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十三話

 硬質な音と水が弾ける音が室内に木霊する。


「参ったな」

「本当に」


 太朗と織姫の表情は暗い。お互い、先の出来事を忘れるように手を動かす。


 あの後、太朗は様々な質問を少女に投げ掛けたが、全ての返答はただ一言で片付いた。


『分からない』


 太朗は深い溜息を漏らす。その顔には憂いが滲んでいた。


 ――まさか、記憶喪失とは……


 過去の記憶を一切思い出すことが出来ない彼女の状態は、医学で全健忘状態と呼ばれている。


 この発症の引き金は心的外傷やストレスが大半を占める。頭部外傷による場合も考えられるのだが、先程、少女の頭を撫でている際に調べてみた限り、そのような痕跡は発見できなかった。


 外見から推測するに、齢はおそらく七、八歳あたりだろう。その年で記憶の全てを失ってしまうほどの精神的苦痛を受けていたかと思うと、遣り切れなかった。


「いかがなさるんですか、お兄様?」

「そうだな…」


 洗い終わった食器を織姫に渡しながら太朗は今後の展望を考える。


 私心は少女の記憶を取り戻す手助けをしたいと思っている。しかし、家長代理としての思考はそれを決して認めない。


「やはり、警察に届けるしかないのでは」


 渡された皿を乾いたタオルで拭い、戸棚に戻す織姫の表情はどこか苦々しげだ。


 何も知らない年下の子供を、無責任に放り出すような行為に対し、抵抗があるのだろう。


「あまり気が進まないが、そうする以外妥当な手段もない、か」


 いくら少女の力になりたいと思ったところで、太朗に少女の身柄を保護する地位などなければ、養うだけの財力もない。


 人一人養うのは並大抵のことではない。


 少女の衣服は、食費は、住居は、掛かる費用は誰が持つのか。


 太朗もバイトしている身とはいえ、家族を養えるだけの額を稼いでいるわけではない。自分達を養っているのは父であり、太朗ではない。


 父に事情を話せば、恐らく家に置くことを許してくれるだろう。医者であり、何より人を救うことを使命としている人だ。


 しかし、それは出来ない。太朗は託されたのだ。


『お家の、こと……よろし、くね、太朗……ちゃん』


 懐かしい声が脳裏に過ぎる。太朗はその声に応える義務があった。


 少女を家に置くことは父に、梟光寺家に更なる負担を掛けるのと同義だ。決して認めるわけにはいかない。善意だけで全てを救えるほど、世界が優しくはないことを太朗は知っている。


 ――しかし、それではあまりに救いがない。


 故に太朗は考える。家庭に迷惑をかけず、己の出来うる範囲で少女の力になれる方法を。例え、それが偽善だと分かっていても。


 よく、優しいとか包容力があるなどの評価を得るが、太朗はむしろ自身がその対極にあると信じて疑わない。


 他者を助けるのは、単に厄介事が視界内に放置され続けられことが耐えられないだけで、そこに善意はない。


 むしろそれによって生じる相手の己への好感度の上昇と、借りという名のカードを手に入れるという打算が瞬時に働くどこまでも利己的な人間であり、褒められる要素など欠片もない。


 自身をそう認識している太朗だが、それは当人の思い込みであることに気づかない。


 少女を思う彼の表情はどこまでも真剣なものであることに。


 ――だがどうする。失くした記憶を取り戻すことは容易ではない。そもそも記憶を失う理由が心因性の場合、精神がその状況下に耐えられなくなった可能性が高い。忘却した忌々しい記憶を無理やり思い出させることが果たして、彼女にとって本当に必要なのか。


 眉間に皺を寄せ、熟考する太朗。意識は目の前の食器に向けられていないはずだが、それを洗う手の動きは何の淀みもない。


 機械的とすらいえるほど無駄のない動きで食器を片していく太朗に対し、織姫は何も言わず黙々と洗い終わった皿を拭っていく。


 ――だが、このまま何もせずに警察に引き渡した場合、織姫や花湖は負い目に感じるだろう。それは何としても避けたい。ならばどうする、私に出来ることなど限られている。その中で、私が使える手段は何だ。金も地位も名声も意味を成さない。今、必要なのは彼女の失われた記憶を刺激する何かと、彼女を知るまたは保護しうる存在の確保。それをどうやって見つける。私の情報網など高が知れている……情報網?


