表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

日曜にはアボカドの種を植えよう

作者: 瀬崎由美

 特に用事の無い土曜日の夜、私は必ず夜ご飯にサラダを作る。サラダの種類はその日の気分次第。野菜だけだったり、エビやハム、マカロニが入っていたり。ドレッシングをかけるだけの時もあれば、マヨネーズで和える時もある。だけど、決まって材料にはアボカドを一個使うようにしていた。


 当然だけど、アボカドは栄養価が高い食材だ。そして、カロリーも高い。一個でお茶碗一杯分のご飯と同じだと聞いてから、食べるのは一日に半分までと制限するようになった。だから、一人暮らしだけれどサラダは一度に二食分をまとめて作る。土曜にその半分を食べて、残りは日曜の朝ご飯用だ。


 昨日の夜に作ったサラダを、カフェオレと薄焼きのトーストと一緒に食べ終えると、「ごちそうさまでした」と手を合わせてから一度だけ大きく伸びをする。天井に向けて身体を引っ張り上げると、背中がゴキゴキと不穏な音を立てていた。


 五日働いて二日休んでという、何の代わり映えもない規則正しい毎日にもすっかり慣れてしまった。大学を卒業してから六年間も同じ生活を続けているのだ、もうこのリズムが身体に染み込んでいる。

 解放感を覚える金曜の夜から、じわじわと気が抜けていく土曜日。何だかんだと日曜の昼までに完全復活できていれば、明日から始まる新しい週も乗り越えていけるはずだ。


 六畳のワンルームマンションに控えめに備え付けられたキッチンは、お世辞にも使い勝手が良いとは言えない。それでも何とか使いこなせているのは慣れ以外にないだろう。


 食器を洗い終えると、私はシンク脇に置いていたグラスの中に手を突っ込んだ。水を張ったグラスから取り出したのは、直径三センチの茶色の球体――さっき食べたサラダに入れていたアボカドの種。昨夕に調理した時、綺麗に洗ってから水に浸しておいたのだ。


 真ん丸のコロンとした形はクヌギのどんぐりに少し似ている。ああ、どんぐりも種だから、似ていても当たり前か。すっかりふやけた表面の茶色の皮を丁寧に剥がすと、中から薄っすらピンクがかった白色の種が姿を現した。

 私はそれをペットボトルで加工した水栽培容器に置いて、種の三分の一だけが水に浸すようにセットする。そして、窓際の棚の上に並べ置いた。


「あ、これはそろそろ植え替えかなぁ?」


 日当たりの良い棚の上に並んだ容器は二十個ほど。透明のペットボトルの中の水がキラキラと壁やフローリングへ朝日を乱反射させている。種の様子を順に確認していくと、新たに白い根が出ている物がいくつかあった。一番古いのは四か月前に食べたやつで、長い白髭のような根っこが下からわさわさと生えていて、上に伸びた茎からは長細い緑の葉っぱが四枚も出ている。そろそろプランターへと植え替える時期だ。


 ベランダへと続く窓を開き、植え替える為のプランターの用意をしていると、隣の部屋からも窓が開いて住民が外へ出てくる音が聞こえてきた。


「おふぁよぉ……」


 欠伸交じりのぼやけた声を出しながら、パーテーション越しに隣人が顔を覗かせた。お隣の三〇三号室に住む木下詩織だ。ベランダの柵に身を乗り出した体勢で、炭酸水の入ったペットボトルを持つ右手を振ってくる。


「おはよう。昨日も遅かったの?」

「うん……しばらくは面談が続くから、その資料作ったりとかいろいろね。今年はこの時期になってもまだ志望校が決まらない子が結構いるからね……」

「そっかー」


 中学生向けの個別塾の講師をしている詩織は、私より一つ年上の二十九歳。昼頃に出勤して、夜は終電の少し前くらいの帰宅が多いらしく、普段は全く生活時間が合わないが、唯一日曜だけは休みが同じで、たまにこうしてベランダ越しにお喋りするようになった。


