十三話
三話同時更新です。三話目
自分を取り戻したのは、案内された客室のソファで、すっかり冷えた紅茶を空にしてからだった。
結局王子の仮眠室とやらに押込められることはなく、都政宮内の、少しばかり豪華だが普通の客室に、なぜかウェットティッシュとティーカップだけ自分でしっかり持って来て、他の荷物はユカワが運んでくれたような気がする。カップを置いたテーブルに、ウェットティッシュも放置してあり、すでにぱりっと乾いていた。
とりあえず、一時的に王子の面影を脳裏から消して、ソファに脱力した。待ちかねていたように、瞼の裏には小さな数字が幾万も雪崩のように押し寄せてくる。それは自ずとリンク時の感覚を呼び覚まし、再び強制的に記憶の中のデータに引きずり込まれかけた。
それはいつものことで、興奮するほどにいい実験結果を得て、長くデータに潜った後は、何をしていてもデータの記憶に引き摺られ、三日ほど寝られなくなることもある。自然と受け入れる気持ちを作っていたのに、不意に首がかくりと前に落ちて、意識が体に戻って来た。
訳が分からず、部屋を見回す。大きな窓、手洗い場への扉、テレビ、間接照明……ベッド。
ベッドから視線を外すことができず、また瞼が降りて来て、首が前に倒れる。脳が強制的に身体を意識させられて、混乱した。
「……え、私、眠たい?」
こんなに美味なデータを手に入れた日に、有り得ない睡魔。
抗いようもなく、アキヒは足を引きずるようにベッドに近寄り、そのまま倒れ込んだ。
ほんのかすかに香ったいちごに、王子に食べさせられたいちごを思い出す。あれは、もしかして……?
疑問を感じた時には、既に夢の中だった。
リンクの記憶が鮮やかなときに、眠りについたのは初めてだったと、あとでアキヒは振り返る。
温かな水底に沈んでいくように意識が落ちていく。
それを追いかけるように、幾万、幾億の数字が滝のようになだれ落ち、音もなく、圧倒的な質量で、アキヒの意識を覆い隠した。
監視室に入ると、モニターを見つめていた男たちが、眼を離さないまま敬礼を寄越した。一瞬の隙が命取りになるので、それは正しい対応だ。
「ご苦労」
短く応えて、シオンは少し離れた椅子に姿勢よく腰をかけた。
アキヒに提供された情報の裏付けをとる指示は、すでに道すがら出し終えている。あとは会場の安全を確保しつつ、報告を待つのみだ。
客たちはとうに食事を終え、銘々にドリンクを愉しみながら、楽しくもないだろう駆け引きの会話に、そこここで盛り上がっているようだ。空の都市、いや世界でも最高のホテル大広間は、百余名にとってゆとりある空間ではあったが、それでも空気はさざめき、ノイズにあふれていた。
死角の無いように惜しみなく仕掛けられたカメラは六十台。訓練された男たちはそれぞれ4つのモニターを受け持って、些細な違和感も見逃さないように常時監視し続けている。
シオンの位置からは、モニターは文庫本サイズだ。ずらりと横長に並ぶ光る画面に、シオンはアキヒを思い出した。彼女が見入っていたスクリーンは、この画面をすべて足し合わせたものの、半分くらいだろうか。だが、こちらは直感的に捉えやすい映像が六十。彼女が見つめていたのは、砂粒のような数字の平原だ。部屋の隅、常に表示される室温と湿度、酸素、二酸化炭素、窒素濃度などと違い、グラフにもなっていない。
訓練すれば、ここにいる男たちもアキヒ同様、データの数字を見て、意味を読み取ることができるようになるだろうか。ふと想像して、いや、と小さく頭を振った。
とてもあの域まで辿り着けるとは思えない。とすれば、ただ一人の解析者に依存するようなシステムは、実用に向かない。それよりも、人の感情まで推し量るセンサーとして、蜂デバイスの仕組みの方が気になった。
しかし、それも現実味は無いだろう。と、シオンはアキヒを思い浮かべた。
青空に映えるストロベリーの柔らかそうな髪、その前髪の影から見上げてくるチョコレート色の瞳。どこもかしこも甘そうなのに、ブランデーを生のまま飲んで喜ぶあたりは、女性としては辛口ではないだろうか。
正直な第一印象としては、若い、だった。幼いと言い換えてもいい。愛らしさは十分認めたが、対等な女として見てはいなかった。だが、今は興味を引かれる。どれだけ、女を隠しているのだろうか。
と、思い描いたアキヒを隠すように、人の悪い顔をしたミルヒが唐突に浮かんできた。
思わず、口元を緩めてしまう。あのできる従兄弟は、どうも本人が思うよりも、相当まいっているようだ。蜂デバイスを警備システムに取り入れるためにアキヒをリクルートしようとしても、従兄弟どのが許さないのは明らかだ。
わかってるわかってる、取らないよ、と脳内で断りを入れてから、意識を戻した。
ちょうど、ミルヒが会場中の注目を浴びながら、遅参を詫びているところだった。
「ローゼリア市長はどこだ」
