十五話
「パーパ~♪」
「どうしたものかな」
太朗と手を繋ぎ満面の笑みを浮かべる雪に、太朗はぼやく。
あの後、周囲を説得するのに今日一日の気力の大半を消費したのはまず間違いない。お陰で既に気疲れ気味だ。
太朗を父親と認知した雪はべったりと甘えており、歩調も軽やかなものだ。
――まさか、刷り込みじゃないよな。
特定の期間に生じる、物事を短時間で学習し、それが長期間継続される学習現象の一つであり、その著名な例がアヒルの雛の刷り込みだ。
これは生後間もなく雛鳥が目にした動体を親鳥と認識するもので、今回の雪の状態と酷似している。記憶を全て失った雪の精神状態は赤子同然であり、彼女が最初に目にした者は……太朗だ。
しかし、間違っても人で刷り込みは発生しない。当然、初めて見た者が太朗だからといって、彼を親と学習するわけではない。
そのことを理解している太朗がそのような思考を展開するのはつまり、言ってしまえばなんということはない、ただの現実逃避だった。
「いいな~雪ちゃん、太朗ちゃんと手を繋いで~」
「花姉さん、そんな子供みたいに羨ましがらないで下さい……恥ずかしい」
「そう言う織姫ちゃんだって太朗ちゃんと手、繋ぎたいでしょ?」
「……私は、時と場合を選びますから」
「織姫ちゃん偉いね~」
「花姉さんは少し我慢というものを覚えたほうがいいですよ」
傍から見れば仲睦ましく見える二人の後に続くのは可憐な一組の少女達。
シックなワインレッドのワンピースに身を包み、烏羽色の髪をポニーテールにした織姫は小さく溜息を漏らす。
身長は既に一六〇を超え、体が描く優美な曲線は同級生とは明らかに一線を画する。
落ち着いた雰囲気と相俟って、どう見ても小学生には見えない。
対して、花湖はプリントTシャツの上にオレンジ色のパーカーを羽織り、下は機動性を重視したのかホットパンツと、外気を鑑みると些か寒さを感じさせるファッションだ。
更に背丈は一五〇に満たず、その純朴な気配もあって花湖の外見年齢を大幅に下げている。
並んで歩く二人の少女の実年齢は、外見と見事なまでに反比例していた。
「有力な情報は未だなし、か」
齎されるメールを迅速に処理し終えると、太朗は携帯を閉じる。
花湖が太朗と手を繋がなかったのはなんということはない、その手は携帯に奪われていたためだ。携帯に送られてくる内容はどれも、実は雪が太朗の隠し子ではないかというものだった。発端は考えるまでもなかった。
――皆、少しは冷静になって考えてくれ。
太朗は現在、齢十六。雪は恐らく七、八歳だろうか。
もし万が一、いや億が一、本当に雪が太朗の子だと仮定すると、太朗は八歳前後で異性と情を通じたことになる。
――その年じゃ精通すらしてないわ!
「どうしたの、パーパ?」
「いや、何でもないよ……雪」
名前と共に、頭を太朗の大きな掌で優しく撫でられ、雪は頬を綻ばす
その光景は、誰が見ても父と娘の触れ合いにしか見えなかった。
黒のワイシャツに、深紅のジャケットを羽織り、ダークブラウンのスラックスを身に着けた太朗は、高校生とは思えない威厳を放っていた。
普段どおりのオールバックの髪型も、その風貌と相俟って、外見年齢を引き上げることに一役買っていた。
制服姿から私服に変わることにより、太朗の外観は完全に未成年の範疇を逸脱する。
満面な笑みを零す雪を引き連れるその姿は、何処から見ても一児の父にしか見えない。
梟光寺太朗、齢十六歳の少年である。念のため。
「しかし……懐かしいな」
「何が何が?」
顔を突き出す花湖に太朗は僅かに目を細める。
「この地に戻ってきた時を思い出してな……あの時もこうして手を引いていたな」
「そうですわね……懐かしい」
太朗の言葉に、織姫の脳裏に過去の情景が映し出される。そこには、今の雪と同じ年頃の自身の姿と、今と変わらぬ大きな兄の姿があった。
「あっ、織姫ちゃんいつの間に!」
「先程言ったじゃないですか、時と場所は選ぶ、と」
「不覚!」
携帯を懐に仕舞った太朗の手には、気付けば織姫の手が収まっていた。その事実に、花湖は肩を落とす。一目見て落ち込んでいることが分かるその姿に、雪は太朗と繋いでいる手と花湖を交互に見比べる。
「花ねぇ~」
「……何、雪ちゃん」
しょんぼりと散歩をお預けされた犬のように項垂れる花湖に、雪は遠慮がちに提案した。
「雪と交換、してもいい…よ?」
「本当に!? それじゃ遠慮な、く!?」
突如、全身を奔る氣圧に花湖の身の毛がよだつ。その威圧の正体を花湖は瞬時に悟る。
太朗の表情は先程から全く変わっていない。表情を形作る全ての筋は微動だにしていない。しかし、一つだけ明確に違うものがあった。
それは瞳、そこにはこう書かれていた。
