寝そべった。
外界の刺激を感じるたび、自分の体を意識するたび、喪失感はより鋭くなる。
声を出すのも嫌で、涙を流すのも嫌で、アキヒは呆然と天井を向いて、外界をシャットアウトしようと試みた。
だが、感覚を閉ざせば、意識はすぐにリンクの記憶を辿り始める。七色の靄、空中庭園で歓談する客たち……。そして不意に肩の痛みに記憶が途切れ、えづいた後に、またふたたび、靄が意識を霞ませる。
壊れた再生機のように、同じ記憶の断片を際限なく辿ってしまう。その度に、酔いが酷くなった。
苦し紛れに転がって、足をサイドテーブルにしたたかにぶつけた。痛みの刺激が、生々しすぎて不快だ。痛みの感覚を、シャットアウトする。すると、もういやだ、と思っても、七色の靄が見えてくる。
不意に、硬質な音が二度響き、アキヒの意識を引き寄せた。
「アキヒさん! どうしました。どこか具合が悪いのですか?」
気遣わしげな声が空気を震わせて、アキヒの体にも伝わる。周波数はやや低域。体温は高めだ。男性、それも筋肉量の多い、健康な三十代。
「……ユカワさん。いえ、病気ではないのですけど。……ちょっと、大丈夫じゃないです」
失礼、と断って、ユカワはアキヒの首もとに手を当てた。
「熱がある訳では……むしろ体温が下がっていますね。吐き気がしますか?」
「はい……。病気じゃなくて、少し酔ってしまって。や、あのお酒じゃないです。データに酔ってしまって」
「医者がいりますか」
「い、りません。えっと、わかりません」
酔った、と告げたとたんにユカワの心拍数がやや下がった。ただのヨッバライ、と分類されそうだったので、慌てて訂正する。
自分の声も波動になる。周波数でもない、何のデータなのか。ユカワとは色の違う波だ。直前のユカワの声の波と打ち寄せ合って、溶け合うところは、色を混じらせた。
色は余韻を残さず、薄れて消える。それをぼんやりと見ていると、ユカワに肩を揺すられた。
「大丈夫ですか。意識はありますね」
「はい。なんとか。……そうか、無理に刺激を断とうとするから苦しいんだ……」
とはいえ、気を抜くと七色の靄はすぐに脳内に広がろうとする。
おそらく、いつもと違い眠りながらリンクをしたために、どこか深いところか歪んだところにデータが断片的に記録されてしまったのだろうと、当たりを付けた。
専門ではないので確かではないが、おそらくトラウマに似た状態になっている。精神安定剤でも睡眠剤でも、解決は一時的なものになるだろう。
それならば。
「今具合が悪くて、詳しく説明する力が無いんですけど、空中庭園に今入る許可をもらえますか? 昼間と同じ状況でデータを取り込み直せば、治る、と思うんです……」
自分の周囲で、薄緑と薄紅い色の靄が、交互にふわふわと揺らめいている。脳内の興奮性神経伝達物質が、ぐらぐらと分泌量を変えている。動悸が早まったり緩まったり、血圧も上下して、落ち着かない。
これはおそらく、失った情報の代わりに脳が補完している幻影だろう、と適当に説明付けて、気にしないことにする。深く追求する元気は無い。
ふと波を感じて目を向けると、ユカワが襟元の小さな機械を口に近づけた。ほんの小さな通信機の、送受信の動作音だったのだろうか。
ユカワはインカムに向けて相談をしていたようだが、少し息を吐いて切り上げた。
「ミルヒ秘書官とは今連絡がつきません。庭園へ行くのは、早い方がいいのですね? では、私がお連れしましょう」
「すみません。お願いします」
「歩くのは辛そうですから、こちらに」
促されて、アキヒはやっぱり、少し寝て様子を見たほうがよかったかな、と後悔した。
けれど、いつの間にか手配をしていたユカワの動きは到底先回りできるものではなくて。あっという間に、アキヒは人生初の車椅子乗車となったのだった。




