触れられなかったぬくもり
「ありがとう」なんて、言うつもりじゃなかったのに。
言葉が口をついて出た瞬間、自分でも驚いて、胸がずっとざわついていた。布団に入っても心臓の音がうるさくて、まぶたを閉じても、あの声の余韻が耳の奥から離れない。
顔の火照りは収まらず、枕の冷たさにも逃げ場はなかった。心臓の音が耳の奥で響くようで、布団に潜っても火照った頬の熱は引かず、眠れないまま夜が過ぎた。
思い返せば、リディアはあのとき、ほんの一瞬、目を見開いて——それから、微笑んだ。
とても優しくて、まるで何かを許すような、包みこむような目だった。
叱られるでも、試されるでもなく、ただ「そこにいる私」を見つめてくる瞳だった。
そんな目を向けられたのは、たぶん、生まれて初めてだった。
どうして、あんなふうに笑うんだろう。どうして、あんなふうに優しいの。
答えが出ないまま、胸の奥に小さな痛みだけが残った。
◇
昔のことを、少し思い出していた。
名前を呼ばれた記憶は、ほとんどない。ただ「おい」とか「それ」とか、「黙って働け」とか、そんな言葉ばかり。
触れられるときは、いつも乱暴だった。声は命令の道具でしかなくて、そこに感情はなかった。
叱られたことは数えきれないほどあるのに、褒められた記憶は一度も浮かばない。
食事は冷えていて、味もろくにしなかった。眠る場所は床に近くて、朝になると背中が痛かった。
ただ生きるだけだった。ただ、そこにいただけだった。
◇
でも、今はちがう。
リディアは、初めて会ったとき、私を見下ろさなかった。名を尋ねてくれて、私が答えなかったときも、それ以上追及しなかった。
部屋には柔らかな寝具があって、窓の外には花が揺れていた。
風が吹くたび、かすかに葉が擦れる音がして、何でもない音なのに、どこか懐かしくて、胸が痛くなった。
朝には、私の好みに合わせた食事が用意されていた。使用人がそう話していた。……きっと、リディアの指示だ。
私は“買われた”はずなのに。
彼女の目には、そういう色がない。所有物を見る目じゃない。
距離を取ってくれる。触れようともしない。怒鳴ることも、命令することもない。
その手が差し出されたとき——
温かいと思ってしまった。差し出されたその手が、怖くなかった。
ほんの少しだけ、このままでもいいのかもしれないと、思ってしまった。
でも。
その気持ちが芽生えてしまったことが、今は一番、怖い。
信じたいと思ってしまっている。知らないうちに、心が、少しずつ揺れている。
私を“あの場所”から救ってくれたこの人を、私はもう、“恐ろしい人”だとは思えない。
その事実だけが、どうしようもなく怖かった。
怖いと思っても、なぜか胸の奥では、あの人の声や仕草を思い出そうとしてしまう自分がいて——
そのことに気づくたび、私はまた、ひとりで震えてしまう。
それはたぶん、この心を、もう誰にも壊されたくないと思いはじめているから。
優しさに触れて、信じてしまいそうになっている自分が、何より怖い。