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夏休みが終わった。英里にとっては忘れられない夏になった。自分が大人になり、新しい世界が広がったのをうれしく思った。早く亜希に報告したい。家の電話からではとても話せる内容じゃないから、今日のこの日をとても心待ちにしていたのだ。

教室に入ると、こんがりと日焼けした生徒達が、口々に自分の休みを半ば興奮しながら話し合っていた。高校二年の夏休み。年頃の男女にとっては、重要なシーズンだった。来年には受験勉強が控えているから、この夏は本当に貴重な時間だった。

英里は窓際の席で他の生徒と楽しそうに話している彼を見つけ、こっそりと視線を送った。彼も気づいて恥ずかしそうに笑う。二人が経験したこと、二人にしかわからない時間。視線を交わす、それだけで英里の胸はどきどきと鳴り始めた。

亜希は一番後ろの席で、鞄から教材を取り出しているところだった。英里は小走りに近寄る。すると亜希が顔を上げ、「どうだった?」というような表情を見せる。英里はうれしくなって満面の笑みを返した。

「ねえ、話したいことたくさんあるの。」英里は興奮しながら彼女にしゃべりかけた。

「わかってるわ。じゃあ、ちょっと廊下に行こうか。」亜希が優しく笑い、英里の腕を引いた。

二人は心地よい風が吹き抜ける廊下を並んで歩き出した。英里は我慢しきれず小声で話だす。

「初めての経験だった。なんて言うの?うまく言葉では伝えられないんだけど。」

「わかるわよ。うれしかったのね?」亜希が言う。

「そう、そうね。うれしかった。でも正直に言うと、みんなが言うように気持ちいいなんて、ひとっつも思わなかったけど。最初うまくいかなくて。二人ですごく焦っちゃった。もう、しなくてもいいかも、なんて思ったけど。でもちゃんと最後までできたと思うわ。」

「じゃあ、森君も初めてだったのね?」亜希が問う。

「聞かなかったけど、たぶん。だって、もっとうまくできるはずでしょ?初めてじゃなかったら。なんか彼、可愛かったよ。」英里が声を更にひそめる。「避妊具の付け方も、なんだかぎこちなかったし。」

「よかった、ちゃんと配慮してくれたのね。そういうこと、考えてくれない男も多いから、多分。」亜希がほっとした声を出した。

「うん、ちゃんとしてくれた。すごく優しかった。」英里は思い出すと、自然と頬が染まる気がした。

二人は始業のチャイムが鳴るまで、特に目的地もなく校内をうろうろした。立ち止まって話すと、誰かに聞かれてしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。

「亜希の夏休みは?もっとたくさん遊べたら良かったんだけど。」英里が訊ねる。

「私はバイトばかりだった。英里は夏期講習に行ってたしね。」

「小学生の頃は、夏休みも毎日一緒だったけれど、大きくなるといろいろ用事も増えてきて、昔みたいに一緒にいられなくなるんだね。」英里は少し寂しく思った。

「それが大人になるってことじゃない?」亜希が言う。「でもそうね、寂しいわ。」

亜希はまた髪の毛をバッサリと切っていた。彼女は髪を自分でアレンジするのが好きで、しょっちゅうころころと髪型が変わった。すぐに自分ではさみをいれてしまうので、しばらく亜希のロングヘアーを見ていない。