「何? それ土に植え替えるの? 相変わらず水だけでも凄い育ってるよね、それで何日目?」

「これは、百日ちょっとかなー」


 私が手に持っていたアボカドの苗に気付いて、詩織が感心した表情を見せる。


「しかし、いつ覗いてもリンちゃん家のベランダは癒されるわぁ。やっぱ緑がある風景っていいよねー」


 ペットボトルの蓋を開けて、炭酸水をごくごく飲みながら、詩織は我が家のベランダの中をしげしげと眺めていた。私は隅っこに重ねて置いていた空のプランターの一鉢へ赤玉と腐葉土を混ぜた土を移し入れながら、少し得意げにふふふと笑い返す。


 日当たりだけは良いベランダの一角では、水栽培後に土へ移植したアボカドがすくすくと育っている。一番古いのでもうすぐ二年。どれもまだ木と呼ぶには低くて弱々しい苗木だけれど、全部自分が食べたアボカドから取り出した種の成長した姿だ。だから、我が子を褒められたようでかなり嬉しい。


「しーちゃんも何か植えてみたらいいのに。ここ日当たりいいから、何でも育つと思うんだけど」

「あー、無理無理。ちゃんと世話できない自信だけはめちゃくちゃある」

「えー……」


 水栽培容器から出した苗木を慎重に土に植え替えながら、私は意外だという風に笑った。面倒見の良い彼女のことだから、植物だって上手に世話できそうなのに。思春期真っ只中の中学生の相手よりも、こっちの方がよっぽど簡単だと思うんだけど。


「あ、そう言えば、私もこないだアボカドを買ったんだった。今日あたり、食べなきゃ……」

「じゃあ、試しにそれ育ててみたら?」

「だから無理って。世話できないし」


 残りの炭酸水を一気に飲み干すと、蓋を締め直しながら詩織が苦笑いを浮かべた。水栽培なら数日おきに水を入れ替えてあげるだけでいいんだよ、と伝えても、「それすら自信ない」と返ってくる。これからの時期、特に仕事が忙しくなるから自分の世話だけで精一杯だという。


 食べたアボカドの種はとりあえず片っ端から育てている私としては、栽培仲間が増えたら嬉しいと思ってしまうのだけれど、こればかりは強制する訳にもいかない。趣味の押し付けはタブーだ。残念だけれど、お隣さんの買ってきたアボカドの種は明日の朝に可燃ごみとして廃棄される運命なのだ。そう考えると、なぜだか寂しい気持ちが押し寄せてくる。


「あー、でも、うちにも緑が欲しい……いや、やっぱ世話できなくて枯らしてしまうのが目に見えてるか」


 私の部屋のベランダを眺めながら、詩織はぶつぶつと独り言のように呟く。普段はほとんど自炊しないと言っている彼女が、食材を買ってくること自体が珍しい。しかもアボカドをだ。きっと彼女も種を取って、それを育ててみたいと一瞬でも考えたのかもしれない。それが私の影響ならちょっと嬉しい。


 だけど、毎年この季節の彼女は、仕事が忙しくなると部屋へは眠りに帰ってくるだけの生活になる。ほぼ一日中カーテンが閉め切られたままの部屋では、植物はまともに育たないだろう。否、それ以前に数日おきの水替えができなければ、水から簡単に腐ってしまう。もし真っ暗な部屋で発芽できたとしても、光合成ができずにすぐに枯れてしまうはずだ。


 詩織もアボカドの栽培に興味を持ってくれたことが嬉しかったのもあるし、何よりも彼女がせっかく買って来た物の種が容赦なくゴミとして捨てられていくのを見過ごせなかったというのもある。だから、私は思わず隣人へと無謀ともいえる提案を持ちかけた。


「じゃあさ、私が途中まで育ててあげようか? 土に植え替えた後はたまに水あげるくらいでいいし、冬以外は外に出しっぱなしでも平気だから」

「えー、そんなの悪いよ……」

「違う。アボカドがあるって聞かされたら、種を育てない訳にはいかないんだよ」

「あはは、何それー?」

「もはや、これは使命だね。言っとくけど私、外では絶対にアボカド料理は注文しないんだから。裏でひっそりと種が廃棄されるのが居たたまれないっていうか……」


 空のペットボトルを足下に置いてから、詩織はさらにうちのベランダの方へと身を乗り出して声をあげて笑っていた。その私達の話し声がご近所中に響いていたのか、マンションの下の階の窓がカラカラと開いた音がして、慌てて声をひそめる。


