五
五
卒業が迫っていた。英里は大学に無事合格し、保育士になるべく勉強を始めることになる。亜希は専門学校に通うことを決め、家も出ることにしたようだった。その潔さに圧倒されるも、英里は彼女を心から応援しようと決めていた。
空は灰色、どんよりと重く、今にも雪が降ってきそうだ。マフラーをぐるぐると首に巻いているが、ほんのわずかな隙間から痛いほどの冷たい風が入り込む。二人は首をすくめながら、駅前のファストフード店まで早足で歩いた。あそこなら百円で暖かいコーヒーが飲める。ただそれだけの理由で、二人は道を急いでいた。いつもなら購買部の裏の小さなスペースで、二人額を寄せながらしゃべるのだが、今日は学校で話をしたくなかった。亜希の話をゆっくりと聞きたかったからだ。
「津田君が九州の大学へ行くことが決まったの。」先週、亜希はそう英里に伝えた。
「そうか、第一志望に受かったんだね。」英里は複雑な思いで言った。
「うん、よかった。本当に。」亜希は愛しげな笑みを浮かべる。
「遠距離になるの?」英里はおそるおそる訊ねた。
「・・・ううん。多分終わり。」亜希が前を向いて答える。
教室にはもう二人しか残っていなかった。進路の決まった生徒達は、一目散に学校を飛び出ていく。残り少ない高校生活を、思う存分楽しむためだ。教室の空気中に残っていた生徒達のぬくもりも徐々に冷え、いつのまにか二人は身体を縮めて話していた。
「津田君は何も言わないの?」
「うん。」亜希がうつむき、机の落書きをその細い指でなぞる。
「亜希がついていくっていう選択肢もあるんだよ。」亜希のそんな様子をみて、英里は思わずそう言った。
すると亜希は強く首を振る。「そんなことされても、津田君はきっと喜ばない。」
英里はその語調の強さに、もう彼女が別れを決めているのだと、はっきりと悟った。
「津田君が・・・」亜希が聞き取れないほどの声で続ける。
「週末、湖へ行かないかって誘うの。二人きりで。・・・彼のおじさんの別荘があるみたいで・・・どう思う?」亜希は、顔の細さをカバーするような丸いふんわりとした長めのボブの髪を、耳にかける。困ったような、心細いような、そんな顔。
「何を躊躇しているの?もう終わりなのに、今更深い仲になっても仕方がないってこと?」英里は訊ねる。亜希は更に一層弱々しげな表情を見せる。津田君と亜希はもう二年もつきあっているが、驚いたことにまだ一度も男女の関係になっていなかった。話を聞くとどうやら、亜希の方がためらっているようだった。
「・・・怖くて。」亜希が言う。「でも、彼とつながりたいっていう気持ちもある。だから、迷ってる、行くの。」
「はじめは誰でも怖い。あたり前だと思うけど。でも、とても幸せよ。肌が触れて、相手の体温を全身で感じること。もちろん、亜希が決めることだと思うけど、私なら行くな、きっと。これで最後だって思っても。」
「社会に出る前に、知っておいた方がいいのかしら、それとも知らない方が?」亜希が訴えるように問いかける。
「知るって?その行為自体をってこと?・・・知らなくてもいいんじゃない?」英里が答えると、「違う。愛されるってこと。」と亜希が静かに、でも強く言った。
「愛されること・・・そう、それなら知っておいた方がいいかも。」英里の心に、大切に愛されたという記憶がよみがえる。それはとてもすばらしい経験だった。
「・・・そうか。そうだね。知ってた方がいい。」亜希は何度も頷くと、英里に笑顔を向ける。
「ありがとう、行くことにした。」
「よかった。じゃあ、週明けに感想を聞かせてね。亜希が津田君とすばらしい時間を過ごせるよう、祈ってるよ。」英里は亜希の手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
週末を彼と過ごした亜希の表情を見て、それがとても大切な体験だったことはすぐにわかった。彼女の笑顔は晴れやかだったし、別れの悲しみも後悔も、何も見えなかったからだ。静かに穏やかに愛を交わして、終わりにしたのだろう。
ファストフード店に入ると、禁煙席の隅に二人でホットコーヒーを手に座った。同じ高校の生徒はいない。座席は半分ほど埋まっていた。
カップの熱さに指先が痺れる。二人はしばらくそのまま手を温め、落ち着いたところでコートとマフラーを脱いだ。
プラスチックのふたを取り、ミルクと砂糖を淹れる。使い捨てのマドラーでぐるぐるとかき回す。
亜希がふたを外したまま、カップに口を付ける。白い湯気がほわりと彼女の顔を囲み、長いまつげに水滴をつけた。
「終わったちゃった。」亜希が言った。
「うん。」英里は静かに同意した。
「全部、終わっちゃった。」亜希は再びそう言って、それから目を潤ませた。
