障子に目あり、彼女に目なし
僕はピアノの音色に導かれるままにたどり着いた。
たまたま歩いていた道で、路地の向こうから聞こえてきたピアノの音を頼りに、ここまでたどり着いた。
そこは現代では珍しい和風の家で、家の周りを木製の塀で囲われていた。
その塀の向こう側からピアノの音は聞こえていた。
僕はもっと近くからピアノの音を聞きたいと思い、塀の一部の木板が割れてるのを見つけ、そこから身体をくぐらせて塀の中へと入った。
くぐった先には、障子で仕切られた部屋が見え、その中からピアノの音は聞こえていた。
『どんな人が弾いているんだろう』
そんな気持ちが芽生え、縁側に膝をついて上がり、障子に指を差して穴を開けて中を覗き込んだ。
そこには和風の家には似つかないピアノの前に座り、流れるようにピアノを弾いている女の人がいた。
閉め切って薄暗い部屋の中で、長くて黒い髪を緩やかに揺らしながら弾いているその姿は、子どもの僕から見てもとても綺麗だと思えた。
よく見ると、目を閉じて弾いており、そのことが更に女性の美しさを引き立てていた。
僕のことに気づいていていないようで、僕の知らないピアノの曲を延々と弾き続けていた。
バレたら怒られるとは思っているのだが、どうしてか目が離せない。
ピアノが僕を誘惑している音に聞こえてきて、女性から目が離せなくなる。
瞬きも忘れてピアノと女性を見続けた。
そしてピアノの音が鳴り止む。
鳴りやんでも僕は女性から目を離すことはできなかった。
余韻を楽しむかのように見続けた。
すると女性がゆっくりと顔を上げた。
「誰かいるの?」
そうピアノに似た綺麗な声で言った。
僕はハッと我に返り、障子から目を離した。
そして自分がしていたことを思い出し、慌ててその場から離れようとした。
「待って! 行かないで!」
障子越しに聞こえた声がそう言って、僕は動きを止めてゆっくりと振り返った。
しかし怒られるような感じの口調ではなく、どこか嬉しそうな泣き出しそうな声音だった。
「お願い。あと一曲でいいから。誰かは知りませんが、あと一曲だけ聞いてもらえませんか?」
僕は迷ったが、もう一度縁側に膝をついて上がり、さっき開けた障子の穴からまた覗き込んだ。
女性はピアノの前に座ったままこちらをぼんやりと見ていた。
目を開けずに閉じたまま。
少し不思議に思ったが、僕の気配を感じたのか、女性は小さく『ありがとう』と口にして、ピアノの鍵盤に指を置いた。
そして流れてくる綺麗な音色。
さっきまでの緩やかな音とは違い、少し明るい感じの曲だった。
前の曲が森の中を歩いているような曲なら、今の曲は山登りで山頂が見えてきた時のような曲だった。
心が躍るような曲。
きっと僕に向けての曲なのだろう。
そんな気がした。
曲調はなだらかに移っていき、低音が多い、力強い曲に変わる。
それに合わせて身体も動くが、目は閉じられたままだった。
そして力強い曲調が一転し、高音メインで弾かれる穏やかな曲調へと移る。
これで曲の締めのようで、そのパートが終わると、女性はゆっくりと鍵盤から手を離し、ゆっくりと膝の上に手を置いた。
僕は完全に女性に惹かれていた。
目も耳も心も惹かれていた。
そして女性はピアノではなく声で僕に話しかける。
「付き合ってくれてありがとう。良かったらまた聴きに来てください」
僕はその言葉にまたハッとして障子から目を離し、今度こそ慌てて塀をくぐり抜けた。
夢だったのではないかと思い振り返ってみたが、そんなことはなくて、その家はそこにあって、塀の穴もそこにあった。
僕に残ったのは、耳から離れないピアノの音と、目から離れない女性の姿だった。
「あら。また来てくれたんですか?」
気がつくと僕は、またピアノの音に誘われるかのようにその家へとやってきて、前に開けた障子の穴からピアノを弾く女性のことを見ていた。
おしまい
『引かれる』『弾く』『惹かれる』
同じ音を持つ三種の『ひく』をテーマにしたお話です。
不思議な感じが伝わればいいなー。