言えたこと、聞けたこと
夜の帳が下りた書斎で、暖炉の炎が静かに揺れていた。薪のはぜる音が、ページをめくる音にそっと重なるグラスには半分ほど紅茶が残り、カップの縁に蒸気がかすかに立ちのぼっている。
私は、ソファの上で本を膝に置いたまま、ぼんやりと火を見つめていた。
今日もまた、フィオは私の目をまともに見てはくれなかった。
朝、ほんの少し微笑んで「おはよう」と声をかけたときも、彼女は気まずそうに視線を外した。それでも、口元がほんのわずかに動いたような気がして、それだけで少し安心してしまう自分がいた。
ほんの一瞬の、かすかな揺らぎ。
それでも私は、それにすがりたくなる。
心のどこかで、あの子が少しでも何かを返してくれたのなら、それだけで一歩近づけたような気がしてしまう。
けれど実際には、私たちの間にはまだ深い距離が横たわっている。
優しい言葉も、微笑みも、今の彼女には届いていないのかもしれない。
——それでも、ほんの小さなきっかけに気づいたのは、三日前の朝のことだった。
私は食堂には入らず、食事の様子を少し離れた席から見守っていた。フィオはスープにもパンにもほとんど手をつけなかったが、ひときわ長く目を留めていたのが、あの層の多いバターのパン——クロワッサンだった。
食後、片付けに来た若い使用人がぽつりと呟いた。
「……あの子、クロワッサンだけ少しだけかじってました。ひと口ほどですけど……他のは、ほとんど残してました」
それを聞いて、私は次の日から厨房に頼んで、クロワッサンを朝食に必ず用意するようにしてもらった。
もしかすると好みだったのかもしれないし、たまたま目に留まっただけかもしれない。
……たとえそれが偶然だったとしても、もし彼女がもう一度あのパンに手を伸ばしてくれるのなら——それだけで、私は救われるような気がしていた。
炎がぱちりと音を立てる。
その音が、妙に大きく響いた。
——コン、コン。
扉をノックする音が、静寂を破った。
「どうぞ」
応えれば、戸が静かに開いて、グレイスが湯気の立つティーポットを運んできた。
「夜更かしはお肌に毒ですよ。当主様」
くすりと笑いながらカップを差し出す彼女に、私も微笑んで頷いた。
「……ありがとう。グレイス、今日の朝食、あの子は食べてくれた?」
「ええ、よく召し上がってましたよ。リディア様のご提案通り、あのパンにして正解でしたね」
私はその言葉に、小さく胸をなでおろした。
「よかった……」
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも心を軽くするのだろう。
「まだ少し、距離の取り方を探していらっしゃるようでした。でも……目をそらすような様子は、今朝はあまり見られませんでしたよ」
グレイスの言葉は、静かな湯気のようにやわらかく、胸に落ちてきた。
私はそっとカップを受け取りながら、小さくうなずく。
それだけのことが、こんなにも嬉しく思えるなんて、自分でも少し不思議だった。
「……そう。なら、少しは……届いているのかもしれないわね」
声に出してみると、ほんのわずかに肩の力が抜けた気がした。
私は静かに紅茶に口をつけた。
「焦っても、距離は埋まらないものね」
グレイスは、ほんのわずかに目元を和らげた。
小さな微笑みが浮かんだ気がしたが、それはすぐに表情の奥へと沈んでいった。
静かにカップを整え、ひとつうなずくと、気配を残さぬように部屋を後にする。
その足取りには、ことさら何も語らずとも、そっと寄り添うような気遣いがあった。
グレイスが退出し、再び静けさが戻った頃だった。
——コン、コン。
控えめなノック音。そこにいることを気づいてほしいのか、気づかれたくないのか——そんな遠慮がちな音。
私は少し首を傾げた。こんな夜更けに誰が、とも思ったが、なぜか胸の奥が微かに高鳴っていた。
静かに立ち上がり、戸口に向かう。
ドアノブを回して扉を開けると、そこにいたのは——
「……フィオ?」
廊下に灯る小さな明かりのもと、金の髪がかすかに揺れていた。
彼女はうつむいたまま、ケープの端を両手で握りしめている。細い肩が、緊張でわずかに上下していた。
何かを言おうとして、口を開きかけ、それでもすぐに閉じる。けれど、やがて決意を固めたように、ほんの少し顔を上げた。
「……今朝の、パン……ありがとう」
その声は掠れるほどに小さかったけれど、確かに届いた。
それだけ言って、彼女はすぐに身体を翻そうとする。
けれどその一言は、胸の奥にじんと染み込んできた。暖炉の火より、ずっと優しく。
「……フィオ」
思わず呼び止めていた。
彼女が振り返ることはなかったけれど、立ち止まってくれる。
その背が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「おやすみなさい。また、明日」
返事はない。
それでも、その背中にはどこか、硬さの取れたやわらかさがあった。
私は扉を閉める前に、そっと胸に手を当てる。
——ありがとう、を、伝えてくれて。
たったそれだけの言葉が、こんなにも嬉しいなんて。