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英里は亜希に手紙を書いた。けれどその手紙がちゃんと届き、彼女が目を通したのかもわからない。まったくの音信不通になっていた。
亜希が英里をいつまで無視しつづけるのか、終わりが見えないこの状況に、英里は途方にくれていた。彼女ならきっと、返事をくれる。そう信じて出した手紙も、もう二ヶ月放置されている。あまりにもあやふやで、答えがない。英里はいつまでも先に進めないし、それは亜希だって同じなはず。英里はなえる心を自身で励まし、亜希に直接会いにいくことを決めた。
亜希が帰宅するのはきっと深夜。英里はその頃を狙って、彼女のアパート前で待つことにした。電車のない時間であれば、邪険に「帰れ」とも言わないだろう。
夏とはいえ、夜は肌寒い。二階の外廊下から道を見下ろすと、街灯が光ってはいるが、住宅街の真ん中では物音一つしない。本当に寂しかった。時折道を通る人が、いぶかしげに英里を見上げていく。「閉め出しをくらったのか?」嫌らしい笑みを浮かべ、あからさまな視線を送ってくる中年男性もいた。そんな目つきを見るたびに、英里はより強く亜希を救いたいと考える。あんな男達につきあわなくてはならない仕事なんて、屈辱きわまりない。あの亜希がそんな仕事を。英里は怒りにも似た激情が身体を駆け巡るのを感じた。
サンダル履きの足が冷たく冷えてきた。しゃがんで足の指先を手のひらで強くこする。
するとコンクリートの床から、かんかんかんと音が伝わってきた。顔を上げると、そこに亜希がいた。大きく膨らんだ布鞄を肩からぶらさげ、その鞄の重みに倒されないよう、身体を反対側に傾けていた。
そしてうんざりしているような顔。
英里はその表情に涙が出そうになるが、唇を結んで立ち上がり、亜希をまっすぐ見つめた。
「やっと会えた。」英里がそう言うと、亜希は英里を腕で押しのけて、家の扉を開けようとする。
「会っても無視はするのね。」
亜希はちらりと英里を見ると、また首を振って無言で部屋に入ろうとする。
「もう終電も出た。私帰れないんだけど、それでも門前払いなの?コーヒーの一杯でも飲みたいわ。」英里はくじけそうになる自分を必死に奮い立たせる。
亜希は眉間に皺を寄せて、それでいて無表情に英里を見つめると「入れば。」と言った。
「ありがとう。やっと声が聞けた。」英里は亜希の後ろから部屋に入った。
蛍光灯をつけると、最後にこの部屋を訪ねたときと変わらぬ様子。けれど、部屋自身が疲れ、色あせているように見えるのは、英里の思い過ごしだろうか。英里は明かりのもと、亜希の顔を再び見る。以前にはなかった肌荒れが見え、急激に年を取ったように見えた。
亜希は鞄を床に投げ捨てるように置くと、ユニットバス内にある洗面所で手を念入りに洗う。そしてうがいをした。
英里はその姿を横目で見ながら、ラグの上にすわった。ちくちくする感触に、引っ越し祝いをまだ贈っていなかったことに気づいた。購入してからそれほど経っていないはずなのに、すでにラグの毛はほつれている。
亜希はこちらに視線を合わせず、キッチンに立った。がたがたなる食器棚からカップを二つ出す。
「悪いけど、飲んだらかえって。タクシーは駅前で拾えるから。私、明日も早いの。」
「ちゃんと話ができるなら、帰るわ。亜希の邪魔をしたい訳じゃないから。」英里は答えた。亜希は黙々とインスタントコーヒーを入れる。お砂糖とミルクをたっぷりと入れる。英里の好み通り。それを見てると、より一層亜希を愛しく、そして離したくないと思った。
部屋にコーヒーのよい香りが広がる。バイト先のとはまったく別の香りだが、これもまた心落ち着く。むしろ英里達がこれまで飲んできたコーヒーのそれであり、英里は懐古的な気持ちになる。
亜希はシンク横に置かれた袋からロールパンを一つだし、それをかじりながら、テーブルについた。
「夕食を食べてないの?」英里が訪ねると「そんな暇ないから。」と亜希が素っ気なく答えた。
そして二人の間にいたたまれない沈黙が流れた。
亜希からは強い拒絶のオーラが放たれている。明らかに迷惑そうな態度。
ふと英里の脳裏に、これまで何度となく見てきた亜希の笑顔がよみがえった。なぜこんなことになったのだろう。英里は声が震えてしまいそうになるのを、必死に耐えて話だした。
「なぜ、連絡をくれないの?」
「・・・忙しいから。」亜希がパンをかじりながら答える。
「忙しくても、今忙しいから後で、の一文ぐらい書けるよね。私とちゃんと向き合ってないわ。」
すると亜希が片方の頬を上げて笑う。
「向き合うって・・・そんな必要ないでしょ。」