「全部が全部、発芽するとも限らないけどね。ほら、今ちょうど容器が一つ空いたところだから」


 土に植え替えたばかりの苗木に使っていた水栽培用の容器を指差し、私がそういうと詩織は少し考える素振りをしていた。けれど割とすぐに「じゃあ、後で種取ったら持ってくね」と言ってから、私に種を取る際の注意点を確認してきた。


「これって、カッコウの托卵みたいだよね。卵じゃなくて種だから、この場合は托種か」

「托卵って魚とか虫でもあるらしいね」

「あー、最近は托卵女子とかも言うし、ヒトでもあるんだね。夫以外の相手の子をしれっと我が子として育てるってやつ」

「うわ、怖っ」

「そんな度胸あるんなら、とっとと離婚して家出ればいいのに……」


 急いで果肉を切って取り出したという種を持って、詩織が玄関のチャイムを鳴らしたのは昼の少し前。日曜だけれど受験生の為に自習室を開けなきゃいけないと、黒色のスーツを着た彼女は仕事用の落ち着いたメイク姿だった。詩織は綺麗に洗ってキッチンペーパーに包まれた茶色の丸い種を、「お願いします」と私に託してから出勤して行った。


 詩織が置いていった種は私が昨日取った物よりもかなり大きかった。スーパーでバラ売りされている百円前後のものじゃないのかもしれない。だからもしかしたら、普段育てているものとは違う色の葉が出てくるのかも。そう思うと密かに胸が高鳴った。もうそろそろ、私はアボカドの水栽培オタクを名乗っても良いのかもしれない。


 詩織との日曜の朝の交流が始まったキッカケも、やっぱりアボカドの種だった。例のごとく私がベランダで土や種のお世話をしていた時だ。


 春の温かい日差しを浴びながら、前日に取り出して茶色の皮を剥いた種を横に置き、私は腐葉土に赤玉を混ぜ込む作業をしていた。私はついつい水をやり過ぎてしまうので、出来るだけ水はけの良い配合にと赤玉多めに足していたところ、ベランダ用に履いていたサンダルの踵が種の一つに当たってしまったのだ。

 あっという間に勢いよくコロコロ転がり始めた種は、三〇三号室のベランダとを隔てている白色のパーテーションの下を潜り抜けて行った。


「あ……!」


 どこに転がってったかを確認しようと、私はベランダのコンクリートの床に膝をついてパーテーションの下からお隣を覗いた。種は手を伸ばしても届きそうもないくらい、結構離れたところまで転がってしまっていた。


「どうしよ……」


 どうせ元々はただのゴミなのだからと諦めるか、それとも玄関に回ってお隣さんにお詫びして取って貰うようお願いするべきか。コンクリートの床に這いつくばりながら悶々と私が悩んでいると、お隣のベランダに住民が洗濯カゴを抱えて外に出てきた足下が見えた。


 私が「あっ」と思ったのとほぼ同時に、隣人は床に転がっている丸い物体に気付き、足を止める。拾い上げようと一旦は屈み込んだみたいだったが、得体のしれない物に触れる勇気は無かったらしく、しばらく硬直していた。皮が付いた状態なら栗やどんぐりか何かに見えたかもしれないが、剥き終わった後の種は初見ではよく分からなくて当然だ。

 私は慌てて、パーテーション越しに三〇三号室のベランダに顔を出してから声を掛けた。お隣の部屋のベランダは物干し竿以外は何も無く、ガランとしていた。


「すみませんっ、種がそちらへ転がってしまって……」

「種、ですか?」

「はい、アボカドの種です」

「アボ……アボカドって、あのアボカド?」


 朝のゴミ出しでたまに顔を合わせる程度だった隣人と、「おはようございます」以外の言葉を交わしたのは初めてだったかもしれない。

 転がっていたものの正体が分かったら平気になったらしく、詩織はすぐに拾い上げて種をパーテーション越しに手渡してくれた。


「食べる度に育ててるんです。結構、簡単に芽が出るのが楽しくて」

「へー」


 こちらのベランダを覗き込んできた詩織に、私は土に植え替えて大きく育った一年半物の苗木を得意げに見せた。


「種から育てたのも実はなるんですか?」

「なるみたいですけど、地植えでも十年くらいかかるみたいですね。だからほぼ観賞用です」

「家に緑があるのは素敵ですね」


 羨ましそうにそう言いながら、詩織はプランターを置いていた一角を眺めていた。

 その一件以来、タイミングが合えばベランダでどちらからともなく声を掛け合うという関係が続いている。お互いに年齢も近いし一人暮らしということもあり、防犯や有事の際に助け合うという意味で、合鍵を持ち合うくらいに親しくなってからは半年くらいだろうか。


