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九話

 逸る気持ちを抑えられない。うずうずと片足が疼き、踵が小刻みに揺れる。


 担任の意味のない余談話に眉が自然に角度を変える。恐らく眉間には皺が寄っていると思うけど、表情を変えようとは思わない。


 自分を偽るのは苦手だ。思ったことは素直に正直に、それが今の私の信条だ。


 ――まだかまだかまだかまだか……


 視線に氣を込めて担任に叩きつけると、一瞬、教師の肩が跳ねるのをこの目でしかと捉える。


 氣とは森羅万象に宿る内に秘めた力の総称だ。それは何も特別なものではない。生物は当然、道端に転がる石ころ一つにすら氣は宿っている。ただ、無機物に宿っている氣のそう大量は生物と比較して絶対的に小さいため、ないように感じてしまうだけだ。


 けど、この氣が実在すると信じる人は極僅か、大抵はフィクションの産物としてしか見ない。何故なら普通の人達には、氣を見たり、触れたりすることが出来ないから。正確に言うとその術を知らないからなのだが。


 けれど、人は無意識に氣を感じている。現に、今の例がそう。


 誰もが「見られている」と感じたことが一度や二度はある筈。俗に言う「視線を感じる」というやつだ。あれは、視線に込められた氣を無意識に感じ取っているから気付けるのだ。


 他には怒っている人に近寄り難いのは通常以上に強い氣が、攻撃的に周囲に向かって無差別に広がっているために起こるものだったりする。


 そして、私の氣の種類を担当は否応なく理解している筈、コチラに視線を送る教師の視線からは弱弱しい怯えの気配が伝わってくる。


 私はにこりと微笑む。担任はひくりと微笑む。勝負は決した。


「そ、それじゃあ今日はここまで、号令を」

「起立!」


 その声にダラダラと生徒達が席を立つ。早く教室を抜け出したい私は、文字通り周囲に睨みを効かせる。すると、ノロノロとしていた姿が嘘のように機敏とした動きを見せる。


 彼らは恐らく自分の背後に、肉食獣が顎を開いて佇んでいるような錯覚を起こしているに違いない。


 今の私は相当苛立っている分、いつもより氣の質が攻撃的だ。加減が効かなくてほんの少し申し訳なく思うけど、すぐに立たないのが悪いと責任転換する私は幼稚なのだろう。


 少なくとも太朗ちゃんは急いでいるからといってこんなことはしない。でも後悔はしていない。


「礼」

「ありがとうございました!!」


 元気良く声を上げると、私はすぐさまバックを手に取る。


「じゃ、また月曜!」

「ナコ、じゃあね~」

「ナコっち~オフクロさんによろしく~」


 親しい友達に別れの挨拶を告げると、花湖は獣のような俊敏さで廊下へと躍り出る。目的地は2-B、目的の人物は言わずと知れた太朗その人だ。


 いつものように太朗の氣の波動、即ち気配を探る。が、その気配に思わず眉を顰める。


「やっぱりおかしい」


 慣れ親しんだ気配のようで微かに違う。何と言えばいいか、99%の確率で太朗であると断言できるのに、残りの1%がそれを許さない。太朗の中に別の何かが混じっているような妙な気配が花湖の確信を揺るがしていた。


 それに加え、感じる波動が日に日に弱まっているように花湖は感じていた。これは体調や精神が不安定な場合によるものが大半だ。


 太朗の場合、精神が不安定になることはまずないと断言できるため、調子が悪いと思われるのは恐らく体のほうだ。


 氣はその存在の状態を如実に物語る。


 何故ならば、氣はその存在の根源に位置するもの、人が己の意志で心臓の鼓動を制御できないように、氣の波動もまたコントロールすることは並大抵のことではまず不可能。いかに太朗といえども、その域まで今はまだ達していない。


 花湖は太朗のいる教室までものの数秒で辿り着くと、扉の内枠に収まる硝子越しから目的の人物を瞬時に捉える。やはり感じていた気配は太朗のものだった。瞳に写る彼の顔色は何処となく顔色が悪く見える。


