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「お従妹様の看病で五年、夜会に出ておりませんの」

作者: 歩人
掲載日:2026/04/28


 王都ヴェルナ、医師会本部の臨時会議室。

 石造りの壁は厚く、窓から射し込む光はどこか青白い。大理石の長机の上には、薄い羊皮紙の束が、几帳面に五つの山に分けて積まれていた。

 それぞれの山の見出しには、年号が一つずつ墨で記されている。五年分の処方明細だった。


 わたくしは、革張りの椅子に腰を下ろしていた。

 膝の上で両手を組み、背筋を伸ばす。そうしないと、胸の奥でかすかに震えているものが、指先にまで伝わってしまいそうだったから。


「リンデマン侯爵令嬢、イレーネ様」


 呼ばれて顔を上げる。

 長机の向こう側に立っているのは、銀縁の眼鏡をかけた若い医師——マキシミリアン・フォン・アーレンベルク先生。五年前から、月に二度、我が家の離れに通い続けてくださった方。

 その隣には、白髪に深い皺を刻んだ医師会長が、静かにわたくしを見つめていた。


「まずは、ご報告を」


 マキシミリアン先生は、長机の中央に一枚の診断書を置いた。

 紙の端は、わずかに指先で捻じ切れたような痕がある。力をこめて置かれたのだろう。


「お従妹様、クレア・ヴァイセンベルク子爵令嬢の、抜き打ち健診の結果でございます」


 わたくしは、息を止めた。

 五年間——毎晩、毎晩、二時間おきに薬を飲ませ続けた娘。冷たい手を擦り、熱を測り、粥を炊き、医師の来訪に同伴した娘。

 その娘の、診断結果。


「筋力、平均より二割上」

「肺活量、同世代女性の上位一割以内」

「栄養状態、極めて良好」

「循環器、呼吸器、消化器——全機能に、異常所見なし」


 一つずつ、マキシミリアン先生は告げていった。

 一つ告げるたびに、わたくしの膝の上の指が、知らず知らずのうちにきつく結ばれていく。


「結論といたしまして」


 医師会長が、わたくしの方を見た。

 その瞳には、憐れみも同情もなかった。ただ、事実を伝える義務のある人間の、厳粛な静けさだけがあった。


「クレア・ヴァイセンベルク嬢は、同世代のいかなる令嬢と比べても、むしろ健康でございます。五年間、寝たきりで療養を要した方の身体では、決して、ございません」


 ああ。


 わたくしは、天井を仰いだ。

 医師会本部の天井には、王国の紋章が金で刻まれている。その紋章の縁が、じわりと、にじんで見えた。

 五年。

 三つの社交シーズン。

 十八歳、十九歳、二十歳、二十一歳、二十二歳、そして、今日、二十三歳の誕生日。


 すべてが、静かに、意味を変えていく瞬間だった。



 わたくしが、アーロン・グラーフェンベルク伯爵令息と婚約したのは、十八歳の春だった。


 家格、財力、年齢の釣り合い——どれも、申し分ない縁談。お父様もお母様も安堵され、わたくしも、まずは誠実に務めようと決めていた。

 アーロン様は、婚約式の夜、わたくしの手を取り、穏やかに微笑まれた。


「イレーネ、これからよろしく頼む。優しい君に、僕は救われている」


 そのときのわたくしは——あの言葉を、額面通り受け取っていた。


 婚約式から、ちょうど二週間後のことだった。

 雨の降る夕方、アーロン様が青ざめた顔でリンデマン邸を訪ねてこられた。

 玄関で外套の肩を震わせ、応接間に案内されるなり、わたくしの手を握って頭を下げた。


「イレーネ、お願いがある」


 その声が、わずかに震えていた。


「僕の従妹、クレア・ヴァイセンベルクのことだ。あの子は幼い頃から病弱で、つい先日、ついに床についてしまった。医者は——長期の療養が必要だと言っている」


 わたくしは、息をのんだ。


「わたくしに、何か、できることが」


「頼む」と、アーロン様は、わたくしの手を強く握った。「君に、クレアの看護を任せたい。我が家には、女手が少ない。母は社交で忙しく、女中たちには任せられない繊細な病状なのだ。……君は優しいから、頼むなら、君しかいないんだ」