「ふむ……私に出来るのはこの程度、か」

「何かお考えが?」


 太朗の浮かべた表情から織姫は何かを察する。


「あぁ」


 最後の皿を織姫に渡すと、太朗は濡れた手をタオルで丁寧に拭うと、ズボンのポケットから何かを取り出した。その手に収まっていたのは、若干型の古い携帯電話だった。


「頼りになるご婦人達の助力を得ようかと、ね」


 太朗は悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべると、リビングへと足を運ぶ。その後を、織姫が慌てて続く。


 リビングには問題の少女が、またしてもテレビの前に腰を下ろしていた。


 映し出される番組はどうやら何かのドラマ番組のようだ。一人の男性をめぐり、女性同士が互いを罵り合っている光景に太朗は眉を顰める。


 どうも、少女は番組の中身自体に興味を持っていないように見える。


「雪」


 太朗の言葉に、少女は勢いよく振り返る。


 雪――それが少女の名前である。


 名前を思い出したわけではない、名無しではまずいと家族会議の最終議題として皆で決めた名だ。命名者は太朗だ。


『髪と肌が雪のように白いから』


 拾ってきた犬猫につけるような余りに安直な名付け方に、太朗は大いに後悔していた。


 しかし、少女はその名を気に入ったのか、太朗の呼び声に陽だまりのような笑顔を浮かべながら近付いてくる。


「何?」

「ちょっと、そのまま動かないでくれないか?」

「はい」


 太朗の言葉に少女、雪は頷くと文字通り体の動きを止める。あまりに固い体勢に織姫は雪に近づくと、体にそっと触れる。


「雪、もう少し力を抜きなさい」

「でも、動かないでって言われた」


 体を身じろぎ一つせず、口だけ動かす姿は異様であった。織姫は視線で太朗に訴えると、太朗はそれに頷き応える。


「言い方が悪かったな……雪、そこのソファーに座って、こちらを見てくれ」


 太朗の言葉に、雪はまるで彫像のように凍っていた姿を氷解し、ソファーに腰を下ろすと、太朗に視線を寄越す。その視線の先には携帯を構える太朗の姿があった。


「……雪」


 柔らかな慈愛に満ちた太朗の呼び声に釣られ、雪はふわりと微笑んだ。


 その瞬間、小さなシャッター音が切られる。


「まぁ、こんなものか……雪、もういいぞ」


 太朗が持つ携帯電話のディスプレイ画面には、微笑を浮かべる可愛らしい少女の姿が見事に収められていた。


「何したの?」

「あぁ……雪を撮ったんだ」

「雪を?」

「そうだ」


 近づく雪に太朗は膝を折り、己の手にある携帯を彼女に見せる。


「雪がいる!?」

「綺麗に撮れていますね、流石お兄様」


 驚きに思わず身を引く雪の背を織姫が後ろから受け止める。背後に感じる感触にこれまた驚く雪だが、それが誰であるか分かると体を預ける。


 出会い当初とは違い、織姫にも随分と心を開いたようだ。


 太朗は織姫と雪のツーショットに頬を緩めながら、携帯のボタン上を指が踊る。次々と画面が移り変わり、最後のページに太朗は用件を記すと送信ボタンを躊躇することなく押した。


「これで少しは進展があればいいのだが……」


 OLNの情報網は、この揚葉町に限れば最大最速と言えるだろう。奥様方の情報伝達速度は並ではない。数刻とせぬ内に、この地区全域の会員がこの件を知ることとなるだろう。


 あとは人海戦術だ。


「さてと……織姫」

「はい、何でしょう?」

「私はこれから雪を連れてこの辺りを見て回るつもりだ。お前はどうする?」


 情報を待っているだけでは駄目だ。自分から率先して集めれば、それだけ雪の記憶を取り戻す可能性が上がる。


 太朗は今日、雪を家に泊めるつもりはなかった。


 長く接すればするほど、雪に情が移ることは必然。別れによる心の傷は最小限に留めるべきと、太朗の冷酷な思考がそっと呟く。


 雪の記憶と保護者を探す期間は日が暮れるまで、太朗はすでに決めた。


 その後は交番に雪を連れて行く。例外はない。


 だからそれまで全力で力を貸す、雪と呼ぶこの小さな少女のために。


「私も、行きます」


 太朗の瞳から何かを読み取ったのか、織姫は毅然とした態度でそう告げる。


「そうか」

「ではまず、どちらに向かうのですか?」


 その問いかけに太朗は苦笑を浮かべ、それに答えた。


「最初は……お隣さんだ」


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