一話
出勤なのでとりあえず投稿。
帰ってから体裁を整えるかも。
二十年前、大学生時代、僕は一人暮らしをしていた。
訪ねてくる友達もいなかったので、毎日、ろくでもない生活をしていた。
ある日、僕の部屋の扉をノックする音がした。
一体、誰だろう?
夜中のことだったので新聞の勧誘でもなさそうだった。僕の部屋着は全裸だったので、慌ててジャージをまとって扉を開けた。
が、そこには誰もいなかった。部屋の正面にある共用のトイレの電灯がブーンと鳴る音がした。
気のせいだったのだろうか?首をひねりながら扉を閉めようとすると、その扉がガクンと止まった。扉の影から伸びた手が扉を掴んでいたのだ。
「ヨッ!」
その手の持ち主は影から飛び出てくるなり、昔のような調子で挨拶をした。
僕は驚いた。そこに現れたのは、高校時代の同級生の吉田だったのだ。
確か、一年か二年ぶり、お盆だかお正月だかに仲間内で飲んで以来だった。
久しぶりに会った吉田は、当たり前だけど昔通りの吉田だった。人懐っこい笑みも、短髪にしてもクルクルと巻く柔らかそうな癖っ毛も何も変わっていなかった。
「なんでここにいんの?!」
僕は狼狽しながら吉田に尋ねた。
「俺、こっち勤務になったんだよ」
話によると、吉田は大手車メーカーに就職して、僕の暮らす街の営業所で働いているらしい。
「でも、どうやって僕の家、知ったの?」
「田中の母ちゃんから聞いた」
まだ個人情報保護などという概念のない時代のことである。母ちゃんが既知の友人に息子の住所を教えるなど当たり前のことだった。だが、それならそれで前もって一言言っておいてほしかった。
吉田はフラワーダンザーみたいに体を揺らしながら、しきりに僕の部屋の中を覗こうとしていた。きっと中に入れてほしいのだろう。
吉田の興味津々な視線を身体で遮りつつ、「いや、ちょっと今、部屋が汚くて…」と僕はしどろもどろになっていた。脇の下から妙な汗が出ていた。
僕は連絡をくれなかった母さんを恨んだ。
僕の背後にはエロゲエロ漫画エロ小説、ラノベが山となっていたのだ。
なんとしても吉田を部屋の中に入れるわけにはいかなかった。
僕が吉田を部屋の中に招き入れたのは一時間後のことだった。吉田の癖っ毛のカール具合が心なしか強くなっていた気がした。待たされすぎて疲れていたのかもしれない。
「まさかあの田中がねえ…」
僕の部屋を見渡した吉田は何かを察していた。吉田の視線は、なぜか空っぽになっている本棚に注がれていた。棚にはくっきりと埃の跡が残っていた。もともと置かれていたエロ漫画の跡だった。
その視線にいたたまれなくなった僕は外出を提案した。
「僕の大学行ってみない?あっちのほうがネット回線いいし」
一時間以上待たされた挙句、すぐさま追い出された吉田は肩を落としていたが、僕は彼をなだめすかしつつ強引に外へ連れ出した。
大学までは吉田の車で移動した。僕はまったく車に詳しくないのだけど、スポーツカーっぽいかっこいい車だった。別に二十年前の無礼を取り返そうと、こんなところでお世辞を言っているわけではない。
大学に着いたはいいものの、僕の学科の校舎の駐車場が閉門されていて使えなかった。結局、近くのコンビニの駐車場に車を停めて、僕の学科の校舎まで歩くことになった。
僕の通う大学の敷地は広かった。工学部だけで校舎が9号館まであるくらいだ。しかも一つ一つの校舎の間にはゆったりとスペースが取られていて、贅沢に敷地が利用されていた。
「すげえな。さすが旧帝」
それを目にした吉田は言った。感嘆していたのか、それともコンビニからの遠さに辟易としていたのかは分からない。