 断る理由は、見つからなかった。

 婚約者の家の縁者を看護することは、貴族の娘の徳目だと、お母様から何度も聞かされていた。何より、婚約して間もないアーロン様が、これほどまでに困っている。支えたいと、素直に思った。


「承知いたしました」


 わたくしは、静かに頷いた。


 翌日、グラーフェンベルク伯爵とリンデマン侯爵——両家当主の立会いのもとで、「クレア嬢が療養に耐えうる体になるまで」という条件で、看護の一件は内定いたしました。書面の取り交わしは、クレア様の病状が安定してからでよい、とアーロン様のお父様が口頭でおっしゃった。お父様はその日、ただ一度だけ眉を寄せられたが、最後には「娘の徳を信じる」とお答えになった。

 その頷きが、五年間続くことを、そのときのわたくしは、知らなかった。



 看護は、思っていたよりもずっと、過酷だった。


 クレア様は、我が家の離れに滞在された。専用の寝室を設え、薬の棚を誂え、二時間おきの投薬が始まった。


 深夜二時。

 深夜四時。

 深夜六時。


 わたくしはランプを手に、離れの回廊を渡り、クレア様の枕元に座った。

 薬の小瓶を選び、匙で量を測り、微温湯で溶かして、ゆっくりと飲ませる。体温を測り、脈を数える。そのすべてを、日誌の升目に書き込んでいく。


『十月二日、深夜二時。体温、平常。脈拍、六十八。深紅葉煎しんこうようせん、一匙。異常なし』


 文字を一つ書くたびに、まぶたが重くなった。

 それでも、わたくしは書き続けた。

 記録を取ることは、幼い頃からの癖だった。お父様の領地経営のそばで育ち、帳簿の付け方を教わった。数字と日付に嘘をつかないというのは、わたくしの根にある規律だった。


 食事も、わたくしが作った。

 クレア様の体に負担をかけないよう、塩分を控えた粥を毎朝炊き、特殊な煎じ薬を土鍋で煮出した。季節の野菜を刻み、だしを取り、香りの立たない薄味で整えた。

 日によっては、クレア様の好みが気まぐれに変わった。「今日は塩気がほしい」「昨日の粥は薄すぎた」——そのたびに、わたくしは献立を作り直した。


 月に二度、医師が往診に来られた。

 わたくしは立ち会い、診察のやりとりをすべて日誌に書き留めた。処方された薬の名前、分量、処置。そして、支払明細。

 家政官に明細を渡し、我が家から医療費を支払う手続きを踏んだ。五年間、通算で金貨千二百枚に上る金額だった。


 そして、夜会は、欠席した。


 十八歳の秋のデビュー夜会を、わたくしは欠席した。

 クレア様の体調が不安定な時期で、離れを離れられなかったから。

「来春、落ち着いたら」と、アーロン様は優しくおっしゃった。


 十九歳の春の舞踏会も、欠席した。

「もう少し、もう少しだ」とアーロン様はおっしゃった。


 十九歳の夏の園遊会も、欠席した。

「次の冬が越せたら」とアーロン様はおっしゃった。


 二十歳の建国記念祭も。

 二十一歳の王妃陛下主催の午餐会も。

 二十二歳の冬のお茶会も、すべて、欠席した。


 そのすべての場面で、アーロン様は、わたくしの肩にそっと手を置き、微笑まれた。


「イレーネ、君は本当に優しい。ありがとう」


 その言葉が、五年分、わたくしの背中に重なっていった。


 一度だけ、十九歳の秋、お母様から小さなお声で尋ねられたことがある。

「イレーネ。あなた、夜会は、もう何度目の欠席になるの」

「三度目でございますわ、お母様」

 わたくしは、淡々とお答えした。

 お母様は、何か言いかけて、やめられた。嫁ぎ先に尽くすことを美徳と教えられた世代の方だ。最後には、わたくしの髪をひと撫でして、「体を壊さぬように」とだけおっしゃった。

