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閉じた瞳の国  作者: 澄吹
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扉の向こうで

朝の光が、厚手のカーテンの隙間からこぼれていた。


 その光の中、少女はベッドの端に腰掛けたまま、静かに佇んでいた。


 白い寝巻きに身を包み、背筋を伸ばしている姿は、どこか緊張を含んでいる。

 けれど、それでもあの夜より、少しだけ表情が柔らかくなっているように見えた。


 隣にいるのは、私の乳母でもあった老女中、グレイス。

 彼女は今、温かいお茶の入ったカップを盆に乗せて、少女の前にしゃがみ込んでいた。


 「寒くないかい? あんたの寝てた部屋、北向きだったろう?」


 少女は何も言わない。

 だが、小さく首を横に振った。


 その仕草に、グレイスは優しく目を細める。


 「そうかい。あったかいスープ、あとで持ってきてあげるよ。好きなもんがあったら、こっそり教えておくれ」


 私は廊下の角に立ち、その様子をそっと見守っていた。


 ——やっぱり、彼女にはグレイスが合っている。


 グレイスは白髪をすっきりとまとめた、柔らかな雰囲気の女性で、屋敷の使用人たちを束ねる立場にある。

 けれど私にとっては、今も昔も、かけがえのない“家族のような人”だった。


 少女——フィオが、はじめて言葉らしき反応を見せたのは、屋敷に来て三日目のこと。


 それまでの彼女は、どんな声掛けにも反応を見せず、誰が来ても無言を貫いていた。

 しかし、グレイスが熱いスープを持って来たその日。

 彼女はほんの少しだけ、手を伸ばしたのだ。


 それを見たとき、私は心の底から安堵した。

 同時に——小さな棘のような痛みが、胸を突いた。


 


 私が話しかけたとき、フィオは一度も目を合わせようとしなかった。

 今朝も、部屋の前で声をかけたが、返ってきたのは沈黙だけ。


 どれだけ丁寧に、どれだけ優しく言葉を尽くしても、彼女の心の扉は開かない。


 ——当たり前だ。


 私は、彼女にとって「買った人間」にすぎないのだから。


 


 その夜、グレイスが私の部屋にお茶を運んできた。

 私はベッドの上に膝を抱えたまま、軽くため息をついた。


 「……どうして私には、目を合わせてくれないのかしらね」


 答えなんて分かりきっているのに、気のおける相手だからか、思わず尋ねてしまう。

問いかけに、グレイスはそっとティーカップをテーブルに置き、私の隣に腰を下ろした。


 「子どもというのは、実に目が利くものでございます。大人がどんな顔をしているか、その奥まで見ておりますよ」


 「私、そんなに怖い顔をしているかしら?」


 「いえ、お嬢様は——怖いくらい、優しゅうございます」


 私は驚いてグレイスを見た。


 「昔からそうでした。小鳥が巣から落ちていれば、手のひらで包んで泣いていた子でございます」


 「……そんなこと、あったかしら」


 「お嬢様にとっては、きっと自然なことだったのでしょう。だからこそ、今もあの子の前で手が震える。声が揺れる。……あの子、気づいておいでだと思いますよ」


 私は、静かに紅茶に口をつけた。


 少し冷めかけていた液体に、自分の顔がかすかに映った。

 不安そうな、少し情けない顔。


 「……フィオは、私を許してくれると思う?」


 「許すかどうかは、その子ご自身が決めることでございます。ですが——」


 グレイスはゆっくりと立ち上がり、窓の方へ目を向けた。


 「お嬢様が“まだ目を背けていない”のでしたら、きっと伝わる日が参りましょう。お嬢様は、そういう方でございます」


 


 私は、静かに頷いた。


 けれど、ふと笑い混じりに言葉を継いだ。


 「……ねえ、グレイス」


 「はい、何でございますか?」


 「昔はもっと、砕けた口調で話してくれてたのに。私にだけ、そんなに敬語で距離を取るの?」


 グレイスは肩をすくめて微笑んだ。


 「当主様にくだけた口など、利けませんよ」


 「昔は怒鳴られたこともあるのに」


 「“おてんば姫”の頃は、そういうお付き合いもございましたが……今は、そうはいきません」


 ふっと、私は笑った。

 けれど、その笑いの中には、どこかしら寂しさが混じっていた。


 


 私の周囲には、今や“敬意”と“役割”しかない。


 皆が、私の名前ではなく、「当主様」として接してくる。


 それが当然で、正しいことなのだろう。

 でも——


 ときどき、ふと、深い海の底に沈んでいるような孤独に襲われる。


 そのことを、口に出せる相手すら、もう数えるほどしかいない。


 「……ありがとう、グレイス」


 「いつでも、何なりと。お嬢様」


 グレイスが部屋を出ていくと、私は一人、ベッドの縁に座ったまま、しばらく動けなかった。


 屋敷の外では風が鳴いている。

どこか遠く、誰かが呼ぶような音にも聞こえた。


 


 あの子は——フィオは、あの風の中からやってきたのだろうか。


目を閉じ、私はそっと呟いた。


 「……おやすみ、フィオ」


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