僕の学科の校舎に着くと、吉田を計算機室(※パソコンルームのこと)に案内した。もう夜も更けていた。校舎をつなぐ渡り廊下は真っ暗だった。渡り廊下の窓から見える街灯がぽつんと光っていた。
計算機室には誰もいなかった。計算気室の電灯をつけると、僕らは手近な席に座った。端末の電源を入れると振動するような低い音を立ててワークステーションのUNIXが立ち上がった。
「ブラウザってどうやって立ち上げんの?」
「コマンドラインで『mosaic』って打って」
「OK」
吉田はEnterキーを高らかに鳴らした。
当時はインターネット黎明期でパソコンをつかってやることといえば、とにかくインターネットだった。とはいえ、まだ有名サイトも数えるほどで、僕らはあっという間にやることが無くなってしまった。
「なあ、ヤフーゲームって知ってる?」
吉田はそんな風に尋ねてきた。
「知らない」
「オンラインでゲームできるんだよ。やってみない?」
「僕、ヤフーのアカウントもってないけど大丈夫?」
「俺の貸すよ」
そう言って吉田が教えてくれたのはYK23というアカウントだった。
「これどういう意味?」
「俺のイニシャルと年齢」
「変なの」というと吉田は笑って返した。「うるさい」
ヤフーゲームには様々なゲームがあった。僕らはオセロを選んだ。テーブルを立てて少し待っていると、相手が挑戦してきた。
初めての対戦に、僕はちょっと緊張していた。だが結果として危なげなく勝利することができた。
「おー。さすが。昔から強かったもんな」
「これくらいのレートならなんとかなるかも」
ヤフーオセロにはレートシステムがあった。開始直後のレートは1200で勝てば上がり、負ければ下がる。その後、何勝かしてすぐに1300に上がることができた。
が、問題はそこからだった。1300を超えたあたりから明らかに相手が強くなり、勝ったり負けたりを繰り返すようになった。レートは1300よりちょっと上を行ったり来たりだった。
段々、勝てなくなって、飽きが来た僕はオセロで違う遊びを始めた。
「ちょっと見て見て」僕は吉田を手招きした。
「何?」
「オセロってさ、スミ取るのが必勝法って思ってるでしょ?」
「そうだろ?」
「じゃーん」
僕が指し示したのは、実際に相手にスミを三つ与えたうえで勝利した盤面だった。
「何これ?どうやったん」
「コツがあるんだよ、コツが」
これは僕の持論だけど、世の中の対戦ゲームのほとんどは一つコツを知るだけで90%の相手に勝てる。勝てないのは、相手が同じかそれ以上にコツを知っている場合だけ。
「大富豪にもババ抜きにもコツがあるんだ」
「ババ抜きは運ゲーだろ?」
「違うよ。ちゃんとコツがある。僕、高校時代、むちゃくちゃ勝率高かっただろ?」
「あんま負けてるとこ見たことないな」
「コツを知ってたからだよ」
再び、僕は低レート相手に曲芸みたいな勝ち方をするところを実演してみせた。
「おー」吉田は感嘆したような声をあげた。感嘆していたはずだ。たぶん。
少し経った後で、不意に吉田が言った。
「なあ、こいつに挑戦してみねえ?」
吉田が指さしたのは、レートの最上位付近にいたプレイヤーだった。
「何こいつ?外人?」僕は思わず小声でこぼした。名前がMark某となっており、明らかに外人だったのだ。
「やめとくわ」僕は首を振った。
「なんで?田中が本気でやれば勝てるかもよ?」
「んー。勝てるかもだけど…。やっぱやめとく」
「やってみりゃいいのに」
僕は吉田の言葉に乾いた笑いで返した。頑なにディスプレイを凝視しながら。
時刻は夜の2時を回ろうとしていた。ヤフーオセロの参加者も目に見えて減ってきた。
「もうそろそろ帰るか?」
「そうだねえ」