「必要はあるわ。亜希の今とこれからのことを話したいって言ってるんだから。」
「話したって無駄よ。」
「無駄じゃないわ。亜希はこの間、私に聞いた。いつまで続くかわからない援助を変わらず続けられるのかって。答えはイエスよ。私はあなたのためなら、努力を惜しまないし、力になりたいって本当に強く思ってる。その気持ちが嘘かどうかって、亜希ならわかるでしょ。」
「きっと今は、そんな風に思ってるんでしょ。英里には自分で背負うものなんて何もないし、この言葉に責任なんてないんだから。」
「責任は持つわ。当たり前でしょ。」英里は身を乗り出し、訴えた。
するとまた亜希は静かに笑って「言うことがあまりにも予想通りで笑っちゃうわ。英里はね、まだ学生なの。親の庇護のもと生きてる。もちろん英里はそうあっていい境遇なんだから、それを疑問に思ったり、恥じたりする必要なんかないんだけどね。でもこれから英里が社会に出て、就職して結婚して子供を産んで、自分で責任を負わなくてはならない、守らなくてはならない存在ができてきたら、そんなこと言ってられなくなるわ。優先順位ってあるのよ、人間関係には。英里は英里のことだけを考えていればいいのよ。」
「亜希が不安に思う気持ちも、迷惑をかけたくないって思う気持ちも理解できるけど、私はあなたを救いたいの。今まで私、亜希にたくさん助けてもらった。二人で問題を乗り越えてきた。喧嘩したこともあったし、噛み合わないって思うときも確かにあったけど。でも二人で乗り越えてきたじゃない。今回もきっとそう。亜希が少し私を向いて、そして頼ってくれれば。亜希、自分でもわかってるでしょ。どんどん痩せて、疲れて、昔のような笑顔が出なくなってる。この生活のせいよ。亜希の心がぎりぎりの状態なの。私は亜希にそんな暮らしをさせたくない。ねえ、頼って。心を開いて。もう無視だなんて卑怯な対応しないでよ。」英里は必死だった。どうしても亜希にわかってもらいたかった。今のこの気持ちが本物だっていうことを。
「疲れてはいるけど、私は毎日充実してるわ。英里が色眼鏡で私をみてるだけ。あんな仕事を選んでるから、きっと疲弊してるだろうって。」
「違う!亜希を見ていればわかるわ。亜希が泣いているところも、自分に嫌気がさしていることも、でも生活のために辞められないことも。ねえ、仕事を辞めよう。私が援助するから。あんな仕事、亜希ができるわけないわ!」
「英里は・・・自分のために、私に仕事を辞めてもらいたいのね。」
「自分のため?なんでわかんないの?亜希のために決まってるでしょ!」英里は声が徐々に大きくなるのを止められない。
「だって、私は一言も辞めたいなんて言ってないわ。私が選んで、私が働いてるの。英里はね、自分の友達があんな仕事をしてるなんて思いたくないの。だから必死に止めようとしてる。全部自分のためよ。自分が心地よくいたいため。私が連絡をしなかったのは、英里は絶対善人面してこんな風に言ってくるだろうってわかったから。話し合うだけ無駄なのよ。この対話の方が、私を疲弊させてるわ。そっちこそ、なんでわかんないの?返事がない時点で気づいてもよさそうなのに。」
英里が必死になればなるほど、亜希はどんどんと遠くへ離れていく。なぜわかってもらえないのか。なぜ全部を拒絶するのか。
「どうして、そんな酷いことが言えるの?」英里は指先で涙を拭いながら、亜希の顔を見る。
「二人で今までやってきたじゃない。何が違うの?今までと。私たちは何も変わらないはずなのに。どうして・・・。もう・・・もう、元には戻れないの?」英里は身体が震えてくる。嗚咽で肩が上下した。
亜希を見やると、英里の涙ながらの必死の訴えに、さらに冷ややかな表情を見せていた。
「元に戻れないかって?」亜希は自分のカップの口元を、指でゆっくりとなぞった。
「飲んでいるコーヒー、そのカップ、座っているラグ、英里が触れているものすべて。」亜希があざ笑うかのように英里を見る。
「私が見ず知らずの男のあそこを、この口でしゃぶってやった、そのお金で買ったのよ。」
英里は思わず、テーブルから手を離す。
その様子を見て、亜希が静かに笑う。
「今日もたくさんの男のをしゃぶったわよ。私が口をつけたこのカップから、あんたコーヒーを飲めるわけ?」
英里は言葉がでてこない。
「元に戻れるかって?あんたがもう、戻れないのよ。私のこと汚いって思ってるから。」
英里は固まって動けなかった。
「コーヒーはごちそうしたわ。帰って。」亜希はそう言うと、テーブルを片付けだした。台所に向かい、英里に背を向ける。英里は何も言うことができず、そのまま荷物を持って、静かに部屋を出るしかなかった。




