春来
「なぁ、早く咲いてはくれないか。」
そいつが此処に来たのは、丸五年ぶりのことだった。
記憶の中のそいつとは随分と背丈が違っていたから、私は一瞬夢を見ているのかと疑った。
しかし、そいつの黒い瞳が私をすっと見上げたとき、私の記憶の中のそいつと目の前の男の姿がようやく繋がった。
あの頃から五年分成長したそいつ、朔玖は、あの頃よりも大人びた顔で私に笑いかけていた。
私は、百年を超える時を生きてきた桜の樹だ。
毎年美しい花を咲かせ、春には多くの人々がそれを愛でにやってくる。
しかし、花が咲かない時期に来る人は珍しい。花が咲くにはずっと早い頃にここまで訪ねてくる朔玖を、私は不思議に思っていた。
朔玖は、まだ年明けの空気が冷めやらないような時期に私を見上げながら、
「早く咲いてはくれないか。」と、毎年言いに来ていた。
その度に私は、
「まだ寒いから咲けないよ。花の準備も整っていない。開花はあと数カ月先さ。」
というようなやり取りをするのがお決まりになっていた。
なんてことない話だが、花の咲く季節でもなく、新緑の季節でも紅葉の季節でもない、誰に見向きもされない寂しい時期の私の元に、わざわざ毎年来てくれる朔玖を私は気に入っていた。
物言わぬ樹の姿の私に、人が人に話しかけるかのように言葉をかけてくれるのが、なんだか心地よくて嬉しかった。
朔玖は花が咲くとまた来てくれるから、その頃の私は、毎年開花時期になると、何処の花よりも早く、そして見事な花をつけていた。
それは朔玖のためなのもそうだったが、朔玖が言葉をかけてくれるお陰で、私を見てくれる人がいるんだなという意識が高まり、早く花を咲かせたくなるのだった。
朔玖が毎年律儀に来てくれるものだから、私はいつからか、その姿を待つようになっていた。
初めて来てくれた時から三回目の春に、私は朔玖ともっと話してみたくなり、精霊の姿を朔玖の前に現した。
精霊の姿の私は、本体であるこの桜の樹の元から離れることはできないが、人の姿をしており、人間にその姿を見せたり、声を聞かせたりすることができるのだった。
この姿の私を見た朔玖は、最初は私が桜の樹の精霊だと信じてくれなかった。
初めて話したときのことをよく覚えている。
「初めまして、私はこの桜の樹の精霊だよ。」
桜の樹の枝に座ってそう言った私に、朔玖は数秒目を丸くした後、
「…からかうのはやめてください。そんなところに登って、落っこちたら危ないですよ。」
完全に不審者を見るような目をしてそう言った。私は腹を抱えて笑った。
「馬鹿だね。この樹は私の本体さ。落ちるわけがないだろう。」
朔玖は、馬鹿と言われて少し機嫌を損ねたらしく、その場を立ち去りそうな雰囲気を出した。私はそれを引き留めようと口を開いた。
「あぁ、そうカッとなるな。馬鹿は悪かった。でも、私がこの桜の樹の精霊なのは本当だよ。」
私は樹からすうっと空中を滑るように飛び降りて、朔玖の目の前まで寄った。朔玖は面食らった顔をした。
「そんなに怖がるな。別に取って喰ったりしないよ。ただ、毎年こんな時期に来て話しかけてくれるのが嬉しくてね。あなたと話してみたかったんだ。」
朔玖は未だに警戒しながらも、逃げようとはしなかった。私はそんな朔玖に聞いてみた。
「桜は好きかい?」
「はい、好きです。桜もそうですが、春が好きなんです。」
「そうかい。なんで毎年私の元に通って話しかけてくれていたんだ?」
朔玖は一瞬迷うような顔をしたが、こう答えた。
「空耳かもしれませんが、この樹に話しかけると声が返って来るような気がしたんです。それが楽しくて、通っていました。」
私は、朔玖が自分と同じ気持ちでいてくれたことを知って、とても気分が高揚した。
百年は生きてきたが、こんな気持ちは初めてだった。
私はそれから、朔玖とたくさん話をした。朔玖の名前を初めて知ったときは、綺麗な名前だと思った。
朔玖は私にも名前はないのか、と聞いたが、私には名前がなかったから、答えられなかった。朔玖は私を桜と呼んだ。
朔玖と話していると、時間はあっという間に過ぎてしまった。暗くなってきたので家まで送ってやると言った朔玖を、私はまた笑った。