そんな会話をしていた時のことだった。不意に僕らのテーブルに挑戦者が入ってきた。それは例のMarkだった。
「おい!」吉田が興奮気味に肩を叩いてきた。「やろうぜやろうぜ!」
確か当時のMarkのレートは1500ぐらいだったように思う。手合わせした僕は中盤に差し掛かるあたりで既に負けを確信し始めていた。自分がコマを置く選択肢がどんどん削られて行き、相手に「打たざるを得ない一手」を強いられるようになっていたのだ。
そこで勝負あり。対局はあっという間に終わった。全滅しないだけマシというくらい圧倒的な負け。さすがの吉田も呆然としていた。
「こいつ強すぎん?」
「手も足も出んかったわ」
すっかり興ざめした僕らは、そこで対戦をやめ家路に着いた。
それから僕は何度か吉田のアカウントを利用してヤフーオセロで遊んだ。いつ参加してもMarkはインしていて、相変わらず最上位に君臨していた。
何度かMarkは僕のテーブルに参加して勝負を持ちかけてきた。大体いつも、夜遅く、対戦相手が少なくなったころだった。もしかしたら相手も僕のことを認識していたのかもしれない。僕は一度も勝てなかった。
当時、僕は夜中に計算機室に行くのを除けば、大学にほとんど行ってなかった。だけど、その日は研究室の新歓コンパだとかで強制的に呼び出されていた。
僕は研究室の一つ後輩の岡崎とオセロ盤を挟んで向き合っていた。お互い無口な性質で会話が弾まないのでオセロで誤魔化そうとしていたのだ。
短髪美人の岡崎は成績も優秀だった。研究室の教授も目をかけていた。僕は岡崎のことが苦手だった。美人で気が強く取りつく島がなかったからだ。
しかも多分嫌われていた。いや、嫌悪というより軽蔑というべきか。田中は嫌悪する価値もない人間。岡崎がそう思っていることは、視線や口ぶりから何となく感じることができた。でも、そんな人間を相手にオセロ盤を囲んでくれるということは、もしかしたら岡崎なりに仲良くしようという意思があったのかもしれない。
岡崎の優秀さはオセロからも感じられた。とにかく付け入るスキがなかった。
こりゃ、勝てない。僕は早々に諦めた。途中から、例のわざとスミを相手に与えたうえで勝つという戦術を試すようになった。すると岡崎はキッとこちらを睨みつけてきた。
「なんですか、これ?おちょくってます?」
僕は狼狽えた。まさか岡崎が本当に怒るとは思っていなかった。僕は何も返せなかった。
「田中さんっていつもそうですよね。何にも本気にならない」
軽蔑を含んだため息は何よりも重い。ズシンと音を立てて地面に落ちた。
僕はさすがにカチンときた。
いつも。いつもこうだ。本気にならないことの何が悪い。
「…うるせえな」思わず口から一言が零れ落ちた。そして、その一言が呼び水となった。「本気になってどうすんだよ。本気にならなくたって大抵の奴に勝てるだろうが!」
僕の大声に岡崎の顔がにわかに険しくなった。
「でも、今、私に勝ててないじゃないですか。このおちょくった手筋わざとですよね?直接的に勝てないから、角度を変えて勝ちに行こうとしたんでしょ?田中さんは心の中では勝ちたがってる。勝ちたいくせに頑張りたくないから、本気で立ち向かわずおちょくって勝とうとした。」
岡崎の口調が冷静なことが僕をいらだたせた。
「勝とうとなんかしてねえよ。勝つことに意味なんかねえ。勝敗なんて一つか二つのコツを知ってるかどうかだよ!それで9割くらいの相手に勝てる!お前だってそうだろうが!こんなクソ大学に来てるくらいだ。お前だって生まれつきコツ知ってるタイプだろ!」
しかし、岡崎は激昂する僕にとりあわなかった。僕が興奮すればするほど、彼女の表情から熱が消えていくのが分かった。