 ――太朗ちゃん、また無理してる。


 傍から見ればいつもと何ら変わらない姿に見えるが、彼女の瞳にはそうは映らない。呼吸の回数、重心の位置、身体の動き……普段と微細に異なる差異を的確に捉える。それは武道家の性故か、共に歩んできた長き時間故か。


 いつもいつもそうだ、と壁に身体を預け、花湖は膨れ上がる不満に表情を曇らせていく。


 どんなときも太朗は『オフクロ』という名の仮面を被って、『梟光寺太朗』の弱さや辛さを見せようとしない。その仮面は親しい人になればなるほど、それはより厚く強固なものへとなり、容易に素顔を晒さない。


 もしかしたら、いつも迎えてくれるあの笑顔は仮面なのでは。そう思い、突如恐怖に襲われたことが何度あったか、太朗ちゃんは知らないだろう。


『――花湖ちゃん』


 太朗ちゃんにそう呼ばれなくなったのはいつの頃か。


「……忘れるわけ、ないよね」


 目を閉じれば広がるのは闇、その向こう側に過去の情景が映し出される。彼の転換期を自分はこの目で確かに見ている。


 瞼の裏には降り頻る雨の中佇む包帯まみれの少年が、傘を手に寂しげに微笑んでいた。


 気付けば、花湖の拳は力強く握られ、震えていた。 


 あの時の太郎の笑顔が忘れられない。あんな悲しそうに笑う人を花湖は彼の他知らない。


 太郎は変わった。そして自分もまた、あの日から変わった。


 握られた拳を解くと、強く握り過ぎたのか、爪痕が掌に紅い跡を残す。それは自分への戒めにも、激励にも見えた。


「起立」


 壁越しから伝わる太朗の声に花湖は危機感を募らせる。


 普通の人からすれば張りがない、と評するだろう。太朗の声にいつもの力が殆ど感じられない。現に、何人かの生徒は太朗に僅かな困惑の混じった視線を送る。


 花湖の心臓はじわじわと身を焦がすように脈動する。太朗の声から氣が殆ど感じられない。 ――いつもなら号令に氣咆を使っているのに。


 氣咆は氣を扱う鏃流において基礎に当たる技だ。これを行えないということは、氣を練れないか、練れたとしても発せられないかの二択しか考えられない。間違っても、後者は考えられない。

 気紛れで今日だけ氣咆を行わなかったという可能性は、彼の性格からしてないと断言していいだろう。つまり、考えられる可能性は一つしかない。


「礼」


 その声に教室内の生徒達が頭を垂れる。そして、彼らが顔を上げたのと同時に花湖は扉に手をかけた。喧騒を取り戻した教室に滑り込むように身を入れると、流れるような動作で太朗の下へ駆ける。


「太朗ちゃん」

「どうしたんだ、花湖?」


 自分の声色と表情に太朗はいつも以上に柔らかい声で問いかけてくる。その声に、顔に、胸の鼓動が高鳴る。脳裏に鳴る警鐘が徐々に強さを増し、不安の影が花湖の全身を覆っていく。


「どうしたんだハナ公、そんな難しい顔をして。お前らしくもない」


 いつもなら、その呼び名に即座に喰いつくところだが、彼女にその動きは一向に見られず、バンダナの眉間に皺が刻まれる。


 遊児は花湖を一瞥するが、特に何かを言うこともなく、いつも通り携帯機を操作する。しかし、その指捌きはいつもに比べ若干鈍く見えるのは果たして気のせいなのだろうか。


 周囲の困惑の視線に気付かぬほど不安を隠しきれない花湖は、最も手っ取り早く己の不安を払拭する手段に出た。


 そうすることが当たり前のように、するりと花湖の手が太朗の頬へと伸びる。


 相手に触れることにより相手の状態を把握する、触診と呼ばれる診断方法。医者は体温や脈、肌の状態などから患者の容態を判断するが花湖は、鏃流はそこに更に気脈が加わる。並みの医師の診断より、自分の手で確認する方がよほど当てになる。