 そのお声が、なぜだか、夜ごと布団の中で思い出された。


 リンデマン侯爵家の同世代の令嬢たちが、春ごとに婚約を発表し、秋ごとに社交界を彩っていた。わたくしのもとに届く女友達からの便りは、最初の二年は「元気にしていますか」から始まっていた。三年目からは「ご無事をお祈りしております」に変わった。四年目からは、便り自体が、少しずつ、減っていった。

 それでも、わたくしは、夜ごとクレア様の枕元で、薬を量り続けた。

 優しいと言ってくださる方がおられる。病の方を放り出すのは、違う。

 そう、自分に言い聞かせていた。



 違和感を抱き始めたのは、三年目の冬だった。


 ある夜、わたくしが深夜二時の投薬のため離れの廊下を歩いていたとき、庭の方から、かすかな物音がした。

 馬具の鞘が、石畳に触れる音。そして、低い笑い声。

 わたくしは、ランプの灯を細めた。離れの二階の窓から、そっと庭を見下ろす。


 クレア様が——庭にいた。


 正確には、クレア様と、若い馬番が。

 クレア様はショールを肩にかけていたが、足取りはしっかりしていた。馬番と小声で何かを笑い合い、厩舎の方へ歩いていく。


 わたくしは、記録した。

『一月十一日、深夜二時十七分。クレア嬢、離れ南庭にて馬番と同行。歩行、自立』


 次の朝、クレア様の寝室を訪ねたとき、クレア様は青ざめた顔で布団の中にいらした。「昨夜は熱が出て、寝苦しかったわ」とおっしゃった。

 わたくしは、静かに頷いた。


 記録は、取り続けた。

 クレア様が庭に出る夜。アーロン様が他の邸宅を訪ねる日。処方される薬のうち、薬学書の索引に見当たらない名前。

 深紅葉煎。

 幽明散ゆうみょうさん

 静脈養命丸じょうみゃくようめいがん


 我が家の書斎には、医師会発行の薬品名録の写しが、五冊あった。父の代からの資料だ。

 わたくしは、五冊を、一頁ずつ確認した。

 深紅葉煎——登録、なし。

 幽明散——登録、なし。

 静脈養命丸——登録、なし。


 帳簿を開き、五年分の明細を並べた。

 未登録の薬品名が、十七種類。金額にして、金貨四百二十枚。

 登録薬の中にも、処方量が異常に多いものが混じっていた。

 こちらは、計算する気力が、その夜は、湧かなかった。


 わたくしは、ただ、書斎の机の上に、五年分の日誌を積み上げた。

 その背表紙が、胸の高さまで届いた。


 日誌の背には、年号と月が、墨で一つずつ記してある。

 端から端までを指の腹でたどると、冷たく硬い革の凹凸が、指先を小さく刺した。

 一冊ずつに、クレア様の夜がある。

 一冊ずつに、わたくしの夜がある。

 どの夜も、ほんとうに同じように繰り返されていたはずなのに、こうして積み上げてみると、五年という長さが、急に、重たい物体として、目の前に現れた。


 わたくしは、机の引き出しの奥から、一枚の紙を取り出した。

 十八歳の秋、舞踏会を初めて欠席した夜に、自分で書いた走り書きだった。

『本日、デビュー夜会欠席。代わりにクレア様の枕元で、時計が午前零時を打つのを聞く』

 紙の端は、五年分の折り癖で、細かい皺が寄っていた。

 わたくしは、それを、帳簿の最後の頁に、静かに貼り付けた。

 数字の下に、ひと言、自分の字で書き添える。

 『逸失。社交。五年』。


 不思議と、涙は、出なかった。

 涙が出ないということが、むしろ、五年の重さを証明しているような気がした。



 マキシミリアン先生が、我が家の離れに初めておいでになったのは、三年前の秋だった。

 アーレンベルク侯爵家の三男で、医師会に正式に登録された若い医師。お父様の主治医でいらしたアーレンベルク卿のご子息だった。


 先生は、月例の診察にお越しになるたびに、決して多くを語らない方だった。

 だが、三年前のある夕方、診察を終えてお帰りになる前に、わたくしに小さな声でこうおっしゃった。


「イレーネ様。一つ、ご確認させてください」


「はい」


「この処方明細の『深紅葉煎』——薬品名録に、ございません」


 わたくしの指先が、一瞬、冷たくなった。

 けれど、顔には出さなかった。ただ、静かに頷いた。


「記録しておきます、先生」


 先生は、それ以上は何もおっしゃらなかった。

 眼鏡の奥の瞳が、わずかに細くなっただけ。深く、長く、わたくしの顔を見つめた。

 ——その瞳が、「あなたは気づいている」と、言っていた。


 先生が、医師会に匿名で調査依頼を出してくださっていたことを、わたくしが知ったのは、それからずいぶん後のことだった。


 その日から、診察のたびに、先生の眼鏡の奥の瞳と、わたくしの瞳は、ほんの一瞬、合うようになった。

 言葉は交わさない。

 ただ、それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの記録を取り続けていることを、瞳の奥で確認し合うだけ。

