やさしさのかたち
朝の光が厨房の小窓から差し込むころ、私はいつものように手を動かしていた。釜に火を入れ、湯を沸かし、リディアお嬢さんの朝食を用意し、使用人たちに今日の段取りを伝える。
ばたばたと動き回る私の視界の隅で、小さな影がそっと動いた。
「……おはよう。起きてきたのかい?」
扉の影にいたのは、金色の髪のあの子——フィオ。薄手のケープを羽織ったまま、足音も立てずに佇んでいる。目が合うと、彼女は少しだけ身を引いた。
「起きたてにしちゃ、顔色がいいじゃないか。少しは眠れたかい?」
問いかけには答えず、彼女はうっすらと首を振る。その仕草があまりにも静かで、まるで風に揺れる草花のようだった。
私は釜の火を見ながら、彼女に向かって小さく笑ってみせた。
「お嬢さんはもう食堂だよ。今日は議会のない日だから、午後は庭に出るってさ」
それでも返事はない。けれど、彼女は一歩だけ近づいてきた。そして、積み上げられた洗濯物の山をちらりと見た。
「……畳むの、手伝おうか?」
声は小さかったけれど、はっきりと聞こえた。
私は驚いたふうに目を瞬かせて、それからにんまり笑った。
「そりゃ助かるね。けど無理はするんじゃないよ」
静かな午前の陽だまりの中で、私と彼女は無言で洗濯物を畳んでいった。布の擦れる音だけがやさしく響く。
彼女の手は、ほんの少し震えていた。
それでも一生懸命に、丁寧に、布を角と角で合わせようとしている。
時折、畳み方が分からないのか、手が止まり、私の手元をちらりと見ては真似をしていた。
洗濯物を“畳む”という、ただそれだけのことにすら、彼女は慣れていない。
それが、どんな環境で生きてきたのかを、無言で物語っていた。
私は何も言わず、同じリズムで手を動かし続けた。
静かな午前の陽だまりの中で、私と彼女は無言で洗濯物を畳んでいった。布の擦れる音だけがやさしく響く。
洗濯籠を運んでいるとき、ふと彼女の目が窓の外にとどまった。
石畳の小道の先、屋敷の中庭に面した厩舎の前に、リディアの姿があった。
手にはバスケットを抱えていて、その中から人参を一本取り出し、ゆっくりと老馬の鼻先に差し出している。馬は嬉しそうにリディアの肩に顔を擦りつけた。リディアは小さく笑い、前髪を乱されながらも穏やかに撫で返していた。
「……あの馬、もう十年以上になるんだよ。若い頃は騎馬訓練にも使われてたけど、今じゃ足も弱ってる。けど——」
私は手を止め、布越しにフィオの視線の先をなぞるように見た。
「あのお嬢さんは、今でも毎朝のように餌をやりに行く。お世話係に任せりゃいいのに、自分でね」
フィオは黙っていたが、少しだけ視線が長くその光景にとどまっているのが分かった。
ただの興味——ではなかった。
その目は、何かを確かめるように見つめていた。
人に優しくするというのは、本当のことなのか。
見返りを求めずに手を差し伸べる人が、本当にいるのか。
その答えを、彼女はあの姿から探そうとしているのかもしれない。
私は洗濯物をたたみながら、そっと目を細めた。
——いいんだよ。
すぐに信じられなくても。時間をかけて、少しずつでいい。
「……あのお嬢さんね、子どものころから、ほっとけない子だったよ」
私はタオルを畳みながら、少し笑って続ける。
「屋敷の下働きが風邪をこじらせたときなんてね、夜中ずっと、その子の部屋でおでこを冷やしてた。医者が来るまで、自分のご飯も食べずにさ」
「……じゃあ、今、私にしてくれることも……」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「本当……なの?」
その声は、かすかに揺れていた。
誰かの言葉や優しさを、何度も裏切られてきたのだろう。そのたびに、信じたいという気持ちごと、切り捨ててきたのかもしれない。
だから今も、目の前に差し出された温かさを、どうやって受け取ればいいのか分からずにいる。
“優しさ”というものの形を、もう一度思い出そうとしている——
その言葉には、そんな祈るような響きがあった。
私はしばらく考え、それから微笑んだ。
「優しくされて、困ってるかもしれないね。でも、あの子はそうするしか知らないのさ。昔っから、そういう子だった。」
「あんたが思ってるよりは、ずっとまっすぐな子だよ」
その日の夕暮れ、私は廊下の端で、ふとフィオが立ち止まっているのを見た。
彼女の視線の先には、リディアお嬢さんの部屋の灯りが、淡く揺れていた。