 未だ席に座っている太朗の顔は手を伸ばせば簡単に触れることが出来る場所にある。


 差し出された花湖の手からは、何も伝わってこなかった。


「太朗ちゃん、やっぱり……」

「私はもう帰るつもりだが、お前たちはどうする?」


 花湖は空を撫でた己の手を見つめ、そして太朗を見上げた。気付けば太朗は、ごく自然な動作で席を立っていた。交差する視線。瞳に映るその人はいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。けれど、その笑みには僅かに影が滲んでいた。


 花湖は虚空を撫でていた手を胸元へと寄せ、彼を見つめるその瞳に確信の光を灯した。


「俺はもちろん部活!」


 親指を立て、嬉しそうに笑うは野球部の若きエース。


「俺はバイト」


 遊児はゲーム画面から目を逸らさず、ポツリと呟く。予想通りの返答に太朗は小さく頷く。


「じゃ、お先~!」

「廊下は走るなよ、ヒロ」


 太朗は走り去ろうとするヒロに釘を刺すと、案の定、走ろうとしていたヒロは声を詰まらせる。その様子に溜息を吐きながら太朗は別れの言葉を送るすと、ヒロは軽く手を振って答えた。


「じゃあ、俺も」


 携帯ゲーム機をポケットに仕舞いながら別れの言葉を告げる。遊児のバイト先は太朗の家とは真逆の位置に当たるため、当然一緒に下校することは不可能だ。


「あまりゲームはやり過ぎるなよ。目に悪い」

「…………努力する」

「いや、絶対無理だろ」


 のっそりと億劫そうに席を立つ遊児に、バンダナは思わずツッコミを入れる。


「まっ、ほどほどにな。それじゃ記念に一枚。はい、チーズ!」


 何の記念だ、と周囲の無言のツッコミは軽くスルーしながら、バンダナは若干呆れた視線を寄越す遊児の姿をフレームに納める。


 遊児はモデルでも十分に通用する容姿をしている。


 写真は目して何も語らない。ただ被写体を魅せるだけ、その実態を写すとは限らない。


「ギャラは七・三で貰うぞ」


 ボソリと呟かれたその言葉に、バンダナは慌てて遊児に詰め寄ると、太朗の視線を気にしながら小声で交渉に入る。


「ちょ、それは取り過ぎだろ。せめて六・四でだな」

「じゃ八・二で」

「増えてるし!」


 入り乱れる数字は互いの儲けの取り分の割合を示す。遊児の写真は中々の高値で取引されており、バンダナの貴重な収入源になっていた。


 何故、小声かと聞かれれば、写真を売買していることを太朗に知られ、取り押さえられるのを防ぐためだ。この写真の収入が絶たれれば、バンダナのフォトライフは大打撃を受けることは間違いない。


 当人は必死になって隠しているつもりだが、実は既に太朗に知られていたりする。


 太朗がこの件に口出ししないのは、被写体である遊児が許可しているためだ。もし、断りもなく販売を行っていたらキツイ説教が延々と行われる上に没収は免れないだろう。


 眼前で広げられる白熱した交渉に頬を緩ませていた太朗だが、突如その表情が硬くなる。


 ずらした視線の先にある己の手に、触れるものがあった。


「太朗ちゃん、バンダナ達の話長くなりそうだから先に帰っちゃったら?」


 花湖の視線に、重なる手に、太朗は目を逸らす。まるで無言の追及から逃れるように。


「……そうだな。花湖は部活、どうするんだ?」

「私は今日はパス、かな。ちょっとした用事が出来ちゃったから」

「出来ちゃった、か」

「うん、出来ちゃった。だから……」


 ぐい、と花湖が腕を引くと太朗の重心は容易く崩れる。


 一歩足を出し踏み止まる太朗の表情が僅かに動く。それが、焦燥の念によるものであることに気付いたのは、一人の少女以外、誰もいなかった。


「一緒に帰ろう、太朗ちゃん」


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