 医師は処方の控えを、令嬢は看護の日誌を。

 二つの記録が、ある一日、医師会本部の長机の上で、並べられる日が来る——その予感だけが、二人の沈黙を、静かに支えていた。



 二十三歳の誕生日の朝。

 王家の使者ではなく、医師会の封印を押した書簡が、わたくしのもとに届いた。


『リンデマン侯爵令嬢イレーネ様。節目年齢の長期療養者抜き打ち健診に関し、ご同行をお願い申し上げます』


 クレア様宛ての健診通知だった。

 医師会は、長期療養中の貴族家成員に対し、本人・家族の同意なく抜き打ち健診を行う権限を持つ。八年前、医師会が王家から独立して以来の制度だ。

 通常は、二十三歳・二十八歳・四十歳の節目年齢で実施される。


 クレア様は、ちょうど今年、二十三歳ではなかった。十九歳だった。

 だが通知には、こう付記されていた。


『当該療養者の処方履歴に、医師会薬品名録に未登録の薬品が複数確認されております。会則第十七条三項に基づき、即時の健診を要請いたします』


 わたくしは、深く息を吸った。

 そして、静かに、吐いた。


 書斎の机の上、五年分の日誌と帳簿。

 それを、一冊ずつ、革鞄に詰めた。


 お母様は、出がけに「体を冷やさないように」とだけおっしゃった。

 お父様は、玄関で、わたくしの肩に手を置いて「お前は、お前の為すべきことを為しなさい」とおっしゃった。

 我が家の人々は、わたくしが帳簿を付け続けていたことを、いつの頃からか、知っておられたのだと思う。


 馬車は、医師会本部へと向かった。



 そして、今。


 会議室の長机。五年分の処方明細。クレア様の健診結果。

 マキシミリアン先生が静かにおっしゃる。


「五年間、寝たきりで療養を要した方の身体では、決して、ございません」


 わたくしは、革鞄から、五冊の日誌と一冊の帳簿を取り出した。

 革表紙は、手垢と灯油の匂いが染みついている。五年分の、わたくしの夜の匂いだった。


 医師会長は、目を細めてそれを見下ろし、一冊を手に取った。頁をめくる指先が、ほんのかすかに震えた。


「——これは、ご自身で?」


「はい。五年間、投薬と処置のたびに、日時・薬品名・分量・症状を記録してまいりました。お役に立つかどうかは、わかりかねますが」


 医師会長は、長い沈黙の後、もう一度頷いた。


「お役に立ちます。——極めて、お役に立ちます」


 その瞬間だった。


 扉が、荒々しく開いた。


「待て——!」


 駆け込んできたのは、アーロン様だった。

 息を切らし、夜会服を乱し、髪には無造作に風が吹いた跡がある。金茶色の髪は、いつもの整った流れを失い、目は血走っていた。


「誤解だ。イレーネ、これは誤解なんだ」


「アーロン様」


「クレアは——クレアは、本当に弱いんだ。君も知ってるだろう、あんなに咳き込んで、あんなに熱を出していたじゃないか」


 わたくしは、静かに頷いた。


「ええ」


「だろう——」


「では、アーロン様」


 わたくしは、日誌のうち、『五年前・八月』と墨で記された一冊を開いた。

 頁の端を指でたどる。黄ばんだ紙の上に、わたくしの筆跡が、一列ずつ並んでいる。


「八月十二日、午後二時十七分。クレア様は離れ南庭にて、馬番と歩行しておられました。わたくしは二階の物見窓より拝見いたしました。——同日、処方明細にはクレア様、高熱のため絶対安静、と記されておりますわ」