 私が週末にアボカドサラダを作るようになったのは、何を隠そう会社の先輩の影響が大きい。新人時代の私の教育係で、すらりとした長身美人の飯野さんは会社の向かいのビルに入っている総菜屋さんのアボカドサラダがお気に入りだった。二日に一度は買いに行くほどの、完全な常連だ。既婚者で兼業主婦でもある彼女にとってそのサラダは「仕事のある日の楽しみ」なんだと言っていた。


 産休と育休を取った後に職場復帰するはずだった先輩は、産後の体調不良が続いたせいで結局そのまま退職してしまったけれど、私にとって彼女は今でも憧れの存在だ。彼女を真似してアボカドサラダを食べたところで何かが変わるとも思えないけれど、何となく思い出してスーパーの野菜売り場でアボカドを手に取ったのが始まりだった。


 深い緑というよりは黒に近い濃い色の皮。お尻でっかちな何とも形容しがたいフォルムのそれは、野菜なのか果物なのか?

 レシピサイトを見ながら作ってみたサラダはそこそこ美味しくできた。食べながら何となくアボカドについて検索していると、ゴミとして捨てるつもりでいた種が意外と簡単に栽培できることを知った。生ゴミをまとめていた袋から慌てて種を拾い上げ、私は水を張ったお皿の上にそれを置き、窓際の棚の上に乗せた。


 けれど、すぐにそのことは頭から忘れ去った。確か、入社三か月の後輩が二人、揃って出勤してこなくなった時期だ。多分、前日に二人で飲みにでも行って、ノリと勢いで一緒に辞めることにしたのだろう。うちの部署は軽いパニック状態になった。今でも思い出す度に、怒りが収まらなくなる。


 仕事が何とか落ち着きを取り戻し、帰宅後に部屋の中を見回せる余裕が出て初めて、私は棚の上に置きっ放しになっていたお皿の上で、いつぞやの種が白い根と緑の芽を生やしていることに気付いた。


「ハァ⁉︎」


 水に浸けていただけで伸び伸びと成長している種の生命力に、短い驚きの声が出た。その力強い姿に、ちょっと笑えてきた。何だか、ここ最近のがんばりが評価され、ご褒美をもらった気分になった。


「そうだ、駅前の本屋跡にフィットネスジムができるの知ってる? 二十四時間営業の無人のやつだってー」


 ジョウロで土植えのアボカドに水をあげながら、私はパーテーションから顔を覗かせている詩織に話しかける。

 いつもと変わらない平和な日曜の朝。昨夜も終電ギリギリに帰って来たという詩織は、少し腫れぼったい眼をしばしばさせながら首を傾げて返した。


「本屋跡って……?」

「ほら、コンビニの隣の。ずっと空き店舗だったところ、ようやく工事が始まったと思ったら、今度はジムが入るって張り紙してたよ」

「えー、そっち系かぁ……」


 近所で唯一あった本屋が閉店したのは、今から三年も前だ。二階にはレンタル屋も併設した少し大きめのお店で、営業時間も二十三時までと長くて重宝していた。駅から徒歩三分もかからないという立地もあって、いつ行っても客が多く、まさか倒産するとは思ってもみなかった。


 たまに覗く程度だったが、本屋というのはいざ無くなると一気に不便に感じるものの筆頭と言っていい。いくらオンラインでも買えると言っても、本というのは今この瞬間に読みたくなって手に取るものなのだから。


「また別の本屋が入ってくれないかなぁって期待してたんだけど、私もジムには用が無いわぁ」

「だよねぇ」

「しーちゃん、何か運動とかしてる?」

「してる訳ない。身体動かしてる暇あったら、寝てるわ」


 「わかる」と頷き返し、私はベランダのコンクリートの床に落ちているアボカドの葉を拾い集めていく。


「肩とか腰とか、そろそろヤバイって自覚はあるんだけどね……」

「私もー。だからって、どこかに通って強制的に運動する気にもなれない」


 今度は詩織の方が「わかる」と頷き返してくる。


「二十四時間営業だから仕事帰りに通えるって言われてもねー。そんな体力残ってるような健康なヤツは、ジムとか全然通う必要ないじゃん。元気にその辺を適当に走ってりゃいいのに」