尋ねて指し示された先。ほとんどの客がミルヒの登場に笑顔を見せている中、あからさまに不満そうに唇を突き出し、不穏な目つきでソファに座っている女の姿を確認して、その稚気に今更ながら呆れを感じた。華奢でいながら魅惑的な体つきと、華やかな顔立ちが相まって、ぱっと見は魔性の女とでもいうべき妖しい魅力にあふれている。だが、中身は初等科の子供と等しい。それも、とてもたちの悪い、わがままをわがままと認識すらしない、手に負えないモンスターだ。
「元婚約者さんですね。ずっとあんな感じですよ。会場にいちごがないのも不満、取り巻きがいないのも不満、会場から出て街に遊びにいけないのも不満、侍女が体調を崩したのも、とても不満」
「体調を崩したのは、例の侍女か?」
「ええ。今は回復、してないみたいですけど、一応戻ってきてますね。横に立ってる茶髪の娘です。一度吐き気を訴えて、便所に言っています。医務室を勧めたのに、本人に断られました」
「吐き気ね。それで?」
部屋に入った時から隙無く隣に控えていた有能な右腕は、気安い口調でさて、と間を置いた。
「本人は、つわりだから病気じゃないと。個室で呻いてた時間は結構なもんでしたよ。ローゼリア市財務局の役人の娘で、貴族ではないがいいとこの娘です。未婚で婚約者もいません。あと、昨夜の晩餐では、食欲も普通でワインもグラスに二杯飲んでいます。……今朝方急に妊娠に気がついて、びっくりつわりも来た、って主張されたら、検査も強制できない段階で男に太刀打ちなんかできません。でも、ま、嘘でしょうね」
「吐いたものは」
「そのまま流さずに置いて確認させろと事前に指示したんですがね、流されました。ただ、なぜか、便所の個室にまで入っておいて、ビニル袋に嘔吐したらしい。なんだか、吐いたものに執着があったようですね。ゴミ箱に嘔吐物の付着したビニル袋を見つけました。今、解析にまわしてます」
扉近くに控えていた年若い部下が少し身じろいだのがわかった。えげつない内容だからだろう。だが、外せない処置だ。
「結果はすぐに出るな」
「そうですねー。どうしようもない主人を持つと、不幸なもんです。大丈夫ですかね、あの市は」
同じ若い部下が、きょときょとと目を泳がせたのを見つけて、有能ながら意地の悪い男はそこそこ、と呼びつけた。
「今のうちに、女の裏側を見ておけよー。解析終わったら、侍女の拘束、お前も入れ」
「えっ、自分ですか? は、はい!」
「えっ、とか、いらないところで聞き返したりすると、休日一日減らすよ」
「は、はい!」
部下で遊んでいたが、インカムに呼び出されたようだ。数秒静かになって。
「隊長、当たりです。いちごの破片がでたそうです。特殊なフィルムで包んで丸呑みして、いちごをまんま持ち帰ろうとしたようですね。浅知恵すぎて、侍女が気の毒ってもんじゃないですよ。それに、あのミルヒさんがそんな窃盗を予想しないはずが無い、ですよねー」
「だな。いちごの賞味期限は30分、だそうだ」
さらに30分過ぎると細胞が死に始め、そこから15分で組み込み遺伝子の核酸情報をはじめタンパク質などもほとんど分解され、体細胞培養や核酸情報の読み出しができなくなるらしい。徹底度合いが、ミルヒらしい。
そのミルヒに、届きたての情報をインカム越しに伝える。
客と対応しながら、しっかり聞いていただろう。ちらりと、ローゼリア市長を見た。
そして、その視線をローゼリア市長もがっちりと受け止めたようだ。自分の優位を疑うことの無い、勝ち気な笑みを浮かべて、悠然とソファから立ち上がった。そのまま、動かない。
ミルヒが、ふっとかすかに鼻で笑う気配が伝わってきた。珍しく曝け出された地に近い所作に、やる気かな、とシオンは嘆息した。
ミルヒが現れてからは、大統領夫妻は奥の壁際で椅子に腰掛け、夫婦でゆったりと微笑んでいる。周囲の客とは歓談しているようだが、ホストは完全に息子に譲る形だ。今日のメインはいちごだ。そして、エイジアを初めとする高機能いちごの管理統制は、ミルヒが一手に引き受けていることは会場の誰もが知っている。誰もが、自国へのいちご輸入のためにミルヒと話をしたいと思っている。
明らかに、今、この空間で、ミルヒは王にも等しかった。誰もがその機嫌をうかがい、おもねる対象。そのミルヒに対して、自分から挨拶に出向くでもなく、相手から近づいて声をかけてくるのを当然と、まるで女王のような態度を平気で取る。その無神経さが、いったい自領に何をもたらすのか。彼女は考えもしないのだろう。
ミルヒが、そんな人間を毛嫌いするのを、シオンはよく知っていた。そして今、証拠も抑え、相手の政治的立場を考慮しなくてもいい場面だ。
いつもは表に出さない嗜虐的な性質が、アカシアの瞳を鋭利に煌めかせたのに気づいたのは、何人ほどか。
ミルヒを映すモニターから遠い角の画面で、大統領が面白そうに片眉をあげたのが、ちらりと視界をかすめた。