 日誌を閉じる。

 もう一冊、『二年前・一月』と記された日誌を開く。


「一月十一日、深夜二時十七分。同じく、離れ南庭にて馬番と歩行。笑い声あり。——同日、処方明細には『深紅葉煎、発熱抑制のため深夜三回投与』とございます」


 もう一冊。


「一月二十七日。——」


「……やめてくれ」


 アーロン様の膝が、床についた。

 ——いいえ、崩れ落ちた、という方が、正しいのでしょう。



 医師会長が、五年分の明細と日誌を、机の中央に並べた。

 白い羊皮紙の山と、わたくしの革表紙の日誌が、長机の上で、向かい合った。

 二人の書記官が両側に立ち、頁を繰る指先が、紙ずれの音を、規則正しく刻みはじめた。

 マキシミリアン先生は、両者を見比べながら、薬品名を一つずつ読み上げていく。


「八月十二日——処方明細、深紅葉煎、深夜三回投与。日誌、同日午後二時、患者、離れ南庭にて歩行」

「九月一日——処方明細、幽明散、絶対安静下投与。日誌、同日夕刻、患者、厨房にて菓子を所望」

「十一月五日——処方明細、静脈養命丸、臥床注入。日誌、同日午後、患者、厩舎にて馬の鬣を撫でる」


 一つ読まれるたびに、書記官の羽ペンが走った。

 一つ読まれるたびに、アーロン様の肩が、ほんの少しずつ、落ちていった。

 日付と症状と処方と——その日のクレア様の足。

 それらを並べただけで、嘘は——記録の前に、完全に、沈黙していった。


「未登録薬品、十七種」と医師会長が告げた。

「架空の処置、九件」

「架空の検査、二十三件」

「医師会認定外の薬剤商との、帳簿外取引、推定四件」

「総額、金貨四百二十枚の医療費架空請求」


 わたくしは、数字を聞きながら、胸の中で、そっと繰り返した。

 金貨、四百二十枚。

 その金額が、五年間、わたくしの婚約者家から、わたくしの実家に、請求され続けてきた。


 そして、わたくし自身は。

 夜会に、三つのシーズン、出ておりませんの。


「アーロン・グラーフェンベルク伯爵令息」


 医師会長の声は、穏やかに、だが、鋼のように、響いた。


「詐病誘導、ならびに医療費架空請求の嫌疑により、本件、王立裁判所へ送致いたします」


「待って、待ってください」


 アーロン様は、床の上で、膝をついたまま、顔を上げた。


「イレーネ、頼む。取り下げてくれ。君が一言言ってくれたら——」


 わたくしは、アーロン様を、静かに見下ろした。

 五年間、わたくしの背中に「優しい」という言葉を重ね続けた方の顔。

 いま、その顔の下から、別の顔が透けて見えていた。

 追い詰められた子供のような、早口で、目の泳ぐ、小さな顔だった。


「アーロン様」


「頼む、イレーネ——」


 わたくしは、日誌のうち、もっとも古い一冊を、手に取った。

