~Prologue~
一条の光が世界を滑翔する。
それをある者は、災厄を告げる凶兆であると来る危機に恐慌を来たし、ある者は吉事の報せと明るい未来に胸を馳せ、ある者は誰かが散らした命の残照であると死せる魂の冥福を祈り、ある者は望みを叶える伝承を信じ、天を仰ぎ願った。
一つの事象においてでさえ、視点が違えば見える景色も辿り着く結果もまた異なるものとなる。では、複雑に絡み合った事柄を紐解くことは果たして容易なことだろうか。
答えは否、というより他はないだろう。
人の歴史は過ちの歴史である、それは誰の言葉だっただろうか。
確かに人は過ち、間違いを犯し続けてきた。そして、その度に人は己を戒め、教訓とし、次なる一歩へと進んできた。
しかし、人は忘れる生き物だ。戒めは時と共に風化し、教訓はやがて中身の空虚な飾りでしかなくなり、やがて道を容易に踏み外す。
どれほどの歳月が経とうとも、技術が発展しようとも、何も変わらない、悲しい現実がそこにある。人とは、成長することの出来ない愚拙な種族なのだろうか。
だがどれほど人が愚かだろうと、明日は必ずやってくる。まるで世界にとって人間の愚挙など取るに足りないとばかりに、淡々と。世界は平和など望んでいないのかもしれない。
吉と凶、善と悪、そして生と死――全ての存在には己が対と成すモノが必ず存在する。
そして、生と死は世界の根幹を成す。人が歩んできた同属すら殺し合う愚かな道程も、もしかしたら此処に帰結するのかもしれない。
森羅万象は相互に干渉し合い、存在してきた。その幾重にも連なったものこそ、人は歴史と呼び、また世界と呼ぶ。世界は万物に干渉し、そして干渉される。
しかし、それは違った。
そこにあるのに、そこにいない、曖昧でまるで陽炎のような存在。
無から有は生み出せない。物質が支配するこの世においてそれは絶対普遍の法則である。
発光という現象も例に漏れず電子遷移による物理的なものもあれば、物体の燃焼時に生じる化学発光など、幾つもの過程が考えられるものの、どれも定められた方程式に沿って光を放つ。
もし、それを科学的に分析していた者がいたならば、己が目を疑ったことだろう。
それは核反応を検出できなければ、ラジカルによる化学発光も確認できず、プラズマ発光していなければ、チェレンコフ放射も見られない。現存考えられるあらゆる反応をソレは示さず、しかし絶えず眩い光を放ち続けていた。
余りに異常、余りに異様、余りに異質な存在だった。
確かな輪郭はなく、その実体は観測されず、されど確かに在ることが人の目に、世界に一筋の閃光として映る。
その光が意味するものは一体なんなのか。
ソレはただ世界を駆ける―――と出逢うために。