「また切ったのね。素敵。」英里がほめる。すると亜希はちょっと照れたように首を傾げ、短い髪の毛に手をやる。

「なんだかどんどん短くなってるような・・・我慢できないの。肩にかかるともう切りたくなっちゃって。」

「似合ってるよ、本当に。うらやましいわ、亜希が。すごい才能を持ってる。」

「才能だなんて、大げさな。」亜希がちょっと笑った。

「才能よ、なんの勉強もしなくて、それだけ自分で切れるんだもの。美容師にでもなったら?」

「美容師か・・・じゃあ、専門学校に行かなくちゃとれないよね、資格。」

「行けばいいじゃない。」

「・・・うん、考えとく。ほんとはね、卒業したらもう就職しようって思ってたから。」

「働くの?」

「うん。大学っていうタイプでもないと思うし。」

「美容師、いいと思うよ。亜希がお客さんの髪の毛を触ってるの、ちゃんと想像できる。しっくりくるわ。」英里が言うと、亜希はとてもうれしそうに笑った。

「そろそろ始まるわ。」亜希が廊下にかかる時計を見て言うと、すぐにチャイムが鳴りだした。二人は慌てて廊下を走り、先生が来る前に教室にたどり着いた。お互いほっとした表情を見せる。そしてまだまだ暑いこの季節に走ってしまったことを、少なからず後悔した。



---

何度連絡をしても、亜希からの返答はなかった。メールも電話も、何もなし。もしかしたら着信拒否にしてるのではないかと疑うほど、亜希は英里を完全に無視していた。

英里はどうしても彼女に仕事を辞めてもらいたかった。お金をもらって、男性の性的な行為につきあう。時に屈辱的な言葉をかけられ、触られたくもない男に触られ、あげく知りもしない男の・・・。英里は想像すると叫びたくなった。亜希がそんなことできるわけがない。きっと彼女は精神的に参ってるはず。今すぐ、やめさせなければ。

亜希の告白。英里は当時ひとつも気づかなかった。いつ、そんなことがあったのだろう。英里はその時の自分の鈍感さと幼さに、気が狂うほど腹が立った。もしかしたら何かできたかもしれない。彼女の支えとなり、もっと早く助け出せたかもしれない。英里の親に相談するとか、児童虐待の申請をするとか。英里は悔しくてたまらなかった。

亜希。

英里のこれまでの人生を支えてくれた大切な友達。

今度は自分が彼女を救うのだ。


五月の連休も、英里はバイトばかりしていた。亜希のことがあったので、時間ができれば積極的に働いた。彼女を助ける、それしか考えることができなかったのだ。

朝の八時半、駅へと続く商店街を、出勤前のサラリーマンが足早に歩く。休日のない人々。

英里は開店前の喫茶店へと入っていった。飴色に輝く板張りの床。すでに店主がモップで床を磨き始めていた。

「おはようございます。」英里は丁寧に挨拶をする。店主も優しく応答した。

「英里さんは、最近熱心に働くね。」店主はチェックの長袖シャツを肘まで折上げ、すでにうっすらと汗をかいていた。窓は開け放たれ、青葉の香りが店内を通り抜ける。

「はい、今ちょっとお金を貯めたいので。」英里は笑顔で答えた。

「そうか、道理で。」店主は納得というような顔をして、少し困ったような顔をした。英里はそれを見て戸惑う。

「あの、何か私、失敗しましたでしょうか。」英里がおそるおそる訊ねると、店主は柔らかな笑顔を見せた。

「いやいや、違うよ。ただね、以前の英里さんは、この仕事がとても好きで心を込めてしていたように見えたのだけれど、何だか最近心ここにあらずのように思えたから。お金のために働くって気持ちになったからだなあ、と思っただけだよ。」店主は床を磨く手を止めて、英里の顔を静かに見つめる。

「すみません。」英里は思わず謝った。

「謝る必要はないよ。働く基本は、生きていくためだからね。でも、何かあったのかな?あまりに突然の変化だったから。」

英里は少しためらった後、親友が風俗で働きだしたこと、今自分が無視されていることを話した。亜希を知る人にはしゃべれない。でも大学の友人と完全に打ち解けている訳でもない。英里の話を聞いてくれる人が欲しかったのは事実だった。