朔玖が私の正体をどういうふうに認識していたのかは知らない。本当に桜の樹の精霊だと思っていたのか、あるいは、自分を桜の樹の精霊だと思い込んでいる変な奴だと思っていたのかもしれない。
真意は分からなかったが、それでも朔玖は毎年ここへ通い、私と話をしてくれた。
大体、桜が咲くよりも早い時期に一回、桜が咲いた頃にもう一回来てくれていた。桜が咲くころには、他の人間も周りにたくさんいるから、私は朔玖の前に姿を現すことができなかった。
もともと精霊の姿はおいそれと人間に見せていいものではないからだった。こちら側の掟というやつだ。だから、私が朔玖と話すことができるのは、年に一回だった。
私は、その日を心待ちにしていた。しかし、それから数回季節が巡ったある時から、朔玖はぱったりと、花が咲く前の時期に私を訪ねて来なくなってしまった。
私は悲しくなった。しかし、桜の咲く時期には朔玖は来てくれた。私の知らない女の子を連れて。
それから毎年、朔玖はその女の子と花見をしに来た。
朔玖とその子は私の枝に咲き誇る美しい花の元で、幸せそうに笑っていた。
こういう感情を何と呼ぶのか知らなかったが、私は何故か、早く花を咲かせるのが嫌になってしまって、何処よりも早咲きだったのに、いつのまにか遅咲きの桜に変わってしまった。
そうしてせっかく花を咲かせても、早く散らしてしまいたく思えてきてしまった。私の花弁は涙のように朔玖の上に降り注いだが、朔玖は気づいてくれなかった。
そのうち、飽きたのかどこか遠くへ引っ越したのかは知らないが、花の咲く時期になっても朔玖は現れなくなった。
そして今日、そこから五年ぶりに朔玖は私の元に現れた。
私の元に来てくれていたあの頃と同じように、まだ開花にはずっと早い時期だった。
それこそ、つい数日前に年が明けたばかりだ。朔玖は私を見上げ、祈るような顔で早く花を咲かせて欲しいと言ってきた。私はそんな朔玖を鼻で笑った。
「まだ寒い。こんな時期に咲けるわけがないだろう。あと数カ月待てないのか。私は何年も待ったのに。」
朔玖は私の皮肉に気づいていないようだった。朔玖はいつになく血の気がない顔で、私に頭を下げた。
「お願いだ、桜。君が本当に桜の樹の精霊なら、早く咲かせてくれないか。一枝だけでもいいから。」
「一枝だけ花を咲かせるなんて、そんな器用なことができるわけがないだろう。」
私は呆れてそう言った。朔玖は続けた。
「僕の彼女が死にそうなんだ。医者は桜が咲くまで生きられないと言った。彼女はどうしても、死ぬ前にこの桜が見たいと言ったんだ。」
私は迷った。私は神でも仏でもない。五年も放っておいて思い出したように来て、早く咲けなど虫が良すぎる。まだ立春も迎えていないのに花をつけるなんて。準備もまだ済んでいない。
それにこの風の感じからして近いうちにまた雪が降るだろう。そしたら、せっかく咲かせたところで一瞬にして散ってしまうだろう。
そしたら、春になって花見に来る人たちはどうするのか。私にそんなことをする義理はない。そう思った。しかし、その時私は、朔玖の瞳から零れ落ちる大粒の涙を見た。
「三日、時間をくれ。必ず咲かせてやる。」
私の口からは至って自然にそう滑り出た。朔玖は顔を上げた。そして泣きながら私に感謝した。
「ありがとう、本当にありがとう。」
その三日後、急速に咲かせた花は見事に咲き誇った。私は、私の本体の一枝を折り取ると朔玖に渡した。
「いいから、早く持って行ってやれ。」
私がそう言うと、朔玖は大事に受け取り、ありがとうと笑って走り出した。小さくなって行くその後ろ姿を私はずっと眺めていた。
そんな私の顔の上に、季節外れの桜の花びらと共に、雪がひらひらと少しずつ降り注いできた。
桜に雪というのも、なかなかに風流かもしれないな、と思った。
朔玖はまた来てくれるだろうか、私は朔玖の役に立てただろうか。
私はあいつのためにここまで…いや、違うな。
朔玖の瞳から零れた催花雨があまりに綺麗だったものだから、うっかりと狂い咲いただけだ。
ただ、それだけのことだった。