『こんな幼子が遠慮しているというのに、お前は我慢の一つも出来ないのか!』
「い、いいよ。雪ちゃんが繋いでいて」
「……本当に?」
本心ではずっと繋いでいたいのだろう、花湖の言葉に明らかな安堵の色が伺える。
「う、うん。お姉ちゃんのことは気にしないで」
本心とは真逆の言葉に、花湖は心中で涙を流す、号泣と呼べる滝の奔流を。
「ありがとう、花ねぇ!」
「ど、どういたしまして」
再び雪の顔に笑顔が戻る。それだけが、花湖を満たす悲しみの心をほんの僅かに癒す。そんな、悲観に暮れる花湖に織姫は小さく溜息を吐く。
「花姉さん」
「……」
返事する気力もないらしい。余りに情けない小さな姉貴分に織姫は空いている手で顔を覆う。
「仕方ありませんね……ほら」
「あっ」
「途中で交代して下さいよ?」
突如、掌から感じる慣れ親しんだ温もりに、花湖の瞳に光が宿る。気付けば、花湖の手は厚く大きな掌に包まれていた。
「織姫ちゃん……大好き!」
「花姉さん!? や、やめて下さい、こんな人の往来で」
太朗の手の所有権を譲られたことに、花湖は歓喜極まり織姫に抱きつく。織姫は羞恥心により花湖を引き剥がそうと試みるが、両者の肉体スペックは隔絶したものがある。花湖が拘束を解く意志がない限り、状況が変わることはない。
「花ねぇと織ねぇ、仲良し?」
「あぁ、そうだな」
「そっか♪」
仲睦まじい二人の様子に雪は嬉しそう笑う。子供の笑顔というものは自然と伝染するものだ。
太朗は愚か、周囲を行き交う人たちもその顔には笑みが浮かんでいた。
「……雪」
「パーパ、何?」
「この辺りに見覚えはあるかな?」
「ん~」
周囲をキョロキョロと見渡す雪に太朗は既視感を抱く。
――そういえば、彦星がこんな感じだったな。
アメリカから帰国し、家に向かう道中、彦星は今の雪のように周囲を面白そうに見回していたのを思い出す。昔住んでいた場所をまるで覚えていなかった彦星の態度に、僅かに寂寥を感じたものだ。
揚葉町の新居住区画であるこの場所に建つ住居は洗練されているものの、どれも似たような建物が大半を占める。
学術都市計画が発動し、移住する研究員やその家族が住む郊外住宅地を一斉に建築したため、どの建造物もその年代のスタイルに納まるのは道理である。
太朗や花湖の居住区画は逆に、昔ながらこの地に家を構えており、その建造物も歳月を感じさせる造りが多い。
郊外にある二種の住宅地の風景は明らかに異なり、地元住民の反発も決して小さくなく、以前から揚葉町に住む住民を旧住民、新たに住み着いた住民を新住民と呼ばれ、開発当初は何かとトラブルがあったらしい。
計画完了から既に数十年経っている現在では、両区画の住民の仲は極めて良好である。
家の周辺の住民は殆ど面識があり、そこに雪の姿がないことも分かっていた太朗はまず、この新居住区画に足を運んだ。
建設ラッシュは当の昔に終わり、近頃新居を建設していた場所は限られている。その辺りを中心にこうして歩いているのだが……
「ないよ、パーパ」
「そうか……」
左右に首を振る雪に、太朗は小さく頷いた。
「……ごめんなさい」
「何故、雪が謝るんだ?」
「だってパーパ、落ち込んでる。雪のせい、でしょ?」
雪の発言に、太朗は刹那、声を発せなかった。
会って間もない人間にこうも容易く心中を見透かされたことなど、一度としてなかった。
花湖でさえ、長年の年月を共に過ごして今の読心力が培われたのだ。
――何なんだ、この娘は。
「パーパ?」
「何でもないよ、雪」
不安を覗かせる雪の心を解すため、太朗は掌に僅かに力を込める。手の感触に、雪の視線が一瞬外れるが、すぐに戻される。その顔にはいつもの笑みが浮かんでいた。
「パーパ、大好き!」
破顔一笑した雪は腕に強くしがみつき、花湖のように全身で嬉しさを表現する。
その姿に太朗も笑みを浮かべつつ、新たに浮かんだ不安材料に胸次で溜息を吐く。
――このまま保護者が見つからず警察に届け出た場合、雪は黙って従うだろうか。
「パーパ~♪」
その微笑に胸に痛みが走る。それがただの幻覚であると分かっているのに、何故だが胸が締め付けられる。
「そろそろ次に行くか。花湖、いい加減織姫を離してやれ」
「は~い」
花湖の拘束が解かれ織姫はホッと胸を撫で下ろす。
「織姫ちゃん、早く行こうよ~」
片手はしっかり太朗の手を離さず、花湖は空いた腕を大きく振る。
「全く、誰のせいで……今、行きますわ」
乱れた身嗜みを整えると織姫はやや小走りで太朗の後ろへ続く。
「では、行くか」
――既に新居住区画はあらかた見て回った。雪の反応から察すると、この周辺に越して来た子という線は消える。ならば……。
太朗は次の目的地に向かうべく、歩を踏み出す。
日は、未だ高い。