 一頁目。十八歳の秋、わたくしが初めてクレア様の枕元に座った夜の記録。


「わたくしの五年は」


 日誌の表紙を、そっと、閉じた。


「病の名で、買わないでくださいまし」


 会議室が、しんと、静まった。

 アーロン様の唇が、声もなく動いた。

 そして、動かなくなった。



 健診の場には、クレア様もおられた。

 白い健診衣の下で、素の血色の頬が、ひどく目立った。五年間、頬紅を控えて青ざめて見せていた、その同じ頬だ。

 マキシミリアン先生の静かな問いかけに、クレア様は、最初は小さな声で否認しておられた。

 けれど、先生が処方明細を一枚一枚見せて、一つずつ症状との矛盾を指摘なさるうちに——クレア様の目に、涙がにじんだ。


「だって——」


 声が震えた。


「だって、アーロン様が——お願いだから、病気のふりをしてくれって。イレーネ様を、夜会から遠ざけておかないと、僕が困るんだって——」


 涙は、止まらなくなった。


「ごめんなさい、イレーネ様。ごめんなさい、ごめんなさい、わたくし、ずっと、ずっと——」


 わたくしは、クレア様の細い肩を、一度、軽く撫でた。

 罵る気力は、不思議と、湧かなかった。

 目の前の娘は——ほんの十四歳のときに、従兄の恋人になってしまった、愚かな娘だった。

 その愚かさを、利用した者の、罪の方が、ずっと重い。


 ただ、わたくしは、一つだけ、お訊きした。


「クレア様。一つだけ、教えてくださいませ。あの五年間、わたくしが二時間おきに飲ませた、あの薬。あれは、本当は、お口に、お含みになっておられたのでしょうか」


 クレア様は、肩を震わせた。


「……飲んでおりました。だって、飲まないと、イレーネ様が、ずっと枕元におられて——」


 言葉が、途切れた。

 飲んでいたのか。

 飲まされたものは、健康な体に、何の作用もない代物だったのだろう。けれど、だからこそ、五年間、毎晩、健康な娘が、健康なまま、わたくしの手から、何かを口に含み続けたのだ。

 その五年が、ふと、別の意味で、胸に重く落ちた。


 共犯であったには違いない。だが、十四歳から十九歳までの五年を、寝台で塗りつぶされたのは、この娘もまた同じだった。

 わたくしは、もう一度、クレア様の肩を撫でた。

 それだけが、わたくしのできる、最後の看護だった。


 それから医師会長が、書類の山から、もう一束の封書を取り出された。

 灰色の封印の押された、二百を超える手紙の束。


「医師会が未登録薬品の仕入れ経路を追うため、アーロン様ご用達の薬剤商を調査いたしました。その過程でアーロン様の居室を検めさせていただき、併せて押収いたしました。隣国イルベリア男爵家のエリカ嬢との、五年間にわたる往復書簡——二百三十七通でございます」


