十話
三話同時更新です。三話目
神聖な学び舎だと思っていた自分の大学構内に、そんな黒い研究室が存在していたとは。何も知らずにわざわざその教授の講義にもぐって、さらに積極的に質問とかしていた。
日常に隣り合わせた裏の顔が、とてつもなく怖い。できることなら、すべて忘れて昨日までの平穏な大学生活を取り戻したい。いや、返せ。
気が高ぶってうっすら涙目になったアキヒに、なぜか王子がご満悦な顔をした。いや、なぜか、とつけたい気がするだけだ。もうアキヒにも分かってきた。王子は、いじめっこ気質だ。
喜ばせるだけだと悟って、必死に瞬きをして涙を散らすアキヒを哀れんだのか、シオンが「それ、なんとかしろ」と突っ込みを入れてくれ、王子は咳払いをした。
「性格が悪くてなんぼの世界に生きてるからね。お褒めいただきありがとう」
「ほめてません……」
「まあ、空の都市の売りは、研究開発による数々の新商品と、人材および人材育成、だからね。その投資として、優秀な人材を大学スタッフに据えるための予算は他都市の数十倍はかけているけど、それだけの価値があるんだよ。
ここ数年はいちごの売り出しがメインだけど、毎年他都市の有力者を招いたイベントを行うときには、その後数日かけて、彼らがうちの学生たちの様々な成果発表に触れて、引き抜く人材を探したり、仕事の依頼を検討したり、若者の留学先として検討したりする、というのは、学生なら知ってると思うけど。
……そこに、彼らも便乗した、のだろうね。仕事の依頼を受けたのか、自分たちからアピールをしたのか……あの教授も、学務規定には縛られる。大学には、自分の職務に関連したあらゆることを報告する義務がある。大学側が事前にこのことを把握していたとは考え難いが、後に報告の義務があるのに、認められる気で僕を襲った。あるいは、襲うことを容認した……」
切られた言葉が怖くて、沈黙を埋めたくなった。ただ、それだけだ。
「やめてよ。ちょっと、誇張してるよね。学務規定に禁止されてないから、人材売り込みのためとかなら、誰かを暗殺してもいい……なんて、そんなことないよね。
ええ、まってまって、裏のお仕事だもん、誰々がやりました、なんて発表できないよね。ってことは、仕事の依頼ならもちろん、人材売り込みだとしても、きっと相手がいるよね。まさにその依頼主が試験結果を見届けられるようになってる? 直後に身元を引き受けてくれるとか?? 万端過ぎて、怖い!!!」
叫び終えても、しん、と沈黙が横たわっていた。
え、と二人を窺えば、ひとりは感嘆したような、ひとりは心底呆れた表情をくれた。
そして、いつもより静かに、しかし黒く、王子が笑う。
「アキヒはほんと、外さないなあ。僕と初めて会ってすぐに僕の性質を嗅ぎ付けたり、踏み込まず近寄らずを貫く姿勢も大好きだけど、たまに無防備に突っ込んでくるのが、たまらないね。さらに今回は泣き顔なんて見せられると、踏みとどまるのも大変だよ。わかってる?」
「わ、わかってない。わかってない、デス」
白金の髪も、銀緑の眼も、いまや黒い靄で塗りつぶされそうなイメージだ。チーズ臭なんて、もう生温いんですけど。
さっきからテーブルについている王子と壁際のアキヒとの距離はわりとあいたまま、詰められてはいない。なのに、今にも頭からがぶりと丸かじりにされそうな気配を感じる。
アキヒは機械的にぶんぶんと首を振った。酔いが、さらにシェイクされた。
その危うい手からグラスをするりと受け取って、肩を支えて席にエスコートしてくれたのは、シオンだ。邪魔をされた形の王子だが、気にする様子もなく、いつの間にか手にしていたワインを愉しんでいる。
「その様子だと確信を持っての発言ではなさそうだが、おそらく当たりだ。依頼主は、あの会場にいたはずだ。その点は、ゾイマフラー教授もぼやかしながら認めている。彼も分が悪いことはわかっているのだろう。問題は、依頼主を特定できるかどうか、だ。彼らと外部との接触を断っておけるのは、パーティ終了まで。今はその時間を引き延ばしている段階だ。スタッフから聞き取り調査をしているが、有力な情報は得られていない。目星を付けるだけでもいい。何かアキヒのデータに含まれていないだろうか」
「はい、もちろんよろこんで協力します!」
これ以上、甘い毒のような空気を意識したくなくて、提案に飛びついた。
その瞬間、王子が天使画のような笑顔を浮かべたのに、背筋が震えた。これは、うまく誘導されたのか?
