守るということ
きっかけは、ほんの気まぐれだった。
今日は朝から空気が温んでいて、屋敷の中庭にも春の気配が漂っていた。庭に面した石畳の小道を歩いていたフィオは、昨日のことを、ふと思い出していた。
グレイスが何気なく話していた老馬のこと。
十年も前から飼っている馬で、足も弱ってきた今は、毎朝リディアが餌をやっているのだという。
そのときは、ただ「へえ」と思っただけだった。けれど今朝、窓の外の光を見ているうちに、なぜかその馬に会ってみたいと思った。
どうしてそう思ったのか、自分でもうまく説明がつかなかった。
厩舎は中庭の奥、小さな林の手前にあった。木造の素朴な建物の前に回り込むと、柵越しに一頭の馬がのんびりと首を振っていた。灰色に近い白馬で、たしかに年老いた印象を受ける。
「……あなたが、あの馬?」
小さく呟いて、一歩だけ近づいた。
そのときだった。風が急に強くなり、林の木の枝がざわりと鳴った。乾いた葉が舞い上がり、柵の中へと吹き込んだ。
馬が小さくいななき、頭を振った。
フィオは足を止めた。馬の様子が、さっきと違う。
そのときだった。風が急に強くなり、林の枝がざわめいた。
舞い上がった細い枝が、ぱさりと馬の背に落ちる。
ばちん、と乾いた音。次の瞬間、馬がいななきとともに身をのけぞらせ、前足を高く持ち上げた。
振り下ろされた蹄が、まっすぐこちらに向かってくる。体はこわばって動かない。
——蹴られる。
そのとき、視界が急に暗くなった。
「フィオッ!」
叫び声と同時に、誰かが飛び込んできた。
細い腕が、自分をかばうように伸びた。
思考が追いつく前に、温かさが触れた。
すぐに、衝撃と重さ——そして、柔らかな香り。
——リディアだった。
彼女の顔がすぐ横にあった。苦しげに歯を食いしばりながら、それでも前を向いて、馬の方に手を伸ばしている。
「落ち着いて、大丈夫……ごめんね、びっくりしたよね……」
優しい声だった。
けれど、その声の奥に、ごくかすかな痛みの色が混じっていた。リディアは左腕を押さえ、その指先はわずかに震えていた。袖口の下、肘のあたりには擦れたような赤みがあり、乾きかけた血が少しだけ滲んでいる。
脇腹にも泥がこびりついていた。馬の前に飛び込んだ拍子に、かなり強く地面に打ちつけられたのだろう。それでも、彼女は平然とした顔を崩さず、静かに馬に語りかけていた。
「落ち着いて、大丈夫……ごめんね、びっくりしたよね……」
その声に、馬がふっと鼻を鳴らす。まだ興奮が残っている様子だったが、動きは徐々に穏やかになっていく。
背を波打たせるようにひとつ震わせると、前脚を静かに地におろし、肩を落とすようにして柵の奥へと身を引いた。
「……リディア、様……」
フィオは、小さく呼んだ。
けれど、それは言葉というより、喉の奥からこぼれ落ちた音のようで——自分でも、意味がわからなかった。
ただ、胸の奥が、きゅうっと痛くなっていた。
そのとき、厩舎の奥から駆けつけてきたのは、グレイスだった。
息を切らしながら、柵の外からふたりの姿を見つけると、顔色を変える。
「お嬢さん、フィオ!? 一体なにが……ああ、腕が……!」
地面に手をついたままのリディアを見て、グレイスの声がわずかに震えた。リディアは、そんな彼女に向けて、小さく笑ってみせる。
「平気よ……ちょっと痛いだけ。フィオに、何もなくてよかった……」
笑顔のつもりなのだろう。けれど、その頬は少し青ざめていて、声もどこか掠れていた。
その言葉に、フィオの胸がぎゅっと締めつけられた。
なんで、そんなふうに笑えるの。
なんで、こんなことまでしてくれるの。
痛いはずなのに、怖かったはずなのに——どうしてそれでも、私のことを真っ先に気にかけるの。
グレイスがそっと手を差し出すと、リディアは一瞬だけ遠慮するように視線をそらしてから、その手を借りてゆっくりと立ち上がった。
少しよろけた肩を、グレイスが自然な仕草で支える。
「屋敷に戻ろう。……フィオ、来てくれる?」
その声は、いつものように静かで穏やかだった。
けれど、振り返ったときに目が合った一瞬だけ、ほんのかすかに、痛みを堪えるような色が揺れていた。
フィオは、何も言わずに頷いた。
その場に立ち尽くしたまま、自分の手が小さく震えているのに気づいた。
このひとは、私を傷つけない。
たぶん——それだけは、もう信じてもいいのかもしれない。
でも、信じた先に何があるのか、私はまだ知らない。それが怖くて、それでも、心の奥ではどこかあたたかかった。