十二話
三話同時更新です。二話目
ノックの音が響いて、アキヒは唐突に現実に戻った。
音をきっかけに、忘却していた体の感覚が押し寄せる。色、形、空気、熱……。いつものことだが、自分はこんな薄っぺらい視界で生きていたのだったかと少し違和感を感じて。はふはふと荒い息をつき、にわかに火照った顔を手で扇いだ。
スクリーンの数字は、「リンク」が切れた今、ただの数字になっている。何度か瞬きをしてから、アキヒはゆっくりとあたりを見回した。
少し離れた席に、王子とシオン。王子のところから、ユカワが立ち去るところだった。気配を感じたのか、こちらを見上げたシオンと目が合った。位置的に、「リンク」したアキヒの顔を眺められる見物スポットだ。
むう、と自然口がとがった。
「おはよう、アキヒ」
シオンに合図された王子が、立ち上がってグラスを持ち上げた。
「そろそろタイムリミットだ。晩餐会の締めに出かけてくる。……何か、わかった?」
ゆっくり近付いて来て、見上げるアキヒの熱くなった頬をつん、とつついて来た。最後の問いかけが、王子にしてはどこか自信がなさそうだ。
「僕らから見ると、数字がひたすら並ぶスクリーンは粒子の粗いグレーの背景みたいだ。本来ならコンピューターが膨大な計算をともなう演算処理や統計処理をして、ようやく人がその意味を判断できるようになる、そのはずだ。君がイベント会場で直接受け取っていたというデータがこれと同じなのだとしたら、リアルタイムで情報を解析していたとしたら」
「……したら?」
声がひどく擦れた。きっと、久しぶりに発声したから、それだけだ。
王子が、長い睫毛をゆらして一度おおきな瞬きをして、そして、美しい笑顔を浮かべた。それはもう、アキヒですら、がつんと殴られたかと思うくらいの破壊力。
「いや、その仮定は意味がないね。たどりつく結果は同じだから」
「はあ、おなじ?」
まだうまく、会話を飲み込めない。ぼんやり問い返したアキヒに、王子は惜しみなく笑顔攻撃を仕掛けてくる。
「千里眼を持っていてもいなくても、アキヒはアキヒってことだよ。……で、何か分かったのなら、教えて欲しい」
グラスを手近な机に置いて、アキヒの横に腰をかけた王子に、アキヒはごめんなさい、と言わざるを得なかった。
「データは画像でも音でもないから、確かなことは何も分からなかった。セクハラ男は、会場でローゼリア市長や湾口都市市長と直接の接触はしてなかった、とおもう。……ただ」
シオンが、すっとアキヒの前に紅茶を置いてくれた。立ち上る湯気からは、ブランデーの華やかで優しい香り。お礼を言って一口飲むと、言うべきことが頭の中で瞬時に整理された。
「湾口都市市長は、イベントを通して、特に大きな変化はないみたいだった。でもローゼリア市長は……。振れ幅がもともと大きいんだけど、三回、アドレナリンとノルアドレナリンの数値が跳ね上がってた。一度目は、面談のとき。王子からイチゴを受け取る前かな。二度目は、騒ぎのそのとき。アーチ階段の途中で立ち止まって。……三度目は、騒ぎの後、おそらくはミルヒの面談を再開したころ。アドレナリン、ノルアドレナリンの数値は、緊張あるいは興奮状態と連動する。……それだけしか、言えないけれど」
「アドレナリンね……」
「えっと、なんでそのセンサーを搭載していた、といえば、いちご畑の警備に実験的に、なんだけど。……感情に言い換えると、怒り、不安、恐怖ってところ。ホルモンの数値にも個人差があるから、それだけでは感情の激しさは推し量れないけれど、発汗量や心拍数を見ると、三回目が動揺が一番大きかったかな。二回目は、むしろドーパミン量も多くて、少し……たのしそうだった。達成感? 地点ゼロからの位置関係しかわからないけど、高低差が5メートルほどあったから、アーチ階段の途中だってことはわかる。とすると、山頂を見上げても、そこで起こっていることはわからなかったと思うから、直接関係があるかどうか。……あとは、そのときローゼリア市長と一緒にいた小柄な誰かも、ちょっと数値がおかしかったな」