店主は穏やかな年月が通り過ぎたことを物語るその顔、その目尻の皺をほんの少し深くし、英里の話を聞いてくれた。英里は徐々に心が軽くなるのを感じる。

亜希も自分に話してくれれば、きっと心が軽くなる、英里は更に強くそう思った。

「亜希とはもうずっと一緒で、彼女のことはよくわかっています。彼女が今の仕事を喜んでしてるとは思えないし、きっと仕事の後、毎日泣いてるはず。これまで互いに支え合ってきたのに、なぜかこの件に関しては彼女はかたくなで、私の言葉を一切聞き入れないし、私自身を拒絶してるんです。私は彼女を助けること、金銭的にも精神的にも、心からしたいと思ってるし、そのことに何の迷いもないのに。彼女にもっと頼られてもいいと思うんです。」

店主はゆっくりと頷くと、少し首を傾げる。その目が英里をなだめるように光っている。

「でも、その子は助けてほしいって思ってないんだろう?」

「本当は思ってるはずなんです。もし私が彼女なら、きっとそう思うはず。それに彼女だって私がこう言い出すの、わかるはずなんです。だって、彼女ならきっと、私を全身全霊で救おうとしてくれるから。」英里はしゃべりながら、徐々に目がじわりと熱くなってくるのを感じた。もう何日も、亜希と話していない。彼女が泣いてるかもしれないのに。彼女が助けてと叫んでいるかもしれないのに。

「なぜ、私を無視するんでしょうか。私を拒絶したって何の解決にもならないし、無視って一番、何というか卑怯ですよね?何も言わずに、わかるでしょ?って言われるなんて、じゃあ、何のために言葉はあるのかって、思いませんか?」

「彼女は考えてるのかもしれないよ。」店主が言う。

「じゃあ、考えるから時間が欲しいと言うべきです。彼女はそうやって言える人です。だから理解できなくて。どうして私をこんなにも拒絶するのか。全部終わりにしてしまおうと思っているようで。私は・・・私は失いたくないんです、彼女を。」英里は語尾が揺れてしまうのを我慢できなかった。

「英里さんは、再びその彼女と会ったとき、この話題には触れずに、以前と同じようにつきあうことはできる?彼女が仕事を辞めると言うときまで、ずっと待っていられる?」店主は泣き出した英里の腕をなでながら、そっと言った。

「いいえ。」英里は即座に強く否定した。英里は一刻も早く、亜希を救いたかった。そんな仕事、もう一日たりとも続けてほしくなかった。

「そうか・・・じゃあ、その彼女は英里さんがそう言うの、わかってるんだね。」店主が英里から目をそらし、窓から入ってくる風を辿るかののように首を動かした。英里は店主のその温和な横顔をそっと見る。

「人間はそれぞれの経験や習慣に基づいて生きている。だからとても複雑だ。そんな複雑さを受け入れることができれば、きっと戦争なんか起きないよ。でも人間はどうしても譲れないってことがある。例えば信仰。皆、自分の信ずるものが唯一だと考えているけれど、実際はそうじゃないよね。同一の宗教を信仰していても、解釈は受け取る人にゆだねられていると言ってもいい。英里さんはその子を失いたくないって言ったよね。」店主は英里の顔を再度見た。目尻には皺がより、口元は笑みを浮かべている。

「本当の喪失っていうのは、僕が思うに、その子から受けた親切や、掛けてもらった優しい言葉、共に過ごした楽しい時間さえも、苦しくて思い返したくないと拒否してしまうことじゃないかな?」

英里はその言葉を頭で反芻する。そして首を振った。

「今までも問題を二人で乗り越えてきたんです。きっと今回もできるはず。彼女が私の言葉を聞いて、手を伸ばしてくれればきっと。」英里は自分に言い聞かせるように言った。

「ありがとうございます、聞いてくださって。少し心が楽になりました。」英里は店主に精一杯の笑顔を見せた。

「そうか、それならよかった。」店主は英里の腕をぽんぽんと軽くたたき「じゃあ、開店準備をしようか。」と言って、再び床を磨き始めた。


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