だが、引き受けたからにはベストを尽くさなければならない。ゾイマフラー教授ではないが、都立の大学に籍を置くものとして、都のトップ層に逆らうのはまったくもって分が悪い。
「でも、イベントを通して会場中の情報をチェックするにはとても時間がかかるよ。何か、絞る条件はないのかな。……というか、ここでのんびりお酒とかごはんとか、いいの?」
「腹が減っては、ってね。パーティの冒頭で僕は挨拶をしたし、今は親父殿が相手をしてる。僕はデザートの時間には、また顔を出すことになっているよ。エイジア関連の業務では僕に決定権があることは、既に周知されているし、下心のある人たちは首を長くして待っているだろうね」
にっこり。
え、それって、データ解析にプレッシャーかけてる?
おののくアキヒの横で、シオンは生真面目に黙考したあと、口を開いた。王子のチーズ臭に気づかないはずはないので、よほど慣れているのか、気にしていないのか、アキヒはシオンにもなんとなく別世界を感じた。
「……実行犯はお粗末だったから、ターゲットに接近する以前に捕獲できた。ゾイマフラー研究室の四回生はそれですべてだ。司令塔は指導係のポストドクター。今回会場にいなかった他の所属者も、身柄を押さえてあるが、今回の作戦に関与したのは、教授と三人の四回生、ひとりのポストドクターですべてだと、教授も証言している。
学生らは、依頼主を知らないようだ。ポストドクターにも知らせてはいないと教授は言ったが、できのいい弟子のようなので、自力で情報を得ていた可能性は高い。……一応、この都の所属なので、再起不能にはできないし」
シオンは、ごく真面目にぼやいた。アキヒはひとり、身を縮めた。
「そんなにできがいいの? あのいかれた男」
「そう、だな。まだ未確認の情報が多いが、秘蔵っ子と言われていたようだ。もともとゾイマフラー研究室の出身で、引く手数多だったのを断り、三年ほど自主的に砂漠の都市をまわっていたのを、最近教授が呼び戻したと、学生らが証言している」
「つまり、三年間、現役だった、と」
「そうだろうな。研究室は教授の一頭体制だが、ポストとしては助教が空席のままだ。そのポストに据えるために呼び戻したのではないかと、噂になったらしい。が、大学にそんな申請はない」
「名前、何だっけ」
「イアン・ドラグーン」
「大層な名前だね」
どたどたと二足歩行をして来て、小さな前足を揃えて口を開け、おもむろに灼熱の炎を吐き出すまるっとした恐竜の姿を思い浮かべ、どこかで同じイメージを持ったな、と記憶を探ったアキヒは、思い切り渋い顔をした。
「どうした」
「その人、知ってる。そう、そうだ。目が一緒だもの。あいつか! あのセクハラ男! えー、えー! 耳、舐められた!!」
つい先日、学内忘年会で絡んできた男を思い出した。極めて不愉快な記憶として。
正体の分からない刺客に受けた不埒な仕打ちは、犬に噛まれたか蜂に刺された感覚で、洗って消毒すれば気にしないでいられたのに。あの男が、自分をアキヒ・アラニアだと認識した上で仕掛けて来た行為だと分かった途端、耳をちぎりたいくらいの嫌悪感に苛まれた。
拳で耳をこすりながら、喚くように伝える。
「あの男なら、確かに助教になる予定で戻って来たって言ってた。ただ、やり残したことがあって教職員のポストに就く前に片付けてしまわないといけないから、それからだ、とかって。
なんだかねちこく話しかけてくるし、やたら触るしで気持ち悪かったから覚えてる! ゾイマフラー教授にだって、なんだか偉そうな態度だったし」
「やり残したこと?」
「うん、ドヤ顔で意味深だったけど、突っ込んでは聞いていない。ただ……薔薇石と墨真珠とか、報酬として、とか自慢げにしてた。もう、わけわかんない!」
耳を、穴ごと抜き取って洗いたい!
発狂しそうになったアキヒの手を、すぐ横から伸びた大きな固い手がとめた。
「大丈夫だ」
穏やかに、大丈夫だ、と繰り返されて、アキヒの腕から力が抜けた。
「あの男、舌を引っこ抜いておくから」
物騒なことを爽やかな笑顔で言って、王子がそっとアキヒを引き取った。
消毒だよ、とおまじないのように言って、耳に触れてくる。ほんのり、優しい香りがして、何かクリームを塗られているのだと気がついた。長い繊細な指が耳介の複雑な形を確かめるように滑る。
心地が良くて、ぼんやりしていると、仕上げ、と耳に息を吹きかけられた。
「ミルヒも、セクハラ!」
叫んで飛び退いたけれど、息に乗って鼻をかすめたワインの香りに、耳への嫌悪感は見事に治まった。同じようなことをされているのに、不思議だ。アキヒは本気で首を傾げた。