半分は記憶の中の数値を眺めながら話していたアキヒは、カラン、と王子のグラスの中で氷が揺れた音に、びくりとして顔を上げた。
王子はこちらを見ていない。そのことに、アキヒはほっとした。アカシアの目が、ひどく冷めていたからだ。ふとその視線を横に投げた、と思うと、シオンが恐れ気も無く受け止めて。
「お前が撃たれる直前、アーチ階段の脇の通用路を通って上がって行ったが、階段でもたもたしているメトセラを見たな。立ち止まって侍女に籠を差し出して、何か言いつけていた」
「何をしていたのか、見たのか?」
「いや。侍女にもいちごを振る舞っているのかと思った程度だ。会場からの許可の無い持ち出しは厳禁だが、会場内で誰が食すか、まで制限は無かったな」
「規則としてはそうだが、彼女はエイジア以外を拒否したから、籠の中身はエイジアが二つ。あの女が、エイジアを他の女性に譲るとは到底思えないけどね」
「まあ、譲らないだろうな。想像はつく」
肩を竦めたシオンに、アキヒも心中で同意した。あの、エイジアを渡せと怒り出した時の迫力は、まだ記憶に新しい。それに。
「そう、だよね。市長の近くのデータが侍女さんのものなら、いちごを分けてもらった、という感じではなかったかも。ドーパミン値は低いし、血圧高いのに体温が低くて、嬉しい感じはなかったなあ。むしろ、逆……?」
しん、と二人が黙り込む。
言い終わって紅茶を飲んでいたアキヒは、温かな液体がお腹に入るのに、なぜだか背中がひんやりして、肩をすぼめた。
「なるほど。エイジアにご執心だとは思っていたけど、そこまで振り切れちゃったんだね。ちょっとしたやんちゃ気分だろうけど、立派な犯罪だ。シオン、侍女から、証拠を抑えてくれるかな。物証はシオンの手元に。大統領に図り、処遇を考えてもらう。いい加減、幼い娘みたいな甘やかしを止めてもらおう。…… ローゼリア市は大切な盟友でも、市長は彼女でなくてもいい」
「今回の契約範囲を超えてる」
「面倒なことをしでかす女だとわかっていて、見ないふりしただろ、従兄弟殿」
「私も、彼女にはできれば関わりたくない。——確かに、見ないふりはしたな。仕方ない、了解した。……アキヒ、ではまた近いうちに」
打って変わった柔らかな声音で別れを告げられ、あっという間にシオンの姿は扉に消えた。あまりの素早さに、言葉を返す間もなかった。
あんぐりと開いたままだったアキヒの口に、王子がどこからかいちごを放り込んで来た。
「!」
なんだかいちごはもう一生要らないかも、と思ったけれど、口に入ってしまったいちごを吐き出すわけにもいかない。大人しく、絶品の甘さに眉を寄せながら咀嚼して飲み込むと、王子が優雅に立ち上がった。
「酒精を分解するのに効果抜群のいちごを用意してたんだけど、まったくいらなかったみたいだから、別のだよ。……さて、シオンは裏を取るのに奔走してくれるよ。僕は、引き延ばしたパーティの幕を下ろしてこよう。……どうしたの、アキヒ」
心配されるほどのアホ面をしていただろうか、とアキヒは自分の口を手で隠した。
「いや、あの、私、役に立ったのかな、っていうか、そんなに私の言う事を信用していいのかな、って」
もごもご言えば、王子が不思議そうな顔をした。
「それは、ローゼリア市長周辺に関するデータについて? それとも、アキヒのデータ処理能力について、かな」