 アーロン様は、もう、顔を上げられなかった。


 エリカという名の令嬢は、隣国に外遊中であったはずだった。

 往復書簡の日付を、医師会長が静かに読み上げる。わたくしが、離れの深夜二時の投薬に立っていた、まさに、その夜の日付。

 わたくしの看護日誌と、その手紙の日付が——完全に、同じ日に、二つの別々の場所で、動いていた。


「司法送致、確定でございます」と、医師会長がおっしゃった。



 会議室を出たのは、夕刻だった。

 医師会本部の長い回廊は、石と陽光の匂いがした。窓から射し込む光は、もう、青白くはなかった。

 沈みかけの陽が、薄い金色を床に落としていた。


 わたくしの横に、静かに並んで歩かれる方がいた。

 マキシミリアン・フォン・アーレンベルク先生。


「イレーネ様」


 先生の声は、いつもと同じ、静かな声だった。


「五年、ご苦労さまでした」


 わたくしは、回廊の途中で、立ち止まった。

 日誌を抱えた腕に、不意に、力が入らなくなった。


 五年。

 毎晩二時と四時と六時の投薬。

 三つの社交シーズンの欠席。

 夜会に、出ておりませんの。


 その五年が、たった今、公的な記録として、この医師会本部の長机の上に、確かに、積み上げられた。

 誰も見ていなかった五年が、見られた、という、それだけのこと。


 それなのに——不思議なほど、膝が、弱くなっていた。


「先生」


 声が、ほんの少し、掠れた。


「記録を、取っていて、よかったと、思っております」


 マキシミリアン先生は、わたくしの隣で、静かに頷かれた。


「記録は、あなたを証明いたしました。——それは、あなた自身が、為したことでございます」


 わたくしは、日誌の表紙を、そっと、撫でた。

 五冊の革表紙は、五年分の灯油と軟膏の匂いを、まだ、微かに、残していた。


 マキシミリアン先生は、何かをおっしゃろうとして、一度、口を閉じられた。

 眼鏡の奥の瞳が、回廊の薄い金色の光を受けて、淡く揺れた。

 その揺れを、わたくしは見ないふりをした。先生もまた、見せまいとされている揺れだった。

 お互いに、まだ、急がない。

 それで、よかった。


 窓辺に立ち止まると、医師会本部の中庭が見えた。

 石造りの井戸の縁に、秋の薄い陽が落ちていた。

 その光を見ながら、わたくしは、ふと、自分の指に視線を落とした。

 爪の根元には、五年分の軟膏の匂いが、まだ、わずかに染みついている。

 この匂いも、いつか、消えていくのだろう。

 消えてしまうのが、少し、惜しい気もした。

 その匂いは、わたくしが、確かに、あの五年を生きたという証だったから。



 それから、半年が過ぎた。


 アーロン・グラーフェンベルクは伯爵家の継承権を剥奪され、さらに服役することとなった。返還義務は、架空請求分の金貨四百二十枚、実在薬の過剰処方分の金貨三百枚、我が家が立て替えた診察料の一部返戻金を合わせ、判決では金貨千枚超に確定した。五年通算の医療費総額が千二百枚、そのうちおよそ八割が不当請求だったということである。

 グラーフェンベルク伯爵家は、家格降格の処分を受けた。

 クレア・ヴァイセンベルク嬢は、共犯ではあったが、自ら真実を証言した功により、監督付きの療養処分で済んだ。隣国へ亡命しようとしたエリカ嬢は、国境で身柄を拘束され、外交問題として現在も交渉が続いている。