「あはは、確かにー」


 ちょっとやさぐれ気味な詩織の台詞に、私は声を出して笑った。年齢的なものなのか、最近は疲れが溜まってくると一晩寝ただけではすっきりしないことがある。だから就業後は一秒でも早く家に帰ってきたい。帰宅途中になけなしの体力をさらに削ってこようだなんて、正気の沙汰とは思えない。典型的なインドア思考だ。


「会社の同僚に、朝活でヨガやってる子がいるんだけど」

「へっ⁉︎ 朝活ってことは、仕事前に?」

「うん、朝六時からオンラインで受けられるヨガ教室があるんだって。朝ヨガって言ってたかなぁ」

「意識高っ! そういうの、見習わなきゃいけないのは分かるんだけどね……まあ、全然無理だけどー」


 朝六時と聞いて、詩織は「ひゃー」という変な声を出していた。彼女は朝八時半のゴミ収集時間にも間に合わない日があるくらい、めっぽう朝に弱いタイプなのだから当然だ。

 私は低血圧でも夜型でもないけれど、会社でその話を聞いた時に詩織と同じような反応をしたことは今は内緒だ。


 アボカドのお世話が全部終わり、私もパーテーション傍の柵に凭れかかるようにして、詩織の隣で外の景色を眺める。マンションのベランダから確認できるのは裏の住宅の屋根と、駅前のビル群ばかりで、その向こうにあるはずの緩やかな坂と細い市道が交わる風景は全く見えない。


 同じような日常が続く毎日。たまにもうこれ以上は嫌だと思う時もあるけれど、それでも何とか過ごしてこれているのは、その日常の中に小さな変化を見つける時があるからだ。それはアボカドの初根だったりするし、ただ単に目覚めが良かっただけのこともある。でもその小さなことを喜ぶ気持ちで、私は毎日を生かされていると感じるのだ。


 今、同じ景色を見ている詩織は何を考えているんだろうかと、そっとパーテーション越しに隣のベランダを覗き見る。詩織はベランダの天井に張った蜘蛛の巣を見つけて、ほうきで取り除こうと腕を伸ばしていた。けれど長さが微妙に足りなかったらしく、悔しそうな顔で部屋の中へと戻っていって椅子を運び出してくる。


「こういう害虫駆除ってさ、管理会社に言えば何とかして貰えるのかなぁ?」

「多分やって貰えるかもだけど、休みの日に業者に来て貰うのも面倒だよねー」

「分かる分かる。それだけの為に部屋を片付けるのもだし、指定された時間に居なきゃいけないってのもね……」


 要望はあっても、かなえて貰う為には何かを犠牲にしなければならない。なら、蜘蛛の巣ぐらいは自分で掃除した方がマシだと、詩織は糸を引きながら落ちて来た蜘蛛をほうきで払い除けていた。


 私は週に一個のペースでアボカドを買って食べている。それは憧れの先輩が恋しくて始まった習慣だけれど、窓際の棚やベランダで育てている種や苗木が食べた全てじゃない。種を取る際に包丁で傷付けてしまったり、水に浸していても全く発芽しなかったものも多いし、根や芽が出てもその後に枯れてしまったものもある。プランターに移植しても根付かなかったなんてのはザラだ。


 中には元々から傷んでいる種だってある。果肉は問題なく食べられるのに、種自体が腐りかけていたり、初めから真っ二つに割れていたり。だから発芽して青々とした葉を生やしてくれるポテンシャルの高い種との巡り合わせは運だ。

 その話をした時、詩織はしみじみと頷きながら言っていた。


「何か、子供達の成績をみてるみたいだね……」

「育成とか成長とか、そういう意味で?」

「そうそう。ほら、子供でも塾通いさせてもらえる子って、一部じゃない? その中でも伸びる可能性のある子とそうじゃない子がいるし、さらに本人に合った環境かどうかで成長できるかが決まってくるんだよね。どこでも育つようなド根性な子の存在は奇跡に近い。伸び始めるタイミングも千差万別だから、最初から一気に飛ばす子もいれば、大器晩成でギリギリになる子だっているし」


