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閉じた瞳の国  作者: 澄吹
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触れられなかったぬくもり

 「ありがとう」なんて、言うつもりじゃなかったのに。


  言葉が口をついて出た瞬間、自分でも驚いて、胸がずっとざわついていた。布団に入っても心臓の音がうるさくて、まぶたを閉じても、あの声の余韻が耳の奥から離れない。

 顔の火照りは収まらず、枕の冷たさにも逃げ場はなかった。心臓の音が耳の奥で響くようで、布団に潜っても火照った頬の熱は引かず、眠れないまま夜が過ぎた。


 思い返せば、リディアはあのとき、ほんの一瞬、目を見開いて——それから、微笑んだ。


 とても優しくて、まるで何かを許すような、包みこむような目だった。

 叱られるでも、試されるでもなく、ただ「そこにいる私」を見つめてくる瞳だった。

 そんな目を向けられたのは、たぶん、生まれて初めてだった。


 どうして、あんなふうに笑うんだろう。どうして、あんなふうに優しいの。


 答えが出ないまま、胸の奥に小さな痛みだけが残った。



 昔のことを、少し思い出していた。


 名前を呼ばれた記憶は、ほとんどない。ただ「おい」とか「それ」とか、「黙って働け」とか、そんな言葉ばかり。


 触れられるときは、いつも乱暴だった。声は命令の道具でしかなくて、そこに感情はなかった。


 叱られたことは数えきれないほどあるのに、褒められた記憶は一度も浮かばない。


 食事は冷えていて、味もろくにしなかった。眠る場所は床に近くて、朝になると背中が痛かった。


 ただ生きるだけだった。ただ、そこにいただけだった。



 でも、今はちがう。


 リディアは、初めて会ったとき、私を見下ろさなかった。名を尋ねてくれて、私が答えなかったときも、それ以上追及しなかった。


  部屋には柔らかな寝具があって、窓の外には花が揺れていた。

 風が吹くたび、かすかに葉が擦れる音がして、何でもない音なのに、どこか懐かしくて、胸が痛くなった。


 朝には、私の好みに合わせた食事が用意されていた。使用人がそう話していた。……きっと、リディアの指示だ。


 私は“買われた”はずなのに。


 彼女の目には、そういう色がない。所有物を見る目じゃない。


 距離を取ってくれる。触れようともしない。怒鳴ることも、命令することもない。


 その手が差し出されたとき——


 温かいと思ってしまった。差し出されたその手が、怖くなかった。


 ほんの少しだけ、このままでもいいのかもしれないと、思ってしまった。


 でも。


 その気持ちが芽生えてしまったことが、今は一番、怖い。


 信じたいと思ってしまっている。知らないうちに、心が、少しずつ揺れている。


 私を“あの場所”から救ってくれたこの人を、私はもう、“恐ろしい人”だとは思えない。


 その事実だけが、どうしようもなく怖かった。

 怖いと思っても、なぜか胸の奥では、あの人の声や仕草を思い出そうとしてしまう自分がいて——

 そのことに気づくたび、私はまた、ひとりで震えてしまう。

 

 それはたぶん、この心を、もう誰にも壊されたくないと思いはじめているから。


優しさに触れて、信じてしまいそうになっている自分が、何より怖い。

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