名前を持たない少女
扉の前で、私は一度、息を吸い込んだ。
何もかもが落ち着いたようなふりをして、立っている。
だが本当は、今にも膝が笑いそうだった。呼吸も、浅い。
この手でドアノブを握る。金属の冷たさが、皮膚に沁みた。
——買ってしまったのだ。
この手で、人を。
その事実が、ずっと胸の奥に刺さったままだった。
他の誰でもない、私が。私の意志で。
それでも。
このままにしておくよりは、まだマシだと信じた。
だから、扉を開けた。
部屋は静かだった。照明は最低限、薄いカーテンが月の光をゆるやかに受けている。
部屋の奥——椅子に、彼女は座っていた。
白いドレスの裾は泥と埃にまみれ、足首には赤く擦れた鎖の痕。
けれど、その肌はどこまでも白く、壊れそうに繊細で、
金糸のような髪が肩に散っていた。まるで——ガラス細工の人形のようだった。
その身体は、じっとしているようで、かすかに震えていた。
怯えているのが分かった。体を小さくして、視線を落として、呼吸さえ押し殺すように。
見ているこちらの心が、きゅう、と縮こまった。
誰が、どんなふうに、彼女をここまで追い詰めたのだろう。
あの空のような瞳に宿っていた光は、今はどこにも見えなかった。
「こんばんは」
声をかけながら近づく。できるだけ優しく、柔らかく、何も傷つけないように。
少女の肩が、かすかに震えた。
私は椅子の前で膝をついた。目線を合わせるため。
「驚かせてごめんなさい。あなたに無理をさせるつもりはないの。……ただ、あなたのことを知りたい」
それでも、彼女は顔を上げない。
何も話さない。けれど、逃げるような気配はない。
それが唯一の救いだった。
私は、そっと彼女の前に手を差し出した。
「名前を、教えてもらえる?」
その手が——小さく震えていた。
自分でも気づいて、慌ててもう片方の手で抑えた。
気づかれたくない。
彼女に、不安や動揺を感じさせたくない。
ただ、優しくありたかった。
彼女にとって、最初に優しさを向ける人間でありたかった。
けれど、彼女は黙っていた。
——やっぱり、そうだよね。
それが、当然の反応だと分かってはいた。
それでも、胸の奥が痛くなった。
オークションオーナーの言葉が、頭の中に蘇る。
「あなたも結局、買われたではありませんか」
「私から見れば、お仲間ですな」
——私も、あの子から見れば“同じ”なのだろうか。
買われる側からすれば、優しさや正義なんて、ただの言い訳なのかもしれない。
「……そう」
私は小さく息を吐いた。
名前を教えてもらえない——それは当然のことだと頭では分かっているのに、胸の奥はどこか、ぽっかりと空いたようだった。
信じてもらえていない。それが、こんなにも重くのしかかるなんて。
けれど、だからといって、彼女を番号や記号で呼ぶようなことはしたくなかった。
雑に扱いたくない。たとえほんの少しでも、尊厳を取り戻せる呼び方でなければ——。
「なら……」
「呼び名だけでもつけさせてもらっても、いいかしら?」
少女は、わずかに顔を上げた。
その瞬間、目が合った。
蒼天の欠片のようなその瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
何かを測るような、探るような視線。けれどそこに敵意はなかった。
ああ——やっぱり、美しい。
けれどその美しい瞳はすぐ伏せられてしまった。
それでも、それは拒絶ではなかった。
「……フィオ」
思いついたままに口にしたその名が、部屋の空気に落ちた。
「小さな花の名前よ。……この名前が似合いそうって、見た瞬間から思ってたの。柔らかくて、でも儚くて……あなたが傷つけられたまま、呼び名すら持てないなんて、私には耐えられなかったから」
少女の指先が、膝の上でかすかに動いた。
そのわずかな動きが、なぜか胸に沁みた。
「今夜は、ゆっくり休んで。部屋の前に人をつけるけれど、扉は開け放しておくわ。……怖くなったら、呼んで」
そう言って、私は立ち上がった。
出口へ向かう途中、少女の方から声が届くことはなかった。
けれど、扉を閉める寸前。ふと振り返ったとき——
彼女はじっとこちらを見ていた。
その瞳に浮かんでいたのは、信頼ではなかった。
むしろ、疑いと、かすかな怯え。
——けれど。
今夜、この子はここにいる。
あの場所ではなく、この屋敷に。
それだけは、間違っていなかったと。
自分にそう言い聞かせて、私は静かに扉を閉じた。