「なんですか、九割って?九割が何か知りませんけど」
岡崎の視線に軽蔑の色が増していた。僕はひるんだ。
「それってダサくないですか?」
年下の言葉に僕は返す言葉もなかった。
「コツに甘えて真剣に勝負しないから、いつまでたってもコツどまりなんですよ。私はいつも全力で頑張ってます。コツだけじゃ立ち向かえない問題にだって本気で取り組んできたから、私は田中さんよりずっと先にいる。逃げ続けた田中さんなんかに負けるわけない」
岡崎の視線が力を増した。
「みんな負けながら前に進んでる。そんなんじゃいつか誰にも勝てなくなりますよ」
俯いて固まってしまった僕に岡崎は一際大きなため息を落とした。彼女は僕に最後の一瞥をくれると椅子を立ち上がり、研究室を出て行った。
その後、僕は研究室のコンパをサボって自分の家に帰った。お酒を飲む心境じゃなかった。エロゲエロ本だらけの薄暗い部屋の中央、僕はたった一人、まんじりともせず座り込んでいた。
逃げてる、と言われて言い返せなかったことが堪えていた。
僕は心の底から思っていた。『勝ってどうするんだよ』
勝ったって良いことなんか無かった。勝ったところで得られたのはしょうもないやっかみばかり。コツを知っていれば9割の相手に勝てるというのは、裏返せば、周囲の人間はたった一つのコツさえ知ろうとしていないということだ。
誰も彼も本気で勝とうとなんかしてないのだ。なのに勝ってしまうから疎まれる。勝とうとすればするほど周囲との軋轢を生むだけだ。
わざわざ相手と競い合う必要なんかない。たった一人でだって進むことはできる。その方がよっぽど平和だ。
部屋のパソコンをつけて、最近、習慣になっていたヤフーオセロにログインした。Markはいつものようにログインしており、相変わらずレートの最上位に君臨していた。
こいつは何を思って今日もログインしてるんだろう?サーバにこいつに敵う奴はいない。飛びぬけた高レートが証明してるのに、なんで今も闘おうとしてるんだろう?
燦然と輝くMarkの高レートを眺めていると、なぜだか急に涙がにじんできた。
僕にはどうして涙が流れてくるのか分からなかった。きっと自分の心の奥が勝手に吐き出していたのだ。
無性にMarkと勝負がしたかった。僕はMarkの立てたテーブルに殴り込んだ。それは僕にとって初めてのことだった。
当然勝てなかった。僕は何度も何度も挑みかかった。でも見るも無残な敗北を繰り返した。
なんで、こいつ平然と勝てるんだよ。気ぐらい使えよ。
Markの超然とした態度が癪に障った。羽虫のごとくまとわりつく僕のことなど知ったこっちゃないのだ。態度がMarkの心中を明確に物語っていた。涙を流しながら僕は憤った。パソコンのマウスが荒々しい音を立てていた。
気を使えよ!気を使ってくれよ!僕のために立ち止まってくれよ!それが優しさだろうが!
僕の心の中の声は、かつて僕に勝てなかった奴らの声に等しかった。分かってた。かつて僕はその声に屈したのだ。
Markは僕なんかに負けてくれない。弱者の声ごとき一顧だにしない。これからもそれら全部を薙ぎ払って勝ち続けるのだ。それが僕とMarkを隔てる決定的な差だった。
いつしか僕のMarkへの感情は苛つきから羨望に変わっていた。彼に勝てないことを自然と受け入れていた。
Markこそが僕が小さい頃、幼稚な全能感を振り回していた頃に夢見た姿だった。
そして、それを認めることは自分が何より癪に障っていたのが自分自身だと認めるに等しかった。かつて、弱さを武器に足を引っ張ろうとした周囲と、それに同化してしまった自分自身に僕は苛立っていたのだ。