 わたくしは、リンデマン侯爵家の名のもとに、小さな事務所を開いた。

 医師会の推薦を受け、貴族家の医療記録を監査する、独立した事業である。

 名は、「リンデマン医療記録監査」。


 最初の依頼人は、マキシミリアン先生だった。

 先生のお父様が主治医を務めておられる、ある伯爵家の記録を確認してほしい、とのご依頼。


 事務所の開業の朝、わたくしは、新しい日誌を一冊、買った。

 革表紙は、まだ、何の匂いもついていない、新しい、薄茶の革だった。


 開いて、一頁目に、羽ペンで一行、書く。


『今日から、わたくしの日を、わたくしの記録にいたします』


 窓の外では、王都ヴェルナの秋の空が、澄んでいた。

 五年分、見ていなかった空だった。


 机の端には、五年分の日誌が、五冊、静かに積まれている。

 それはもう、誰かのための記録ではなく——わたくしが、わたくし自身で、取り続けた記録だった。


 ペンを置いて、わたくしは、静かに微笑んだ。


 事務所の戸が、控えめな音で叩かれた。

 マキシミリアン先生だった。手には、一束の処方明細を抱えておられる。


「最初の依頼でございます。お引き受け、いただけますか」


 わたくしは、立ち上がり、深く一礼した。


「お引き受けいたします、先生。——書類をお預かりし、わたくしの記録と、突き合わせ、必ず、事実をお返しいたします」


 明細を受け取ると、紙の重みが、両手にずしりと伝わった。

 その重みは、五年前にクレア様の枕元で、最初の薬瓶を量ったときと、同じ重みだった。

 ただ、違うのは、これからの記録は——わたくしが、誰のためでもなく、わたくし自身の意志で、取り続けるのだという、一点だけ。


 窓の外、王都の鐘が、夕の刻を告げた。

 わたくしは、新しい日誌の二頁目に、最初の依頼の日付と時刻を、静かに、書き入れた。




【あとがき】


 本作をお読みくださり、ありがとうございました。


 今回は「発覚型 × 断罪型」——令嬢は暴力的な報復をしません。ただ、五年間の日誌を、一行ずつ読み上げるだけ。それが、もっとも静かで、もっとも逃げ場のない断罪になる、という物語を書きたく思いました。


 「看病」という善意の鎧を着た詐欺の構造を、数字と書類で剥がす。イレーネの武器は、魔法でも剣でもなく、「記録を取り続ける」という、ごく地味な習慣でした。

 夜会に出なかった五年間が、彼女自身の手で、金貨四百二十枚分の証拠に変わる——その静かな逆転を、楽しんでいただけましたら、幸いです。


 核心の台詞「わたくしの五年は、病の名で買わないでくださいまし」は、書きながら、何度も、胸の奥で繰り返した一行でした。


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本作をお読みくださり、ありがとうございました。


 今回は「発覚型 × 断罪型」——令嬢は暴力的な報復をしません。ただ、五年間の日誌を、一行ずつ読み上げるだけ。それが、もっとも静かで、もっとも逃げ場のない断罪になる、という物語を書きたく思いました。


 「看病」という善意の鎧を着た詐欺の構造を、数字と書類で剥がす。イレーネの武器は、魔法でも剣でもなく、「記録を取り続ける」という、ごく地味な習慣でした。

 夜会に出なかった五年間が、彼女自身の手で、金貨四百二十枚分の証拠に変わる——その静かな逆転を、楽しんでいただけましたら、幸いです。


 核心の台詞「わたくしの五年は、病の名で買わないでくださいまし」は、書きながら、何度も、胸の奥で繰り返した一行でした。


 このシリーズは、「捨てられ令嬢は最後に笑う」——婚約破棄・追放・裏切り、捨てられた令嬢たちがそれぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


▼ 公開中


・「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

・「偽物の聖女は要らない」と追放された私、隣国で本物の奇跡を起こしたら元の国が滅びかけていた件

・「地味な婚約者を捨てて令嬢と結婚します」と言った騎士様が、3ヶ月で離婚されて路頭に迷っている

・「愛される価値がない」と言われ続けた伯爵令嬢、無口な騎士団長に拾われて初めて「おかえり」を知る

・「毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は、復讐なんて望まない——ただ、助けもしないだけ」

・公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました

・「証拠なら全て記録してあります」——記録魔法しか取り柄がないと捨てられた令嬢、婚約破棄の場で三年分の不正を読み上げる

・「鑑定しかできない令嬢」が追放された辺境は、実は世界最大のダンジョンの上でした


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 伯爵令息の分際で侯爵令嬢を愚弄し、詐欺まで働いたんだろ?  降爵で済むわけないだろ。  全財産没収の上、伯爵家はお取り潰しだろ。伯爵家が上位貴族の侯爵家に弓引いたんだぞ。謀叛と同義だ。  詐取した金…
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