 担当している受験生が伸び悩んでいるらしく、詩織はハァと大きな溜め息をついていた。模試を受ける度に弱点を分析して、適切な対策をしているつもりなのに思うように偏差値には反映してくれない。生徒自身が一番辛いのは分かっているから長い目で見守ってやりたいのに、保護者からは転塾をチラつかされているのだという。


「この時期に環境を変えたところでって言い返したいんだけど、その子にとっては何が正解なのかは分からないんだよね……」

「確かに。諦めて土の肥やしにしようと埋めてたやつが、忘れた頃に発芽してたりもするしね」

「うん、なかなか読めない子もいるんだよ。親にも分からないのに、他人の私が分かるかって感じ」


 ベランダの隅に置いている使い回しの腐葉土が入ったプランターを、私はチラりと見る。何週間待っても成長の見られなかった種をコンポスト代わりの土に混ぜ込んでみたら、後から青々とした芽を出していたことがあるのだ。

 その時は互いに、「思うように育てるって、難しいよねー」と分かったように頷き合ったと思う。


 そんなことを思い浮かべながら、私は詩織から預かった種を右手の指先で摘まみ上げる。水栽培を始めてから二週間。見た目には何の問題も無さそうだったアボカドの種は、まだ発根する気配も見せない。

 同じ日に栽培を始めた、私が食べた物の種は、底から白くて短い根を生やしている。なのに詩織の種は全然だ。


「死んでるのかな……?」


 顔に近付けて様子を観察してみると、果肉を切る時に付いたっぽい包丁の痕が薄っすらと赤色の線として現れている。この血のような赤い色になるのは種が生きている証拠。まだ反応がないのは品種が違うからかもと、私は詩織の種を窓から一番近い日当たりの良い場所に移動させてみる。

 今朝、ゴミステーションで顔を合わせた詩織の、この上なく疲れ切った顔を思い浮かべて、私は「早く芽が出るといいなー」と呟いた。


 日曜の朝、私はいつものようにベランダでアボカドの鉢植えの世話をしていた。観葉植物用の肥料を苗木の根元に撒きつつ、落葉したものを拾い集める。朝夕はぐんと冷えるようになったから、そろそろ部屋の中に移動させようかと考えていると、隣の部屋の窓が開く音が聞こえてきた。


「おふぁ、よぉ」


 まだまだ眠いと言いたげな声の詩織が、パーテーションの向こうから顔を見せる。モコモコと温かそうな部屋着のまま、片手には栄養補給タイプのゼリー飲料。


「もしかして、それが朝ごはん?」

「あー、うん……疲れ過ぎて、固形の物が喉通らないっていうか。ああ、でも、本番前のピークは過ぎたから、しばらくは平気。あと出来ることは限られてるし、もう見守るだけっていうか」


 一番気が張る志望校決めが一通り終わったと、ホッとしたような表情を見せる。


「心配だった生徒も、少しずつ結果が出始めてるし、ようやくスタートラインに立てた気分」

「転塾するとか言ってた子?」

「そう、親は早く過去問を解かせろってうるさかったんだけど、基礎力のないまま手出してもって、説得するの大変だったんだから……でも、なんとかね」

「そっか、お疲れー」

「ほんと、お疲れだよ、私」


 乾いた声で笑う詩織に、私は「ちょっと待ってて」と声を掛けてから、部屋の中へ戻る。そして、窓際の棚の上からペットボトルで作った容器を一つ手に取って再びベランダへと出た。


「見て! 今朝、やっと根っこが生えてきたんだよー」


 詩織から預かっていた種を指先で摘まんでひっくり返して見せる。まだ五ミリほどの短さだけれど、太さもある逞しい根が種の下からニョキっと伸びていた。


「わ、完全に忘れてた……!」

「なかなか出ないからどうだろうと思ってたけど、この子もゆっくり伸びるタイプだったみたい」

「そっかぁ、こうやってちゃんと成長してるの見るのって、なんか嬉しいね」

「だね」


 手の平に乗るような小さな種の、力強い生命力を感じながら、私達は顔を合わせて笑いあった。小さな変化だけれど、とても大きい前進。この先どうなるかは分からないけれど、それでも今の状況は素直に喜んでいればいい。些細な成長が積み重なりつつ、私達はこれからも同じような毎日を生き続けていくのだ。


 私はこれからも、週末には飽きるまでアボカドサラダを食べて、その種を育てていこうと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