どっちも、です。と言いたいけれど口を開く事ができずに、じっと王子を見上げる。自分では、データ解析の専門家だという自負がある。データを読み解いた。そこには何の後悔も、ミスもないと信じている。けれど、読み解いた結果を、次に解釈する時点では、様々な予断や仮定が入ってくるものであり、ことは都市間の政治的な問題に絡んでいる。アキヒの判断がそのまま、他人の将来を左右するとしたら、非常に恐ろしいことだ。
まして、今日のようなデータ解析ができるといえば、大学においてですら、不気味なものを見るように見てくる人が多い。役に立ちたい一心で、あまり人に見せないリンクを見せたけれど、それはいったい、彼らの目にはどう映ったのだろう。
どちらも、怖い。
アキヒの身体は、寒いかのように強張った。
「……大丈夫。アキヒのデータ解析は、貴重なとっかかりだ。僕たちは、僕たちの方法で、裏付けを徹底的にとっていく。このデータだって、通常のコンピューター処理をして、証拠として活用する。決して、アキヒの能力に過剰に依存はしない。
アキヒの特別な能力については」
王子のアカシアの目が、ゆらりと濃さを増したように見えた。
「五年の付き合いで、人となりがわかっているから、とも言えるし、都立大学に所属するアキヒが僕らに虚偽を申し立てるメリットは無い、とも言えるけど。
僕は、アキヒ、君を信じる」
濃い緑の霧に、吸い込まれそうだった。
と、ふいにアキヒの目を、王子が覆って、呪縛が解けた。
「ま、その分、アキヒにも僕の事、信用してもらいたいけどね。まずは、できれば、僕が帰って来るまで待っていて欲しいけど。寝ててくれても構わないよ。僕の仮眠室に案内させるから」
「い、いやいや。それは。だめでしょ。だめだめ」
「そう? 戻って来たら、家に送るか、客室に案内するよ?」
「帰れる、帰れる! まだ都電は動いてる時間だよ……ね」
「まだ、十時過ぎだ。で、大学に行くの? 暗殺研究室があるって怯えてた大学に、この夜に?」
「う! うう……忘れてたのに」
「どちらにせよ、まだ帰宅もデータの持ち出しは許可できないよ。事件はまだ終わったわけではないし、安全を保障できない。あと、このデータを客観的に証拠として使えるように改めて解析する必要もあるから、君のアドバイスがまだまだ必要だ。それにね」
王子が、目から手を滑らせ、アキヒの髪ごと、片頬を包んで来た。近い。イベントの時だけで結構です! というか、あれより近くないか……!?
油断。
アキヒの脳内に、でかでかとその二文字が輝いた。
しばらくその体勢で固まっていたアキヒに、王子がふっと笑った。いつもの爽やかな笑顔ではない。片方だけで笑う、少し意地悪な顔だ。
それを見た瞬間、自分が沸騰した、ような気がした。
「……へえ、そうか。地の僕だと、そんな反応をしてくれるんだね。これは、いいことを知ったよ」
し、したなめずりしてませんかあ?
顔が熱いのに、背筋は寒い。さらにアカシアの目が近付いて来て、ふわりと香る、いつの間にか嗅ぎ慣れた爽やかなコロンに気を取られた隙に、頬に温かなものが擦り付けられて、さっと離れていった。
「ま、今日はユカワが怖い目をしてるから、悪いことはできないね。じゃあ、行ってくる」
「ほ、ほっぺたすりすりした……?」
呟きはスルーされ、王子は雲隠れのように部屋を後にした。
意外と固くて、滑らかで温かな感触を思い出して、頬を拭いていいのか悪いのか、自分の顔なのに触ることもできずに百面相をするアキヒに、穏やかな声がかけられた。
「お部屋に案内いたします。データの回収だけ、お願いします。……消毒されたければ、これをどうぞ」
一部始終を見ていたらしいユカワに携帯ウェットティッシュを手渡され、アキヒはしばらく立ち直れない予感がした。




